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思えば彼は/彼女は

エヴァへ行くつもりじゃなかった。全く他の用事のために外出したのに導かれるかのように何故か映画館の椅子に座ってた。こんなの「ボヘミアン・ラプソディ」以来人生二度目の経験です。

TVアニメ版はリアタイ信者から速攻布教されてVHS渡されて見てアスカにシンクロ率400%になって精神汚染された時に一緒に壊れて心療内科通うきっかけになりました。旧劇は春夏映画館で観て、新劇は序破Q全部TV放送で済ませて、この完結編だけ先ほど映画館で鑑賞しました。でも四半世紀ずっと私はアスカのままでした。という人間がこれから感想を書き殴ります。

神殺し神殺しとゲンドウ言ってたけど意味合いとしては金枝篇的な王殺しや父殺しなんだよね。
キリスト教でいうところの神、「父と子と聖霊」って「ゲンドウとシンジとエヴァンゲリオン」なんだなと二人の戦いを見てて思った。このバラバラの三位が三位一体を目指すのか別々の道を歩むのかを選ぶ物語だったんだなと。
ゲンドウは神になろうとしてるのでそのためにシンジと一体化することが必須なんです。でもずっとその父に取り込まれかけていたシンジが父の元から離れる。こうなってしまうとゲンドウは神になれないんです。
で、思いっきり風呂敷広げに広げまくったんだけども、ゲンドウもシンジもエヴァンゲリオンも全て庵野秀明なんです。庵野秀明よくゲンドウのモノローグとしてあそこまで自分を晒け出したなとビビった。エヴァンゲリオンってああいう庵野秀明のパーソナルな語りをするための私小説的なお話だったんですよね。ある個人のものすごく個人的な話を突き詰めるとそれは普遍性を得るというのがエヴァンゲリオン現象だったのですかね。TVアニメ版のラスト二話ってあそこでもう庵野秀明がシンジくんと同化しすぎてこうやって俺を受け入れてよ!と叫んでた、作品世界を守ることより非常に個人的な欲望を優先させた結果の物語の破綻なわけですけども、25年経つとその語りはシンジではなくゲンドウの口を借りて、あれよりは抑制させることができて何とか作品世界と折り合いつけつつエモーショナルな叫びをぶつけるという大人の匙加減を身につけてて、ギリギリ大クラッシュする事故を避けてうまく着陸させることに成功してて、エヴァンゲリオン作り直しの意義ってここだったんだな、としんみりしましたね。TVアニメ版のラストってもう中2病全開の黒歴史すぎて、どうしてもそこをアップデートしたかったんだと。それはもう非常によくわかりますよね。世界中に知られてしまった大々的にやらかした黒歴史なんですもの…名誉挽回のチャンスほしいしあったら全力で取り組むよね…こんなに大々的に知れ渡ってる黒歴史は幸いなことに私は持ってないけども、目の黒いうちに改変できるならそれはしたいよ、しなきゃならないよ、世界中に知れ渡ってないだけで皆黒歴史なんて抱えてるわけじゃない、誰だって身につまされますよこんなの。

ここ最近聖書やユング心理学の読書会に参加していたので、この作品世界を彩る人たちがどんな役割を付加されていたのかも手に取るように見えるようになってて読んでてよかった!とノンクリスチャンながらも勉強会参加し始めてから一番強く思いましたね。

