遠く深く離れゆく光−今井智己写真展「『十年』−A decade」
石田瑞穂
桜もちりつつある東京浅草から蔵前へ。コロナによる緊急事態宣言がやっとあけて、若き詩人の二宮豊さんと、ひさしぶりに遊んで、呑もう、ということになって。
正午、江戸前蕎麦の老舗〈並木藪蕎麦〉のまえで、やあやあ、と二宮さんと再会。そのまま暖簾をくぐる。
コロナ禍以前のインバウンドのころの並木藪蕎麦は、毎日、交差点まで人列ができ、おちついて蕎麦をすする気分にはなれなかった。ところが、いまは空席ができるほど。小あがりにふたりで腰かけ、まずはビール、それから、並木藪といえばの菊正宗樽酒を所望する。
漆塗りの焼海苔器に数枚つつましく盛られたぱりぱりの浅草海苔を肴に一杯、小海老と桜海老だけの江戸前天でお銚子が一本あく。Less is moreの美学。せいろうを一枚、二枚とかさねるうちに、またお銚子が一本あいた。江戸前蕎麦は〆ではなく呑みながらすする。せいろう一枚きりで食了るのは粋ではなくて、蕎麦の笊を二枚、三枚と重ねてすするのが流儀。そして、長居はしない。
格子窓から墨田の春風がはいってきた。柳の新芽がきらきらとそよいで、蕎麦つゆの香がふうわりたつ。友と酒を酌み交わす幸せをあらためて噛みしめる。
ぼくらは、ほろ酔いの満腹で、フォトギャラリー〈空蓮房〉へとそぞろ歩いて向かったのだった。
今井智己「『十年』−A decade」は〝3.11〟、二〇一一年三月十一日午后二時四十六分におきた東日本大震災と、福島第一原発のメルトダウンからはじまる「十年」を撮影した写真作品展である。
今井は、倒壊した福島第一原発〝建屋〟の背にひろがる阿武隈山系を尾根伝いに歩きつつ、十数か所のポイントから、地図と方位磁石をたよりに建屋の方角をむいてシャッターをきりつづけた。
繭の白い内面を想わせる、日本の茶室の間取りにちかい空蓮房の壁面ぞいに、額もタイトルもなくただ撮影日だけが付された一連の写真作品が、細いワイヤーで宙吊られている。奥の水屋のような展示室には、額入りの大判作品と、プロジェクトの概要とドキュメントが流れる液晶ヴィジョンが対面で展示されていた。
ワイヤーで吊られた最初の写真には、「2011.4.21」の日付がある。今井は、原発事故の周囲二十キロ圏内が立入禁止区域化される一月前に、この写真を撮ったのだった。
その一枚には、東北の春霞の空、阿武隈の雄大な山並の奥に、かすかに福島第一原発のある陸地がみえ、消尽点のさらにむこうに、津波が大勢の生命を奪った、東北の冷たく澄んだ碧緑の海がわずかにみえる。写真は、人の視線からみると、静かにすぎる時の流れを奏でている。
震災から二年が経過した「2015.3.11」の作品には、シルエットになった雑木林のあいまから、おなじく霞んだ空、コバルトの海と白波、遠景からは窺い知れないタテヤらしき建造物が、もうすでに、何事もなかったかのように白い点になって写っている。
時を経るにつれ、各撮影ポイントを夏の緑や冬の裸枝が繁茂して覆う。建屋への視線を遮る。無人になった土地に大自然だけが、美しい威声をあげて帰還してくる。
印象にのこったのは、撮影対象とともに写真作品の表情だった。今井は一眼レフカメラと三脚を担いで撮影ポイントを彷徨し、ファインダーにおさめたはずだが、作品はどれもスナップ写真のように軽い質感で、フラットな表情をしているのだ。
そうした連作写真にたいし、唯一額装された最後の〝作品〟が、静謐な異光を孕んでいた。
それは、今井智己がすべての作品を撮り了え、下山した瞬間に出逢った光景だったという。
全体は、一日の光がついえる直前の、仄蒼いトーン。そこはなんの変哲もない無景観の湿地で、水鏡の内側へ、枯れ葦が祈るようにたおれこんでいる。泥水からつきでた石塊や枯れ草のうえには、微光がふりそそいで、ぼくの視線にはその色彩が雪とも灰とも映った。
全体のなかでその写真だけが、明確に、構成と重量感をもっていた。
写真の繭を想わせる空蓮房で、独り、今井智己の写真とむきあっていると、こんな言ノ端が降ってきた。
光自身にもみえない光がある。
今井智己が展示に寄せた言葉−写真の記憶は「遠く深く離れていく」−とともに。
写真は光を受胎、いや、代胎するが、光景に欠けているなにかを補い、償い、現在の犯す過ちを匡すのではない。写真はそのように存在しているそのままの光景へと移り=写り住み、その〝現像〟の最中、代替行為はみずからの主体も場所も知ることがない。
今井智己の写真作品、あるいは光景の代胎は、あらゆる存在の独自の生起がつねにすでに共通のものである、と、震災の「十年」をこれからも抱きしめる。
(今井智己写真展「『十年』−A decade」 2021年3月3日-4月23日 於・ギャラリー空蓮房/東京蔵前)
〈連載エッセイ「眼のとまり木」第1回〉
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