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おやすみ関係で悩んでいる方へ

最近、『不登校』関係の特集が多くて、わたしは結構もらっちゃいそうだな〜って思って、ダメなときは自分に必要な情報かもしれない思っても、あえて物理的に距離を置くようにして、見ません。
これは、不登校のこどもがいるご家庭でもやって欲しい。『見なきゃ』って思ってるときほどみないで欲しい。見て、受け入れられるときは『〜ねばらならない』論でそういう関係の情報に触れようとしません。
学校の先生にも、カウンセラーを目指す人も同じです。
『そういう職業なんだから、積極的に受け取らねばならない』って思ってるなら、その考えから脱却できるまでは避けましょう。

なぜなら、そういうひとは貰って自分が休んじゃうからです。
全然大丈夫なひとは、「みるか〜」程度の一見軽そうなかんじで、適切な距離でそういう情報と付き合えます。
だから、「みなきゃ!」って思う人は見なくていいです。

さて、体験論とか経験論って役に立たないから、「わたしはこうしたよ」って話はしない方がいいって、以前養護の方に言われたことがあります。

わたしの場合、自分の話をするときは「こういう考え方とかもあるんやで」っていうだけの情報のつもりで言っているのですが、まあ、結構「そんなのわたし違うもん」って、反発心が生まれることも、まああります。
そういうときは、文句を言ってくるひとには「はぁい、気をつけます」って言って聞き流してます。自分のすることに批判してくるひとって、結局いろんなものが「合わない」ひとなので、わたしのメンタルヘルス的には「害」でしかないんですよ。でも、言ってくるひとってそんなつもりないから言ってくる。「批判」じゃないのは結構聞きます。「自分はこうしてるよ」とか、そういうの。さっきも書きましたが、批判の特徴は「〜するな」っていう否定だけで、じゃあどうすればいいのか、よかったのかっていうのはなんもない。そこを一緒に考えたり、提案してくれるひとでないと「助言」ではなくただのクレーマーのクレームなので言わせておくだけです。言いたいだけなので放置です。


と、なんがあああく書いたところで、それでも誰かにかけてもらえてないことばを探しに来た愛おしき存在へ。

「今、自分が我慢して辛いのに、そんなじぶんよりつらいひとがいるなんて思うな。自分を可愛がろう」

いじょうですぅ



えって思った人は、わたしの解釈を書いておくので、気が向いたら読んでください。

 「喜びは2倍、悲しみははんぶんこ」っていって結婚するひといるけどさ、これって「嬉しいときも、悲しいときも、あなたが『無意識に欲しい言葉』を紡ぐよ」じゃないと意味ねえんすわ。
 この前、母が自宅でってなったときに、わたしが凄く「このヒトがいてよかった」って思った相手は、わたしの話を聞いて、単純に思ったことを言って、励まそうとか、応援しようとか、支えようとか、なにかわたしに作用させようと目的を持って言葉をかけてこないひとだったんです。肯定でも否定でもなく、ただただ「自分はそこまで考えられんかったから、凄いな」っていうだけのひと。そのひとも、べつに後悔も未練もないけど、わたしのやろうとしていること、心構えをそのまま受け入れようとしないで、「そういうもんだ」って受け止められる。これが案外難しいけど、このひとの言葉でわたしは「あ、わたしはこういうふうにわたしのことを扱ってほしかったんだ」って知ることが出来て、凄く救われたって変だと思うけど、物事を重く受け止めなくていいってホントにわかったと思う。だからって、じゃあわたしがこのひとにとってプラスに働く存在かって言うと、そこは難しいところで。だからこそ、お互い「なんか知らんけどいると落ち着く」とか「安心する」って気持ちは大事にしたいなあって思ってて、そういうひとたちが納まるととても嬉しい。

