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内モンゴル(ノモンハンと満州里)

(47番)  2017年   7月

内モンゴル(ノモンハンと満州里 まんしゅうり)へ行ってきました。
中国は15回目の訪問です。
今回の参加者は男性9名、女性11名の計20名でした。
こちらも出発直前になって、観光地の変更が2か所ありました。

今回のルート

✈ 12:50 発 成田  中国南方航空(A321 モニターなし)
  14:35 着 ハルビン (黒竜江省の省都)
                             はっ、早い。2時間もかからなかった。

着後、ハルビン市内観光
ハルビンは22,000年前の旧石器時代末期に人類が暮らし始めた。
金王朝(12~13世紀)と清王朝(17~20世紀前半)の発祥の地。
太陽島で毎年1月に「氷祭り」が盛大に開催される。

ここにもナチスの迫害から逃れるために約2万人のユダヤ系ロシア人が住んでいたことがある。現在も2つのシナゴーグが残っている。

日本人としては負の歴史だが、第2次世界大戦期の「731部隊 / 通称は石井部隊」の研究所も市内から24kmの所にあった。
書くのも憚られる数々のおぞましい生体実験を行っていたと聞く。
その実態が広く知られるようになったのは、1980年代になってからの事だそうだ。

聖ソフィア大聖堂
1907年にロシアの軍用教会として建てられた。ハルビンのシンボルとなっているが、現在は博物館として利用されている。建物はいかにもロシア正教という感じでネギ坊主が頂点についており、荘厳である。

聖ソフィア大聖堂

道理菜(どおりさい)市場
果物、野菜、ロシアパン、肉まんやお菓子類がたくさん並んでいた。

中央大街
アジア最大の石畳が広がる。
その昔、松浦洋行は日系デパートとして親しまれた。
秋林公司はロシア商人であるチューリンが開業したデパートでソーセージ、ビール、2.5kgのロシアパン(ホップを3回発酵させて作る)が有名。
中央商城は現在人気のある現地のデパート。

夕食後、ホテルへ。

2日目 7月3日
朝食後、新幹線にて内モンゴル草原への入口であるチチハルへ。

我々は「ハルビン西駅」から乗車をしたので、見ることはできなかったが、
「ハルビン駅」は1909年10月26日に伊藤博文が韓国の安重根によって暗殺された場所。1番ホームにその場所がわかるように小さな金属片で印がつけられている。

🚅 09:16 発 ハルビン(車内販売のコーヒーは美味)
  11:04 着 チチハル(黒竜江省第二の都市で西部に位置する)
          チチハル駅の左側の駅舎は満鉄時代のもので東大の安                                       田講堂に似せて建てられている。

昼食後、「扎竜(さつりゅう)自然保護区」
まずは「望鶴楼」で鶴、水鳥、クロトキ、ヘラサギ、コウノトリなどの剥製を見学した後、屋上に出てジャロン大湿原を眺望。面積は21万ヘクタールで東京都がすっぽり入る。ここでは260種類の野鳥が棲息している。
「国際重要湿地」として世界に43都市あるうち、中国は13都市で最多を占めている。

14:00から、丹頂鶴が放される様子を見学。
小川のすぐそばにいたら、鶴たちは川の向こう側から放されたようで、20羽くらいが一気に飛んできた。鶴との距離は2mくらいしかなくて、大きく羽ばたき、その姿はとっても優雅だった。
放す時は我々の目線には入らないような角度にしてあって、あたかも自然に飛んできたような感覚だった。うまい演出だ。👍
30分位写真タイムを設けてあって、よく見ると鶴も川で行水を始めていた。

丹頂鶴

卜奎清真寺(ぼくけいせいしんじ)
1684年の創建。外観は仏教寺院なのに実はモスクである。中国語で「清真寺」とはイスラム教のモスクの事。女性用の礼拝所も外側に女寺としてある。

夕食後、夜行寝台列車(4人用コンパートメント)にてハイラルへ向かう。

🚊 22:07 発 チチハル

3日目 7月4日
  05:51 着 ハイラル(内モンゴル自治区にある)
          駅舎の建物自体は普通だが、中央部分の屋根はパオの                                      形をしている。

到着後、ホテルにて朝食。

ハイラルにはモンゴル族が主だが、漢民族も多く住み、26の民族が共存している。特産は乳製品。

その後、中国で最も美しいといわれるホロンバイル(フルンボイル)草原へ。
果てしなく続く緑の絨毯(天然の牧場)と穏やかな丘陵、その合間を一本の光の龍のように曲がりくねって流れる莫日格勒河(もりがろくが)の何と豪快な事よ。

