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ミニ四駆超速グランプリを終えて⑥-3

その6-3 チームのことあるいは一人のレーサーの終わり

この文章はBAD ENDで締めくくられる。

『X-Over』の船出は順風満帆に進んだ。
元々が友好チーム同士の合併であり、自己紹介の必要も無いほどにスムーズに融和した。
Twitter(現:X)でも大々的に広報し、界隈の様々な人達からたくさんの祝福コメントや「いいね」をいただいた。
私は頼み込む形でこちらでもリーダーを任せてもらうこととなった。

『X-2』でやりたかったこと、やれなかったことをやる。
『X-2』よりも強く、何よりも楽しいチームを作る。

そんな風に強く思いながら責任を持って取り組んだのを覚えている。

今だから言えるけど目標のチームがいた。

そのチームは『PinkyStyle_Tokyo』

ピンクでゴールドな有料チーム

『東京t_g』時代からの盟友であったPitこそ、当時の目標であり
いつか倒すべきターゲットとして見据えていた。
いわゆる「ぜまそつ」だった。

Pitのリーダーたかしのカリスマは本物だった。

かりすま

『東京t_g』として各種大会で名を馳せたチームを絶頂のうちに解体
当時の最高峰チームである『ES』へと単身加入。
更にはその「ESを倒したい」と脱退するや『PinkyStyle_Tokyo』を創設した。

電撃的というに相応しい行動力と抜群のコミュニケーション能力が眩しかった。
正直うらやましいなと思ったりもした。

そんなカリスマリーダーの元にはどこからともなく強者が集い
隣にいたと思っていた『Pit』は瞬く間に遥か高みへと登って行ったのだった。

…まぁ、仰々しいけれど
当時はそんな感じの高っかいイメージで見てた。
特に、界隈で「速い」と言われるレーサー達がこぞって入っていく様は
「読売かちくしょう」とハンカチを噛みしめたりもした。

チームとして明確な差を感じた。
ユーザー減少が進む超速グランプリ界隈で人材の確保は本当に大変だった。
人的補強が出来ないのならば地力を鍛えるしかない
ユーザー大会にやはり『X-2』時代のように首を突っ込みまくるしかなかった。

コースさえ作れればな、と嘆いたことも数知れずあった。
嘆くだけでやらなかった事は罪だったなと今でも悔いている。

独自にチーム対抗戦をブッキングしたこともあった。
『X-fight』と銘打った1on1の対戦で
チーム間交流も併せて行えて、これはやってよかったなと自負できる。
あの時、募集に応えてくれたいくつかのチームには心からの感謝を送りたい

この試みも、いつか『Pit』に挑み良い勝負をすることが最終目標だった。

そんな風にもがいてみても
刻一刻と変わりゆくゲーム環境はユーザーをどんどんふるいに掛けていく。
大型アップデートによる変化では飽き足らず、やがてはガシャに新しいパーツが加わる度にトレンドが移ろっていった。
「強くありたい」と願いつつも、ふるいに必死にしがみつく事がやっと
この頃と言えばチーム内でもレースの度に「あれが無い」「これが足りない」と、そんなセッティング以前の諦めが多く聞こえてくるようになってしまっていた。

楽しくないな、と思うことも増えた。
心が諦めを受け入れるのに慣れ始めてきた。
葛藤と共に焦りが募っていった。

それでも何とか戦いたいと思う大会があった。

『Dr.cup』

主催はその名の通りDr.course
『X-2』時代から欠かさず参加してきた思い出深いこの大会には
『Pit』をはじめ、超速グランプリの中心と言えるチーム達がこぞって参加した。
レース形式はエディットカップ。
当日にコースが発表され、レースまでの短い時間でセッティングを組み上げなくてはならなかった。

結論から言うと
その大切な大会の初日に、私はキレてチームから逃げ出した。

理由は
短い時間にセッテイングを行わなければと焦る中で、走る人も決まっていない中でディスコードで発した言葉に誰からも返事が無かったこと。

偶然だったのかもしれないし
タイミングが悪かったのかもしれない。
もう少し待てばよかったのかもしれない。

けれどあの時はそんな考えは毛頭思いつかず
ただカッとなり、最も愚かで短絡的な方法を取ってしまった。

その後数日は、よく覚えていないが大会に関わる全てをシャットアウトして過ごしたように思う。
台無しにした大会に顔向けが出来なかった。

徐々に冷静になった頭で謝罪文を書き


そこで私の超速グランプリは終わりを迎えた。



最終回につづく。

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