「差別をなくそう」言うは易く行うは難し。男女、障害、国籍その他、区別があるだけで差別は自然発生するものなので、どうにもならんのだけど無視することもできない。とりあえず、「差別をなくそう」とする動きを分類して俯瞰して少しでも全体像が見えやすくなれば良いなという思考整理のメモ。 0.前提 上で書いた通り、区別できる時点で異なるものとして扱えるわけで、多数の人間で構成される社会において個々のそれぞれの振る舞いの累積が源泉となり対象ごとに扱いの差が生じるというのは不可避と言える。
順序立てて記載するが、一方通行ではなく相互的に補完し合う過程を経ることに留意。 1.収集期 情報の収集。見聞きし、体験し、感じ取る。生存している限りにおいて、常に何らかの情報が収集される。 2.思索期 収集した情報を情報という形で捉える。情報の解釈について労力を掛け、分類するためのまとまり(タグ)を生成する。解釈に該当するタグが存在する場合は、その一部として分類を行う。 3.予測期 複数生成されたタグで構成されるネットワークをもとに、収集される情報の予測を行う。予測に
ネタバレあり。映画『オッペンハイマー』を観てきた。ん?180分?長くね?と思ったが、その想像より5倍しんどかった。観客は平均年齢40~50代と割と年齢層高めであったが、途中で逃げるように立ち去った高齢の人数名、エンドロールでは立ち上がった人ゼロ。たぶん、しんどすぎた。 題材 オッペンハイマーは原爆の父として知られており、つまりこれは原子爆弾開発の映画である。被爆国である日本にとってはだいぶセンシティブな題材で、日本での公開が思いっきり遅れたのもそこが要因だろう。しかし公開
元日に大きな地震が起こり波乱を感じさせる2024年。その一つの余震からのはなし。 きっかけ 1月6日23時20分に発生した能登半島沖を震源とするM4.3の地震で震度6弱(計測震度5.6)が観測された。これは感覚的になかなかの外れ値で、そんな規模でも家が損壊するレベルの揺れになることがあるのかと驚いた。そして、震度ごとの最小マグニチュードを調べてみようと思った。 以下、調査には気象庁の地震データベース検索を使用、補助的にWikipediaを使用。2024年1月17日時点
なんか今月ひとつも投稿していないらしい。書くことがないのではない。北海道旅行の記事を書こうとして、途中まで書いて力尽き、放置してるのでnote開くと続きを書かなければならない使命感に苛まれ目を背けてしまっているのだ! はよ書け自分。
X(旧Twitter)で考えたのでまとめてみる。 概念 コミュニケーションを、情報を通貨とする経済活動として捉える。 外向-内向と発行枚数 コミュニケーションが多い=通貨の発行枚数が多いほど、流通量が増える。 コミュニケーションが少ない=通貨の発行枚数が少ないほど、流通しにくい。記念硬貨のようなものになり、貨幣価値が不安定となって扱いが難しくなる。 コミュニケーションにおいては、その量が扱いやすさに関わる。 情報の価値と扱いやすさ 市場においては、扱いやすさが貨幣
ロシアや中国のように、情報を統制し編集して制御するスタンスと、インターネット文化のように情報は自由になりたがるというスタンスの2値による情報の規制度合いの評価軸がある。自分はどっぷりとインターネット文化に浸って育ってしまったために規制されない情報に満ち溢れた世界で生息してきた。だから、情報に溢れた混沌として統制のない海からの視点に偏っている。 規制された情報 情報の海では、傾向が読み取れる。誰でも思いつくようなことは定期的に誰かが言ってるし、独特の視点は誰でも思いつきそう
流れてきたこの記事の質問に答えてみる。 「科学とは確かめるための手続きである」という定義で考えているので、発展する指向を持つものだと思います。そして、科学は人間の幸不幸を考えているものではなく、逃れられない強制力を持つ、人間の心情的には厄介なヤツだと思います。しかし、だからこそ、知るしかないとも思います。 少なくとも自分は年齢で考えていないですが、一般的にはある程度年齢が織り込まれるものだと思います。 ずっと動いていないのでためらいはあるのかも知れないですが、ま
