真髄と見せかけて顕在意識を従わせ支配関係に置く術師と、本人に気付かれないが潜在意識から真髄の解放を道標する術師

"今ここ"を忘れ、"泣くこと"を忘れている人は、その渦中にいる己に気付かないものである…

特定の何かや誰かをいつの間にか盲信し(盲信ではなく恐怖や心配などでも同じなのだが)、己の人生のことについてや在り方、生活上のことまでも逐一"伺い"を立てるのは、それが例え如何なる理由、事情、内容であろうと(例え如何に自分がコントロールできない外側の不可抗力だと感じていようと…寧ろ感じているほど)、それはもう依存の三角形構図の渦中なのだが…。

しかし、弱みを握られている限り、心理ゲームの渦中にいることに、(例えその概念や理論を知っていてさえ)本人は、気付かない。
それが大変な、大きな(壮大な)ゲームであればあるほど、本人は気付きにくく(例えどんな理論的な人でも結局そこにある矛盾はそのゲームのルールの中でしか払拭しようとできない)、その分、負の強化子で、”外側に~されている(操られている、下手をすれば運命)”と思いながらも、強烈に「自分の中のプログラム」を強固頑なに転がらせてゆく。

…しかしてその下には、(表面的には一見エネルギッシュで生気や希望に燃えているように見えても)実は人生に疲れ切った負と不快な感情がとぐろを巻く苦しみの人生脚本プログラムが、蠢いている。

本人、それを感じたくないが解消もしたくないがために自覚外でゲームにのめりこんでいるため、顕在意識では感じるわけがない。潜在意識の叫びはそれは悲痛で強烈なものなのに……顕在意識自身がそれを抑え込んで亡き者にしようとしてしまっているので、動きがとれない。


…私は主に、しばしばスピリチュアルと呼ばれるようなところでそんなゲームにつかまり嵌り込みまたどんどん泣くことを忘れたり金や時間(人生)を投げうったり(渦中の本人にとっては委ねる、任せる、賭ける…などであったりするのだが )する、どんどん自ら知らず(気付こうとせずに)苦しみに身を浸すパターンにまっしぐらに突っ込んでゆく人たちを見ることがある…。

もし、盲信(恐怖や異常な信頼などでも)する対象の存在やものに己のポジション、位置づけ、役割などを与えられたとしたら、それはその対象が例え存在していなくとも、”今ここ”で、己自身でも確信を以て当たり前かのように感じることができるはずである。しかも(快の)涙の解除反応(アブリアクション)とともに。

自分が本当は真に休みたいこと、心地良さを感じて安らかな人生で最期に後悔せずに済むこと、それを実は心底望んでいても、そんなものが自分に実現できるわけがないと思い込み、それでいてそう思い込んでいる自分に気付くことさえも拒否し…

泣くことをまた忘れるための手段であることを、しかし実は本人の潜在意識とハイヤーセルフは良く知っている。

顕在意識(自覚している部分)は自覚したくないものはすべて潜在意識に押し付けて知らぬふりも見ていないふりもできるが、潜在意識(本来の自分)は、ハイヤーセルフは…良く、知っている。

耳を塞ぎ忘れたい顕在意識に、”外側のハイヤーセルフと名乗る何か”に売り渡されながら…

自分と繋がっている(というよりそもそも外側から貼り付けた自己ではなくもともとの自分である)ハイヤーセルフの声は、当然ながら、外側から聞かされるものではなく、自分でも(自分だからこそ)聞くことができる。
本当の意味でそれを選べば。

外側からでなく、内側”のみ”から、本当の意味で、己にこそ真の価値があると涙を以て知れば。


誰かに繋がって”交信”してもらうものなどでなく、自分で繋がり自分で聞き自分で気付くものなのだから。

私のセッションで、また私の知る限り”ハイヤーセルフと繋がる”療法を行うことができる人で(ハイヤーセルフと繋がるとは本来の自己と統合すること=解離して切り離している自分をひとつにすること=つまり”療法”なのである)、そしてそのもとでメッセージや気付きを得た人で、誘導者や誰かが代わりに聞いて伝えたりされた人はいない。
どんな人でもできる。当たり前だ、”自分自身”なのだから。
それこそ、”特別な何かがある”なら、直任される方法がないわけはないのだから、尚更だ。
それが、本当の意味でのスピリチュアル、宇宙とつながるということ…。

