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まんじゅうこわい #30

妻は極度の怖がりだ。

ホラーやサスペンス、アクションの類は当然駄目で、大河ドラマなんかも人がたくさん死ぬと云う理由で、観られない。

妻の目線に立って世の中のエンターテインメントを見渡すと、怖くてアウトなのがけっこうあって、安心して観られるのはゲイのカップルがメシ食ってるだけ、みたいな日常のドラマくらいである。

そういう作品の増えているところをみると、妻みたいな怖がりが昨今は増えているのかもしれない。

本人は怖がりを気に病んでいるようすも特になく、避けて生きれば問題ない、とおもっているようだが、怖さの理屈がわかればエンタメ方面以外も多少は生きやすくなるかもしれない、などと僕がお節介にもおもい、平山夢明『恐怖の構造』(幻冬舎新書507)を(代わりに)読んでみる。


僕自身はどちらかと云えば怖いのは好きなほうだ。

ホラーは余り面白いとおもわないが、アクションは大好きだし、サスペンスもヒッチコックなどを好み若い時分よく観た。

この本は恐怖を扱った映画について多くの頁が割かれる。

『サイコ』は僕も好きで何度も観たが、『ゴッドファーザー』『タクシトードライバー』、或いは『エイリアン』あたりはさほど思い入れもなく、『エクソシスト』『シャイニング』に至っては、実はちゃんと観たことがない。

と云うか、この辺りの映画はさんざん語り尽くされていて、またか、と云う感じがしないでもない。オジサン(オバサンもか?)、みんなゴッドファーザー好きだよね。いまの若い子たちも観るんだろうか。

技術論で云ったら、ずいぶん以前に読んだ荒木飛呂彦の本がよかったようにおもう。

僕はもっと技術的、理論的、構造的な内容を求めていたのかもしれない。


恐怖と不安の違いとか、恐怖と笑いは紙一重、と云ったあたりはなるほどと思わされるが、書かれる内容そのものよりは、語りの巧さに目がいく。鼻につく、と云ってもいいが。

嘘を混ぜるのが巧いのだ。

恐怖と笑い、と云うことなら、落語がいい例だろう。巧い落語家は、笑いも怪談もおなじ口調で語れる。そのあたりの匙加減を知りたければ、この本を読むより寄席へ通ったほうがいい。

この本の著者も、映画の話をしていたかとおもえば、身の回りであった怪談話を唐突に語りはじめたりする。

その境目は滑らかで、巧い落語家を彷彿させる。マクラを話していたかとおもえば、スッとネタに入っている、あのかんじ。


そんな調子で前半は面白く読めたが、後半は少々飽きてくる。

飽きるとアラが目立つ。

扱う作品は古いし、いつまでそんな話してんだ、とおもうと、何だか老人がエラそうに講釈を垂れているようにもかんじられ、途端につまらなくなる。

なかでも精神科医・春日武彦との対談は、オジサンたちのイチャつきが見て(読んで)らんなくて辛い。

何でこう露悪的に振る舞うのか、それが恰好いいとでもおもってるのか、粋を履き違えてないか、はっきり云ってダサい。

若者から見れば、三十代以上はもはや体制側の人間で、どう振る舞おうがそれは権力なんである。それを崩すには、相当な覚悟といい加減さが要ると僕はおもうが、文章からそこまでの迫力はかんじられなかった。


僕よりずっと若い、Z世代の子たちがこの本にどんな感想を抱くのか気になる。

と云っても僕自身だってもう十分すぎるほどオジサンだから、的外れなことを云っている可能性はある。

だから若いひとほど、かえって本に共感できる、なんてこともあるかもしれない。

だとしたら、僕にとってはそれが何より怖いことだなあ。


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