「痛い」「眩しい」という言葉の一般的語弊

つい先日、私の主宰コミュニティで、ゲストも交えての座談会の収録を行った。
第1回目として、まずは、私自身の「視覚」の状態について。

私は、「眼球使用困難症」という呼び方をする他ない、という、要するに国の判断基準には当てはまらないが「視覚」自体を使うことが実質困難な、文字通り「眼球(というより視機能)使用困難状態」であるわけだ。
この辺りについては私の過去の記事をお読みいただきたい。

さて、ところで。
「眼球使用困難症」の当事者たちの説明として一番多くなされる言語化の中に、
「眩しくて目を開けることができない」という表現がある。

通常光でも非常に眩しく感じる、それが高じて更に頭痛や吐き気、身体中のあらゆる症状に直結して現れてしまう…人によっては倒れてしまう場合もあるのだ。

しかし、私が個人的に良く思ってしまうこと。「通常光でも非常に眩しく感じる」の表現。これには、一般的に非常に誤解を受けやすいなと感じてしまっている。

というのも、私の感じているところとしては、「眩しい」が、通常一般に思われている、良く表現されている「眩しい」と、少し種類が違う気がするのだ。
一般のかたも、例えば眼科で瞳孔を開く薬などを点眼して、帰り道、眩しくて目を開けているのがつらい…というような経験はあるかたがいるかもしれない。
また、太陽を直視してその後別のところを見たら、まぶしさと残像でしばらく物が見えない、とか。

もちろん、そういう眩しさもある。それが眼球使用困難症の当事者は更に更に僅かな光であっても眩しく感じる。
ただ、それだけではない。
中には、可視光99%カットする、つまりほとんど見えなくするような特殊な遮光グラスや電気工事用のこれまた通常時にかければほとんど視界がなくなってしまうような遮光グラスを2,3重にかけても、眩しいという場合があるのだ。

そして、私の場合も、まず、「目を開けていることができない」という現状がある。

これはどういうことかというと。
別角度から言えば、私は、「動く」ものがだめなのだ。
視界で何かが動くと言うこと自体が、目や脳や身体中にとって非常な「ダメージ」となる。
ちなみに初めてのかたにそう言うと「じゃあ動画とか車が動いているとかがだめなんですか」などと言われることがあるが、そういうことではない。例え静止した世界であっても、自分自身が動いても視界や焦点は動くのだ!
つまり、生きている限り、24時間365日という意味だ。

「光」という存在と、「見えている」ということが、一般人の潜在的な認識の中では大抵解離がある。
というのは、「ライトなどの光を見れば眩しい」とか、日中太陽光があたっていれば眩しい、というのと、「物が見えている」ことは、ほとんどの場合、頭の中で別個になっている人が非常に多い。
しかしながら、ヒトが「ものを見る」視覚のしくみというのは、「光波」が眼に入ってくること、光の波、粒を、網膜がとらえることなのだ。
つまり、「ものを見る」ということ自体、「光」入力なのである。
「うごくもの」は、つまり「光」が動いているわけなのだ。

つまり、「光を眩しく感じる」以前に、「光そのものを眼球が処理することができず、異物というのか、打撃、拷問、受け付けられないところに受け付けられないものをおしつけられて身体全体に一気に負荷がかかっているような」状態ともいえるのである。
「光が眩しい」ではなくて、「光(光波)自体を眼球や視神経や脳で処理できない(処理しない機構)」になっている、ということになる。

だから、「通常光でも眩しく感じる」というと、「つまりは”見える”わけだね」と思われがちなのだが(晴眼者のかたは「眩しい」感覚を持っても「見えては」いるから)、「見る」という機能自体が働いていない、私の場合は定型発達をしていないのだろうという言われ方をしたが、「見たら(目を開けてみようとしたら)眩しい」のではなく、「見るという機能自体をそもそも使うことができない」「光刺激自体を(眼球や瞼で)受け取ることがダメージに直結している」というほうが、どんなに少なくとも私にとっては表現が近い。