本当の意味でつながっている者ほど、己がつながっているかどうかなどともかく、人(本人)につながらせる(本人がつながることができるようになる、言われるのではなく本当の意味で自分から気付くことができるようになる道)ための方法を、知っているものである…
(何せ、全ての真髄を知っている宇宙とつながっていることに気付いているわけだから)

上下関係や支配関係などはもとより、真実か嘘か、距離や場所や時間の概念すら超えたところから、何より誰より”本人”に、そして外側からでなく本人の個人的無意識を通して顕在意識に直接、伝えることができるということを、知っているのだから…。

私が今いつの間にかこういうことをしているのも、そういうものがあるが、しかしながら、いつも本当に、そういうプログラムに呑まれんとする人は、実はいろいろな意味で本当に有能であるのにも拘わらず”それに自分で気付いていない”人ばかりであるから、非常にもったいないと(顕在意識の表面では)感じてしまうものだ。
そして、そこに少しでも届かせんとするため、音楽を使っているのだろうなとも…つくづく思う。


そして…

ハイヤーセルフほど身近(どころか本来一致しているはずなのだから)なものはないのに、日本語では「つながる」という言葉を使わざるを得なくなっている事情も絡まっているのか、ハイヤーセルフというものをいつの間にか何か権威ある外側(内側の認識でも自分ではない部分という意味で外側)から来るものであると感じている…下手をすればその自分の潜在的認識にすら気付いていない人が多すぎる。

そして、これは上下関係支配関係(カープマンの三角形、依存・心理ゲームの構図)の中でしか生きることができない、概念と負の連鎖プログラムのルールに縛られた人である…

そして…そのために、”ハイヤーセルフとつながる”方法、過程を盛大に勘違いしている人もあまりに多い…

どんなに少なくとも資格を所持していなければ行ってはならないが、しかしながら、資格を所持するとその協会でぎりぎりと定めた領域内までしか説明してはならない(社会的な、公の場では)。

そのため、ハイヤーセルフ療法が絶対にうまくいかないやり方(方法・過程)でしか望まない人(結局のところその時嵌っているゲームのルール内でしか己と向き合いたくない人、外側にいるつもりにはなりたいが外側に気付けない人、なのだが…)には、本人が自分で何かのきっかけからもしかしたら…と気付くまで、こちらから出向いていって行うことができない。

しかしながら、そうでないやり方で同じゲームのルールを持った施術者たちというのは、自分から出向いて引き寄せ、そういう人たちを集める。

顕在意識にまじないをかける施術者たちと、

潜在意識に本当に従い尊重する施術者たちの、違いだ。

顕在意識にまじないをかける施術者に引き寄せられる者は、顕在意識で勢いや効果を感じさせる(その分強烈に自分自身そのものである潜在意識が悲痛の叫びをあげていることには、どんどん気付かなくなっていく…)

潜在意識(本当にありのままの本人の望み)を汲み取る施術者に来た者たちは、いつの間にか、その施術者の影響だとは思わずに(エリクソンなどは寧ろ恨まれていたくらいだ…私もしばしばそうかもしれないが…)、いつの間にか自分の内側から効果が発揮され解除反応が起こってゆく。

…そして、何らかで解除反応を起こせない状況に身を置き出すと、顕在意識が働き出し、自分(勘違いして自分の顕在意識)にまじないをかけてくれる者にその分、摂り込まれて行ってしまうこともある。

その上、顕在意識にまじないをかける施術者は、顕在意識には得を感じさせ、潜在意識を相手にする施術者は、どちらかといえば顕在意識には謎や自己投資を感じさせ潜在意識に本当の得を実は感じさせているので、尚更、難しさがある。

ハイヤーセルフ(内なる自己)は、顕在意識で感じるものではない。顕在意識部分だけで感じることができるものではない。

自分自身(顕在意識も潜在意識もすべて含めすべて繋がった状態の大きな大きなエネルギー)自体で初めて感じるものであるのだから。

(…心理学は心理学という名称ゆえに、スピリチュアルとは別の世界の学問体系としての概念であるとかそれほど深い世界よりは浅い―下―であると感じられがちだが、実は世界の心理学の領域は、既にそこまで到達しておりスピリチュアルを含めて説明できる。)


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