ネルフ(=ゲンドウが率いる組織)が定める神はゲンドウ=シンジ=エヴァンゲリオンの三位一体なんです。なのでシンジがイエス・キリストです。でも多分ゲンドウって本来はヨゼフなんです。聖母マリアの実生活上の夫で世間的にはイエスの父とされている、神ではない大工のヨゼフ。ヨゼフが精一杯背伸びして神になりたがってる世界線がネルフです。で、イエスに先んじて現れて殉教する洗礼者ヨハネが加持さん、聖母マリアの(身代わりの)綾波レイがいます。真希波は冬月先生に「イスカリオテのマリア」と呼ばれていたのこれはイスカリオテのユダとマグダラのマリア合わせたことになってるんでしょうね。真希波って碇ユイやゲンドウなんかと一緒に冬月研究室にいたのにそこから去った裏切り者という扱いなんでしょうきっと。その人をユダではなく(マグダラの)マリアと呼んだのはイエスたるシンジとの最終的な関係性の暗示ですよね。
こうなるとアスカは誰かって話になるんだけど、聖書には他にもマリアが出てくるから、マルタとマリアの逸話のマリアやベタニアのマリア(マグダラとは別人説で)を中心になんか色々重ねたのかなと思う。ヤイロの娘と出血病の女とかフェニキアの女とか悪霊に憑かれた女たちの姿とアスカの依代にされっぷりは通じるものがある。聖母の身代わりのレイ、誰かの身代わりにされがちなアスカ、母として面倒を見るレイ、姉として面倒を見るアスカ。二人とも誰かのため、という行動原理なのに対して真希波は自分ファースト。「誰かのために」と考える人にシンジは依存しちゃうから真希波の距離感が必要だったんだろうなと思う。他の二人のようにシンジの犠牲にならないから。シンジを庇護しようとして自分を投げ打つのではなく相棒として対等に向き合えて歩めるのはマグダラだから。
じゃあカヲルくんはなんだって話なんですが、あの人は理想の父なんだよね。ゲンドウがそうシンジに接したかった父性のイメージ。神としての父の幻影。あんなゲンドウのシャドウというかゲンドウが渚カヲルのシャドウというか、シンジと本当はこういう関係性を作りたかったというゲンドウの願望、ゲンドウとこういう関係を作りたかったというシンジの願望。だから究極的には彼ら二人以外には見えなくてもいいんだよね。碇ユイの身代わりという願望である綾波レイとセットなのもゲンドウからするとあの二人が理想の夫婦の形だから。そしてそれはシンジから見ると理想の両親の形。アダムとイヴも重ねてるけど、ゲンドウは神でもないしアダムでもない、だから彼にとっての神殺しとは渚カヲル殺しでもある。渚カヲルを殺して自己と統一しないと本質的には彼は救われない。ゲンドウを殺すとカヲルも消える、カヲルを殺すとゲンドウも消える。そんな関係性。カヲルとシンジとエヴァンゲリオンでも三位一体は成り立つのだけどそれをやられるとゲンドウの居場所がなくなってしまう。世界を全て我が手のものとしたい、というゲンドウの傲慢さに真希波が呆れて愛想尽かすのはわかる。というか普通そうなると思う。冬月先生なんでずっと行動を共にしてたんだろう。あれは監視役なのか見捨てるのが忍びなくなった一種の共依存なのかよくわからないんだ。

なんでしょうね、加持さん(洗礼者ヨハネ)→シンジ(イエス)→加持さんとミサトさんの息子のリョウジ(パウロ)的なラインは比較的わかりやすいんだけど、冬月先生やリツコさんミサトさんはちょっと聖書だとどの位置なのかわからなくなる。「もろびとこぞりて」と「アヴェ・ヴェルム・コルプス」のところは感極まりすぎて映画館で一緒に歌っちゃったくらいなのにね…この人らは旧約聖書の登場人物なのかもしれない。加持さんノアの方舟的なもの作ってたけどあの人ポジションとしてはノアじゃなくて洗礼者ヨハネなのはひっかけ問題だなと思う。でもノア的な何かを担わされてるのかも知れなくて私は旧約は読めてないのでその文脈は読み取れないんだよな…