ちなみに、「痛み」にしてもそうである。
私は、わかりやすいために「光が痛い」という言い方をすることがあるが、これは、一般の人たちが思っている「痛い」とは違う。しかし、言語に表すと、日本語では「痛い」ひとつしかないので、こう表すほかない。
気持ち悪いとか違和感とかいう言い方をすれば、=では切羽詰まったものではなさそうだ、とか、我慢できそうなものだ、とか、そういうイメージに繋がってしまうから。

私は心理セラピストとしてひとと接していてもいつも思う。
「痛い」にも、何じゅう、何千、何万通りの種類がある。
しかし、これを「痛い」と表現するがゆえに、自分自身でそう言語化しているうちにいつのまにか、「痛み」だと思い込んでしまう。そして「ああ、これは世間一般に表現されている”痛み”と同じなんだ、そう思われるんだ、ああ、わかってもらえないな。」と、その人の身体は感じてしまっているのだが、本人がもうその身体の声(感覚)をシャットアウトし、自分の本当の感覚を見ずに言葉上だけの実体のない、通り一遍で言われる「痛い」に集約して思い込んでしまい、本当の感覚をどんどんどんどん表現できなくなって気付くことすらできなくなっていっている。
そして、セラピーをしていると、その人が全部全部すべての感覚を、たったひとつかふたつの言葉でしか知らず、結果的に本当はあらゆる感覚を感じているのにすべて「知っている言葉の中に当て嵌めて」しまっていることが見えてくる。
例えばだが、「痛い」という言葉や否定的・負・不快の系統の言葉しか知らず、今までどんな感覚もそれに当て嵌めてきてしまったが、実は、セラピー中に、例えば寒い冬に温泉に浸かってちょっとびりびりするがどんどん身体が解凍されていくような感覚を感じている場合がある。他、褒められた時や愛されているときの感覚など…。
しかし、そんな感覚今まで知らなかったので、結局「これは『痛い』のだ」と知っている言葉の中に当て嵌め閉じ込めてしまい、それによって、本当の肯定的な快の感覚をも、全部「不快」「痛い」にまとめて感じてしまう。
脳というのは、顕在意識(自覚)というのは言葉でできている。言葉がなければ基本的に、意識は感覚ですらも理解できないようになっている。いや、そもそも「理解」という言葉自体が「物事を細かく分解して一部だけを受け取る」という意味なのだが。
ヒトというのは、すべて自分自身が今まで自分の脳の中で構築してきた言語体系、語彙、自分辞書の言葉の中に全部当て嵌めてしまう生き物なのだ。
そうすると、そもそもそのひとの脳の辞書の中に不快、否定的な系統の言葉しかないと、例えどんな感覚を受けてもその感覚を不快な言葉に当て嵌め変換して、身体は本当は快を感じていても、顕在意識(頭の自覚)はすべてを「不快、痛み、運の悪さ」などとして捉えてしまう。
そのため、カウンセリング、心理療法では、そして心や身体の不調や生きづらさを扱っていくにあたっては、本当の意味で、自分の内側で感じていることを、でき得る限り「的確」に表現していくための言語体系(セルフトークの一角でもある)をそのひとの中に構築し直す必要があるのだ。
自分自身の身体(潜在意識)が感じていることを、顕在意識がまるで真逆に感じていると思い込んでいる。すると、身体が自分の感覚を「自分自身にわかってもらえない」自体が起こる。

ひとの苦しさというのは、実はすべて、ここ(自己不一致)にあるのだ。
自分の感じていることをちゃんと自分で感じて表現してあげられるようになったら、「ああ、わかってもらえた…」というじんわりとした不可思議なとけていくかのような感覚(これはひとの感じ方や言語表現の仕方にもよる)になり、人生自体が守られている感覚、そして楽になる。人生とは、生きているとはこんなに楽な楽しいものだったのかと、顕在意識でも知ることができる。


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