人間は、だいたい何も考えずに動作している。他方で、決められたなにかによって動作していることもある。 Jの発想 MBTIでいうところのいわゆるJ機能は、想定であり計画であり、決められた何かに沿って動作するという機能である。反対のP機能は、応用でありアドリブであり、決められていない何かに対応するという機能である。 意図的な行動は、J機能の行動として見ることができる。そこには必ず物語があり、ストーリーに沿っており、想定する何かがある。 意図的 想定、もとい人間の思考は、既
心理テストなんてただの暇つぶしで遊びだとは思うが、境界性パーソナリティ0%という結果はちょっと拾いたくなったので拾う。 自分は自分、他人は他人 境界性パーソナリティとは自他境界が曖昧になり自分を動かすように他者を動かそうとしたり、他者の気持ちを自分の気持ちと思ったり、自分が拡大していく一方で他者の思考や価値観が侵食してきて、てんやわんやでとてもたいへんそうなパーソナリティと言える。 が、それが全くないという状態もそれはそれでどうなんだろうと思った。要するに自他境界が厳
主観的でスピリチュアルなことなのでこっそりと。 室生寺 何故か、強く心に残っていることがある。母と奈良の宇陀市にある室生寺に行った時のことだ。お寺に行って、お参りをして、なんだか清々しい気持ちになって帰ろうとしていた。 パリリ。足元で音が鳴った。足元を見ると、一匹のカメムシが潰れて死んでいた。 ただ虫を踏んだというそれだけの事なんだけど、何故かカメムシが踏まれに来ていたように感じた。一つの命が、自分の外界への注意力の不足によって失われたわけで、何というか、申し訳な
自信とは、予測ができるということである。予測ができているからこそ、盲信的行動が可能になる。 予測 意識は常に、予測と観測の差を捉え続けている。差がないとき、対象は背景として見える。差があるとき、対象は捉えられ、重点的に観測される。 予測可能であるというのは、捉えた状況から発展する展開が想定通りに進行する状態と言える。予測可能な状態には、いくつかの種類がある。次にそのパターンを挙げる。 予測するためにパターン①:正確な規則性の理解 もっともハードルが高く、もっとも知識
世の中は、嘘と欺瞞と帳尻合わせと……とにかく「見え」だけを考えて、体裁を整えた言説に溢れている。人間が、目や耳や鼻を通して取り込まれる感覚情報に、対象を捉えるための認知機能が作用した結果として作られる物語というシミュレーションによって外界を認識する構造であるから、「見え」を重視してその体裁を整えるという意識が働くのは妥当であり、それこそが真実であると信じて疑わない純朴な人が多く居ることもまた妥当である。 妥当であるのだけれども、他方で実際にどうであるかという、人間の意志が
洞察について考察した。考察したのは客観的な洞察である。他方、「洞察力がある」と憑り代の主体として用いたときの洞察とは、聞こえの良さとなる。 思ってたとおり 聞こえの良さとは、自分の思考にとっての都合の良さである。あなたが言われたいことはコレでしょ、と提示された都合の良いものが憑り代としての洞察であり、相手にとって都合の良いことを言う能力が憑り代としての洞察力である。人間関係が円滑になり、思い込みと妄想と幻想と寝言と勘違いに包まれた、人間臭い無駄で無意味な世界観が形成される
洞察って、なんや。 洞察における洞は、ほら穴という意味ではなく、通りぬけるとかつき通すという意味。まあ、空洞のように障壁なく見抜くという感じですね。 主観、自我、願望 確実な成功を導くのは難しいが確実に失敗するのは容易い。ということで、どうすれば洞察できるのかではなく、どうすれば洞察が成立しなくなるかを考える。と言っても、この項目のタイトルで答えが出ている。つまり、主観的であったり、自我による見識であったり、自分の願望が含まれるとき、洞察は成立しなくなる。語義のとおり
滅多に書かない一般論じゃない主観のはなし。 bio SNSとかその他諸々のbioにだいたい書いてあるので、世の中にごく僅かに存在しうる気付く人は気付くだろうと思うのだけれども、そこに「namaḥ samanta-buddhānāṃ brahmaṇe svāhā」すなわち梵天の真言を記述している。 要するに自分の信仰の中心は梵天ってことにしている。 梵天 詳細に説明すると色々入り組んでいるので軽く書くが、元は古代インドの神話で登場するブラフマー(ブラフマン)であり梵天は