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世界が妻籠宿のようだったら

過日、NHK「72時間」にも取り上げられた中山道の宿場道を2日間に渡って歩いた。
初日の朝。JR中津川駅から馬籠行のバスに乗る。車中のほとんどが外国人観光客だ。停留所を降り石畳の急坂を登ると、宿場町の面影を残しながらも整備された町並みが姿を現した。

その中心には、この地で生まれた文豪、島崎藤村の記念館もある。彼の代表作「夜明け前」の冒頭文はあまりにも有名だ。

木曽路はすべて山の中である

宿場街を抜けると高台に出た。目の前に日本百名山に数えられる恵那山がそびえている。ここが本格的な妻籠宿へのスタート地点。ストレッチをしているご高齢のご一行を微笑ましく眺めていた私たち夫婦だったが、ストレッチをしなかったことをやがて後悔することになった。

「72時間」の印象から、馬籠と妻籠の間をつなぐ8キロの道のりはなだらかな渓谷だと思い込んでいたが、馬籠宿と馬籠峠の標高差は約200メートル、妻籠宿と峠の標高差は360メートル。そう、ここは「山の中」なのだ。延々と続く坂道も、想定していないと尚更キツさを感じる。2つの宿場の中間地点にある休憩所手前の急坂(往路は下り)では、妻籠方面から登って来たご婦人が「まだ、この坂続くの~」と息も絶え絶えになっていた。

その急坂を降りきったところにあるのが「72時間」の主な舞台となった休憩所。ここは「一石栃立場茶屋」といって、江戸中期に建てられた。

「立場(たてば)茶屋」とは、宿と宿の中間にある休憩所という意味だ。歩くと、なるほどひと休みしたくなる絶妙の位置に在ることがわかる。現地の方々が休息に訪れる旅行客にお茶をふるまってくださる。囲炉裏のある薄暗い空間で温かいお茶を口に含むと、疲れた体が癒されていく。机には馬籠や妻籠に関するアンケートが置いてあり、様々な国から訪れた旅人たちは皆、茶への返礼の気持ちを込めるように書き記している。そこに書かれた言葉が、この土地にとって何よりの活きたデータベースになっているのは間違いない。

私たちが訪れた時にいらっしゃった管理人の松原さんに、少しお話をお聞きした。馬籠宿・妻籠宿には、以前は年間3万人が訪れていたそうだが、コロナが明け、現在は5万人規模に。その7割が外国人だったが、「72時間」放映以降、日本人客も急増しているという。

街道を歩くと、すれ違う外国人旅行者の多くが、申し合わせたようにリュックに熊よけの鈴を付け、すれ違う時には日本語で「こんにちはー」と言う。おそらくガイドブックなどで心得として紹介されているのだろう。そこを訪れる旅人としてのルールを守ろうとする姿勢に、すがすがしい気持ちになった。

一石栃立場茶屋を出ると、大雨で崩落したであろう道路修復の影響で設けられた通常とは異なる迂回路の看板が表示されていた。その前で、どう行ってよいのか困っている外国人老夫婦に助けを求められ、妻籠までの道をしばらく案内することになった。スイスから来たというご夫婦は、東京で働く子供を訪ねがてら何回か日本の各地を旅行している、と話してくださった。

馬籠を出発して2時間。妻籠宿に着いた。そこは、旅行客向けに整備された馬籠宿(1895年と1915年の2度の火災で古い町並みは消失し、現在は復元されたもの)とは異なり、往時の宿場町がそのまま遺されている。まるで江戸時代にタイムスリップしたようだ。馬籠から妻籠を踏破したご褒美がわりにビールで乾杯。

宿は、妻籠から少し馬籠方面に戻った“大妻籠”という集落にある「つたむらや」という民宿(予約した後に、ここも「72時間」に登場していたことを知った)。

養蚕農家を改築したため、部屋のある2階の廊下は天井が低く背をかがめないと通れない。川に面する側にはガラス窓は無く、網戸と障子のみ。しかし、目の前の渓流の音が何とも心地よい。部屋にはテレビも時計も無い。

宿に泊まっていたのは、全6組。そのうち4組が海外からのお客様だった。客間が食堂となっており、夕食と朝食の時には2組が向い同士に座って食事をする。日本人客が誰も備え付けの浴衣を着ていないのに、海外からの方々が全員着ていたのが可笑しかった。

この宿の売り物は、食材のほとんどすべてが自家製だということ。夕食時には“自家製どぶろく”で喉を潤し、養殖した信州サーモンや合鴨製法でつくったご飯に舌鼓を打った。量は多くなく見た目も地味(笑)だが、その分、まるで家にいるような安心した気持ちにさせてくれる。