金張汗蒙古部落到着
金張汗(キプチャク・ハン)はチンギス・ハンの長男ジョチが治めた国。

まずはパオの見学
遊牧民が使う伝統的な移動式の住居のことで「パオ」は中国語でモンゴルでは「ゲル」と言う。内モンゴルでは中国語を使うのでパオ。中央アジアの国々では「ユルト」と呼ぶ。
1994年にモンゴルへ行った際、宿泊したことがあるが、なかなか快適に過ごせるように考えられている。

パオ

オボー
石を積み上げて山のようにしてあるチベット仏教徒の為の一種の標柱。
時計回りで3周し、真ん中の棒に赤い布をくくりつけると願いが叶うとか。

モンゴル相撲
まず、土俵がなく、手をついても負けではない。相手の膝か背中などが地面についたら負け。
試合の前には鷹の舞があって両手を大きく広げて舞う。
4人の力士によるトーナメント方式で始まった。
投げたり、足をかけたりして日本の相撲とは少し違っている。

モンゴル相撲

ハイラル市内に戻り、日本ゆかりの地を訪問
1. 第8国境守備隊司令部(現在はハイラル開墾総合病院)
2. 寺田公園跡(現在はソ連紅軍烈士霊園)

昼食

3. ハイラル神社址
4. 第23師団の司令部址(現在は市庁舎)

エベンキ族博物館
エベンキとは「森の人」という意味で狩猟やトナカイの放牧を生業とする民族。中国の少数民族で約3万人いるとか。
東ロシアにも住んでいて、昔は「トゥングース人」と呼ばれた。

夕食後、ホテルへ

4日目 7月5日
終日、ノモンハンの日帰り観光

ノモンハン事件
1939年5月4日から9月16日まで135日間、満州国とモンゴルの国境で起こった日本関東軍&満州国軍 対 ソ連&モンゴル軍の紛争。
日本はハルハ河をソ連はノモンハン付近をそれぞれ国境と主張しあった。
日本軍は大敗により侵略の方向を南に変更せざるを得なくなった。

省道201号線を通って行ったが、高速道路のように快適な道だった。
ハイラルから車で3時間余り、250km離れている。
最近は草原の草が少なくなり、モンゴルから牧草を輸入しているとか。
これも地球温暖化の影響?

途中の食堂で昼食。

14時ごろ、戦争博物館に到着
草原の中にポツンと建っており、モンゴルとの国境が近い場所には有刺鉄線が張られていた。外には戦車が数台野放しで置いてあった。
中には事件に関する記述や写真、砲弾、錆びたヘルメット、食器類や遺品などが展示されていた。

戦争博物館の外

夕食後、ホテルへ

5日目 7月6日
本日はハイラルから満州里へ向かう。

関東軍(旧日本軍)北山陣地遺跡
北山、安保山、西山、東山からなるハイラルの要塞陣地では内陸を防御するために、1934年に関東軍によって建造されはじめ、1937年の終わりごろ完成した。中でも一番大きくて複雑なのが北山陣地。

まずは「博物館」を見学。
9.18事変(1931年に関東軍が奉天で満鉄の線路を爆破し、これを中国軍の犯行と発表した)、満州国建国、抗日運動、ノモンハン事件、731部隊、ソ連満州侵攻などの展示があった。

ガイドさんの説明を聞かないで先にドンドン進んでいった人が教えてくれたが、「抗日運動」の展示の場所は我々が来る前に大慌てで取り外してしまったとか。少し残っていたが・・・
日本人が来たことを知ってまずいと思ったのであろう。
個人的には別に構わないんだけど・・・

その後、地下要塞へ
約100段の階段を降りると中はひんやりとしていた。
下に着くと通路の脇には指令室、2段ベッドが置いてある兵士の部屋、台所、トイレ、医務室などがある。

北山陣地の地下

その後、遊牧民の民家訪問
パオの中で牛乳、ミルクティー、ヨーグルトやお菓子などを頂いた。
どれも味が濃厚。

途中、ホロンバイル草原に位置する「巴尔虎(バルガ)蒙古部落度假景区」に立ち寄る。「バルガ」とはブリヤート人を構成する部族の一つ。

ここは当初、「フホノル草原度假村」の予定が急遽拡大工事が開始したので行けなくなった代わりの場所。

昼食は遊牧民族料理(茹でた羊肉)
馬頭琴の演奏も2曲披露された。
可能であれば「ホーミー」も聞きたかったですが。

呼倫湖(ホロン/フルン湖)
ホロンバイルの地名の由来となった。長さ約90km、幅30km、深さ平均5.4mの淡水湖で琵琶湖の3.5倍の面積を誇る。

バスが満州里へ近づくと木が生い茂った公園らしき所にマンモスの像があちこちに置いてあってあたかも本物のように見える。恐らく実物大に造ったのであろう、迫力満点!
最初見た時は本物だと思ったので「ギョッ!」とした。