 カウンセリングを学んでいると、大体の手法のでだしが「肯定」とか「同調」とか「オウム返し」だったんですね。いまもこれやったらアカンと思います。共通のでだしは、「相手がどういう状況なのかをお互いが確認すること」だけなので、「助けたい、理解したい」っていうひとは、「余計なことはいわんと、相手が話しやすい雰囲気つくれや」ってだけです。じゃあどうやって作るの?って聞かれますが、「そんなもん相手次第やから知るかw模範解答欲しがんな」っていうのが極論だと思う。さっきの話でいくとな、お互いこのひとは「自分と合うか」っていうのが最重要ポイントなので、ここで変にカウンセラーに「わたしとあなたは相性がいいのヨ」って押し付けられてもねえ。
 ええの、カウンセラー養成講座でカウンセラーになって頑張ってる人はそれはそれで。だってそういうのも需要はあるから。ただ、勘違いしちゃいけないのは、「それは回答例であって、絶対的な答えじゃない」っていうことを知っていること。自分と合わないと思ったら、すぐ別の人に渡すこと。これをしないと、お互い不幸になればいいけど、最悪相談者だけ悪化するから、マジでやめて。カウンセラー養成講座のいちばん嫌いなところは、いろいろ言っておきながら「ウチの手法は万能なんです」臭を、いたるところで感じたからなんですね。それがわかっただけで受講した甲斐はありました。

 で、だいたいこういう人って恩着せがましいんすわ。わたしがそう思うだけだけど。でも、わたしがそう思っちゃったらもうダメ。カウンセラーチェンジで。オカンも過干渉でひどかった。わたしも、オカンが良かれと思ってやってる分、どうしようもなかった。オカンは、最期までわたしとオカンが「合わない」っていうのを受け入れられたかわかんないけど、合わないひとに固執すると、自分と合うひとがこの世にいないんじゃないかって相手に思わせちゃう可能性があるから、「なんでわかり会えないんだろう」って思ってもいいけど、無理に分かり合おうっていうのを辞めて欲しい。わかんないひとには、わかんないひとなりの役割があるので、「わかんないから関係ない」じゃなくて「わかんなくて良ければ係るよ」ってスタンスでお願いしたい。

「つらい」の話ね。
どうしても、病気のひととか「わたしが頑張らないと◯◯が悲しむから、わたしが辛くても頑張らないと」て思う人さ。
ね、あなたが辛いっていうことももちろんそうだけど、大事なあなたに「無理を強いること」が辛くないわけないだろう。
だから、辛いなら頑張るのやめよう。
ひとと比べられる大きさの辛さなんか存在しないよ。
だから、まずは、自分の辛いのを減らす努力をしよう。
出来ない我慢をするのをやめよう。
できることをしよう。
親はこどもが大好きで、何よりも大事だって思ってるかもしれないけど、こどもは自分を犠牲にしないとこどものことを大事にできない状況は辛いよ。自分が邪魔なんじゃないかって、生まれてこなかったほうが、親は犠牲をはらわないで済んだんじゃないかって考えるきっかけになるんだよ。
「親も辛いんだから、あんたも我慢して」なんて、聞かなくていい。するのは、お互いつらい我慢じゃなくて、どこまでだったら譲り合えるのか、お互いにハッピーになるためのすり合わせ。話し合いっていわない。たくさんたくさんお話して、価値観のすり合わせをする。んー、ちがうな。なんていったらいいかな。

いっちゃえば、
親もつらい
こどももつらい
そもそもそんな線引はおかしくて、ニンゲン誰しも「辛い」と感じるものは違うっていうところに、疑問を抱く余地はないと思うんだよね。
だから、自分の辛さを否定する必要もない。

「辛い」ってことばにするだけで気持ちが軽くなることもある。
「辛い」って言えないのが辛い。

だから、学校行くのも会社行くのも家事するのも「やりたくねえなあ〜」っていうのを、真面目に「どうしよう」って心配されちゃうと、「でもやらなきゃだよな〜やるか〜」ってなる気持ちが「心配かけちゃうから言わないようにしよう」になって「しなくていい我慢」が増える。
そうすると、ホントに辛いときに、言いにくくなっちゃうんだよね。

親指いたくなったからここまで。

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