夕食の時はぎこちなかった宿泊客同士の距離も、翌朝の朝食時には縮まり、ささやかな「国際交流」が始まった。日本人の女性客は、片言の英語で同席の外国人カップルに話しかけ、話しかけられた側は覚えたての日本語で返答して笑いあう。私たちの向かい側には、カリフォルニアから来たという(おそらく)アジア系の若いカップル。その初々しさからハネムーンで来たのだろうか・・・。日本には3週間滞在すると話してくれた。東京、大阪、京都といったお決まりのコースに加え、この馬籠・妻籠や山形の銀山温泉という少し変わり型の場所も含まれている。この宿も自分で探しまくって見つけたそうだ。

テレビが無い部屋ですることもなく、置いてあった妻籠宿にある南木曽博物館の図録を読んだ。思えば、この宿場の歴史をろくに調べもせずに来てしまったのだ。図録を読み、遅まきながら感銘を受けた。

かつては宿場町として栄えた妻籠は、明治以降の交通改革で宿場としての機能を失い、さらに昭和30年代の高度成長の波を受け、若者が外部流失するなどで過疎化の危機にあった時、観光開発としての集落保存案が提起された。そして、昭和43年(1968年)に正式に地元住民主導の保存事業が始まった(妻籠宿HPより)。その町並み保存の動きが、全国に広がっていった。同年に宣言された「妻籠を愛する会」には心意気に溢れた言葉が信条として残されている。

観光客の急増と共に妻籠は外来資本からねらわれています。
「貸さない、売らない、こわさない」の三原則を貫きましょう。

日本が明治以来取りつかれて来た「スクラップ・アンド・ビルド病」の限界が来ていることは、大きな問題となっている神宮外苑の再開発でも明らかだ。50年以上前に、そのことに気づき声を上げて来た妻籠の人々の行いは、2023年に生きる我々に大きな示唆を投げかける。

2日目は、昨日とは逆のコース(妻籠から馬籠)を辿った。初日よりも急な坂道もあるため、どれほど疲れるだろう・・・と危惧したが、思いの外スイスイと踏破した。朝早い時間でほとんど人と出会わずにゆったりとしたペースで歩くことができたことや、往路でコースをおおよそ把握していたことが幸いしたのだろうか。少し余裕を持って歩いため、江戸時代の旅人の気分に想いを馳せながら、周囲の風景を楽しむことができた。

しかし、この土地にも後継者問題が忍び寄っているようだ。「つたむらや」で、自家製法の食材を開発して来たご主人は75歳。手伝う息子さんは、どう後を継いでいくかは悩ましい・・・と仰っていた。休憩所(一石栃立場茶屋)では、江戸期からの建物を保存し続けることの難しさもお聞きした。歴史も文化も、世代を越えて「継承」されなければ続かない。

いま、誰もが生き方や職業選択に自律(自立)を求められる。その一方で、先人が遺したものを受け継ぐことの意味にも目を向けなければ、日本から大事なものが失われていく。

2つの宿場町を訪れる観光客には2つのタイプがあることもわかった。ひとつは、2つの宿場を街道沿いに徒歩で訪れるタイプ。こちらは、そのほとんどがおそらくヨーロッパ系。共通していたのは、自然を楽しもうとする穏やかな佇まいだった。トランプやイーロン・マスクは、決してここには来ないだろう。もう一方はバスで移動し、宿場だけを訪れるタイプ。こちらは中国などのアジア系が多い印象を受けた。スロー型かスピード型か。どちらの楽しみ方をするかは人それぞれ。しかし旅の楽しみ方は、それぞれが住む土地に流れる時間の速さが関係しているような気がした。

東京に戻った翌日、新宿駅のホームでスマホを見ていると、電車から降りた男性客が「どけ」とばかりのすごい勢いでぶつかり去っていった。ボーっとしていた自分が悪いと思いつつ、その後ろ姿に飛び蹴りをかましたくなる怒りを覚える自分がいた。都会はなんと殺伐としているのだろう。テレビも時計もなく渓流の音だけがする宿の部屋での時間は、東京からの距離以上に遠く尊いものなのだ・・・と、改めて身にしみた。

2つの宿場や街道への旅とは何だったのだろう。そこには、土地への敬意、国や文化を越えて触れ合う人同士の敬意、そして積み重ねて来た歴史への敬意が静かに流れていた。世界が、そうした敬意によって支えられているあの宿場町のようだったら、争いや断絶は起きないのではないだろうかと、ふと思った。

#中山道 #馬籠 #妻籠 #72時間



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