また、巨大なマトリョーシカ人形が町の中に何個か置いてあって、ロシアと近いことを伺わせる。どうもお店のようだ。
因みにマトリョーシカ人形は箱根の「七福神人形」がルーツと言われており、ロシアでは1890年に初めて登場した。

マトリョーシカ

ホテルへ

6日目 7月7日
朝食後、満州里の見学
満州里はロシアとの国境を接する為、交流がとても盛ん。多くのロシア人の買い物客が闊歩し、お店の建物もロシア風で、看板も中国語とロシア語が使われているために不思議な異国情緒が溢れている。

中・露国境の門
国門景区にあるシンメトリーの立派な門。
中国側からロシア側を遠望すると蒸気機関車や戦闘機が見えた。

中露国境の門

中・露市場
ロシア製品のマトリョーシカ人形やウォッカとチョコレートなどが売られていた。

旧満鉄社宅
1900年にロシア人によって建てられた東清鉄道の社宅だった所で、
1936年に満鉄の社宅となり、日本人が住むようになった。

旧満鉄住宅

旧日本人学校
1901年にロシア人によって建てられた鉄道の専門学校。
1936年には日本人の小学校となった。終戦後は病院として使われた後、招待所、次は博物館と変わり、現在は使われていないとか。

満州里駅
旧東清鉄道の西の国境駅で、駅舎は国際線と国内線の2棟ある。東の国境駅は綏芬河駅(すいふんがえき)と言い、こちらも国際線と国内線に分かれている。
満州里駅の隣はもちろん、ロシアのザバイカリスク駅だ。

昼食

マンモス公園
昨日、度肝を抜かれたこの公園の中には89頭のマンモスの像があちこちに立っている。
近くに寄ってみるとものすごい迫力で更に圧倒される。何故、こんなにマンモス像を作ったのかというと満州里内で化石が発掘されたからだそうだ。

ジャライノール博物館
かつてジャライノールは炭鉱の町だった。資源枯渇の為に閉鎖された。
しかし、ガイドさんによると少しずつではあるが、まだ掘っているのだとか。
出発前にネットで見た様子では露天掘り(アリ地獄に階段がついたような感じ)の場所に蒸気機関車が煙を吐きながら20台ほど走り回っており、こちらも度肝をぬかれた。どれだけ広い場所なんだと。
その時の説明ではここは日本人が作ったとあった。

1階はジャライノールの歴史の説明で、2階は自然について、そして地下1階は模擬の炭鉱を見学。
可能であれば、本物の「ジャライノール炭鉱」をどこか高台あたりからでも見てみたかった。現場に行くのは無理だろうから。

街中をバスで移動しているとロシアからの材木を積んだトラックが多く見られた。建築用でたくさん輸入しているらしい。

夕食はロシア料理

ホテルへ

7日目 7月8日
ハイラルへ戻る。

西山国家森林公園
ここも当初、「ロシア芸術博物館」に行く予定だったのが、突然ホテルに改装されることになった為に代わりとなった場所。

ハイラルの町から結構近い場所にある。総面積151㎡で中には大小10個の湖、160種の植物、60種の動物が住む。
特に有名なのが、常緑樹の樟子松(しょうねまつ)で、根っこが幹の2~3倍の太さを誇る。
別名ヨーロッパアカマツといい、ここには4,600本あって樹齢100年以上は1,000本を超える。最も大きい幹は直径1m。
関東軍の陣地があったところで、建物のコンクリートの破片が落ちていたりする。

昼食後、空港へ

✈ 16:40 発 ハイラル 福州航空(737-800)
  18:00 着 ハルビン

夕食:素麺

ホテルへ

8日目 7月9日
✈ 08:05 発 ハルビン 中国南西航空 (A321)
  11:50 着 成田

今回も第2次世界大戦に関してたくさんの学びがありました。
後記:現在、戦争をしている国々は何故、歴史から学ぼうとしないのでしょうか。

写真は旅行会社さんのパンフレットから引用させていただきました。
お礼申し上げます。

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