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ピアノ音楽に再び出会えて本当に良かった。

今日は昨日新宿で購入したJazzのアルバムを聴いている。仕事中いつも音楽をかけているのだけれど、最近はJazz7割、カントリー3割ぐらいの割合だろうか。

自宅にはレコードも含めるとジャズのアルバムばかりで、半分ぐらいがジャズ、3割がカントリー、残りの2割がロックとクラシックという感じである。ジャズも、半分ぐらいがトランペットもので自宅でジャズを聴くときはほとんどトランペットもののジャズである。

かといって、ジャズばかりを聴いているかというと、必ずしもそういうわけでもなく、時々クラシック音楽も聴いている。クラシックにはあまり詳しくはないけれど、あれはあれで聴きごたえのある音楽である。

以前も書いたけれど、私はクラシック音楽のお勉強くさいところが好きではなかったので、長い間お説教・お勉強臭いクラシック音楽の筆頭である(と私が勝手に考えている)ピアノものの音楽を聴かなかった。ピアノという楽器は独りで完結する楽器ということも影響しているのかもしれないが、どうもこう、突き詰めているような印象を受ける。ストイックという言葉が正しいのか、なんというか、オーケストラで奏でられるような壮大な曲を一台のピアノで表現してしまおうという大胆さが、どうもピアノ音楽というものを肩肘張ったものにしているような気がしていた。

しかし、因果なことに私は一時期ピアノ屋に勤めていたということもあり、ピアノ音楽を聴かないわけにはいかなくなってしまった。それはとても幸運なことでもあったのだけれど、ピアノ音楽をある意味避けてきた私にとっては、ピアノの音楽に密接に関わる仕事というのはなかなか初めはなれなかった。第一、ピアノ音楽についての知識はないし、例えば「ショパンのバーラード1番」と言われてもピンと来なかった。ベートーヴェンの「悲愴」と言われても、2楽章以外はほとんど知らなかったし、ラヴェルなどガスパールぐらいしかレコードは持っていなかった。

幸運なことでもあったと書いたのは、それらのピアノ曲についての知識がついたということだけではない。それよりも、「ピアノ曲には色々ある」ということがわかったからである。それまで私が思い描いていたピアノ曲は「壮大な」曲であった。20分も30分も続き、描写が細かく、当然音数も多く。そういうピアノ曲だった。

しかし、ピアノ屋で勤め始めて色々なピアノ曲を聴いているうちに、ピアノの音楽というのは必ずしもそういうものばかりではなく、私の食わず嫌いだったのかもしれないと思うようになった。

シューベルトのソナタは長いけれど、アンプロンプチュ(だったっけか?)とか「楽興の時」なんかは一曲一曲が短く、私の好みの音楽であった。その他にも、カプースチンのピアノの音楽はまるでジャズのようで(彼自身ジャズの影響を多く受けているので)学生時代にジャズばかり聴いていた私には心地よく響いた。

マルカンドレ・アムランというピアニストが出しているアルバムで、「In a state of Jazz」というアルバムがあり、私は好きで時々聴いているのだけれど、そのアルバムに入っているワイゼンベルクというピアニストが編曲したシャルル・トレネの曲集があるのだけれど、それもとても美しくて、ピアノでしか表現できない音楽であり、飽きもせず何度も聴くに耐える。尤も、ワイゼンベルク自身が超絶技巧のピアニストなので、編曲も超絶技巧を織り交ぜてはいるのだけれど、それが嫌味ではなくスーッと心に入ってくる。

そういう音楽に出会えたということが、私の一つの財産となった。

お勉強臭くないピアノ音楽をもっと知りたいと常日頃思っている。ピアノを本気で学んでいる人にとってはそんなのピアノの魅力の一部でしかないじゃないかと言われてしまうかもしれないが、一部だけでも美しく心に響く音楽を奏でることができるピアノという楽器がこの世界にあって良かったと、ピアノをほとんど弾けない私がいうのもなんだけれど、心から思っている。

そんなこんなで、今朝自宅のピアノでシューベルトの「楽興の時」を弾こうとして、手元にあったヘンレ版の楽譜を引っ張り出してきてトライしたのだが、5分強、5小節目で脱落してしまった。

私のピアノへの旅路はまだまだ先が長そうだ。

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