聖書を読む時に「十二使徒は全員転んでいる、イエスを裏切っている。裏切ってからがキリスト教の本番」みたいなことよく言われるんです。エヴァンゲリオンの使徒ってトウジやアスカもそうだけど基本的にはネルフを裏切って攻撃するものたちじゃないですか。ネルフを裏切るけど最終的にはネルフを豊かにするものというか。キリスト教から用語持ってきて使徒とか言って殺すのなんなのだろう、なぜ使徒が敵なのかなと思ってたのだけど、この世界の用語や史観はネルフ中心で描かれてたんだなとよくわかった。むしろよく描かれている。

人類補完計画って最後の審判を経た復活の日だもんね。その教義を受け入れるか受け入れないかって本当にただの宗教戦争。

私はアスカなので人と人の境目がなくなることを「気持ち悪い」と最後の一人になっても拒むんです。元々環境に過剰適応しようと常に努力してしまうからこそ、自他の境界なく取り込まれることに根源的な恐怖を感じる人間なんです。旧劇はそんなアスカが「気持ち悪い」と同化を拒んだことでその世界は崩壊してるでしょ、誰か一人でもそれを拒否したら成り立たない世界。あれはでもその世界を統べるものであるシンジが揺れたからなんだよね。アスカではなくアスカが拒否したことでシンジが動揺したから壊れた。アスカが拒否してもシンジさえ揺らがなければその世界は完成する、そして生き延びたものは新世界へ旅立つことができる、というのが今回だったのかなと。転生したアスカ、転生したシンジ。概念を無理やり形式化されたところから無へと還った綾波レイ、渚カヲル。止めた時を再び進めた真希波・マリ・イラストリアス。エヴァパイロットから脱落し大人になった鈴原トウジ、エヴァパイロットになれず大人になった相田ケンスケ。皆幸せになれて良かった。大人になれて良かった。私たちだけではなく彼ら彼女らも大人になった。綾波レイや渚カヲルのようなイマジナリーフレンドはまた幻想の世界へと戻り彼ら彼女らを見守っている。姿は消えたけどすぐ近くで寄り添うその存在を含めた幸せの形。理想になんかなれなくていい、あなたはそのままでいい。そうメッセージを投げかけるカヲルとレイ。人間らしい愚かさを彼や彼女は愛おしむ。そんな愛を受け取って私たちは今も生きる。ありがとうエヴァンゲリオン、ありがとう庵野秀明。

そしてありがとう神木隆之介、ありがとう宇多田ヒカル。
子役から抜け出した神木隆之介がエヴァのループから抜け出したシンジに息吹を吹き込むのは正しい。この選択は的確。そしてエヴァパイロットのような実人生を世間に晒し消費された宇多田ヒカルが最終的にこの世界を慈しむ母のような声で包み込んだことに私は感動しそこでも泣けた。基本的にずっと泣いてたけど最後の宇多田ヒカルの優しさで全てが終わった、完結したと感じた。新しい世代に受け渡され引き継がれたバトンに希望が宿るラスト。終わった。私たちの格闘が終わった。新たな世代の格闘を見守る役目に変わった。思いっきり暴れても泣いても叫んでも大丈夫。私が守るもの。と言える大人になった。皆なった。この四半世紀の経験を糧に育む側に回れる喜びを今噛み締めている。

それにしても庵野秀明ってヲタクの癖にミソジニーと無縁な作品作りになってるのなんでだろ?エヴァンゲリオンの世界って善を成すものとして戦うのが女性で男性は大体その女性をサポートする役割か悪役のどちらかなんですよ。アナ雪よりよっぽど女性が解放されて女性が中心のフェミニズムアニメ映画。シンジを守り育む女性たちvsシンジを傷つけ疎外し続ける男性たちってことなのかな…庵野秀明、ヲタの割にホモソーシャル苦手そうですもんね。彼にとって人間とはヲタとヲタ以外なんですかね。そして女ヲタに庇われてきた人生なんですかね?
とにかくこれは女の子がエンパワーされる映画じゃないかなと思うわ。出てくる女性、村人含め全員カッコいいもの。そして嫌な女が一人もいない。ここまで徹底してるのは男性が作った映画としては異色だと思う。

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