読書の重要性―「読書」というだけのことが如何に「ヒト」が生きる上で必要なすべての要素を育てるか

私はここ2週間程、毎日、点字図書で借りてきた「銀河鉄道の夜」(宮沢賢治・著)を読んでいる。
私の目的としてはまず第一には点字を読む、ということ自体の訓練。
そこで、あらゆる事情が重なって、第一弾として宮沢賢治の銀河鉄道の夜を選ぶ運びとなった。

そのあらゆる事情というのはこの記事では割愛するが、そのうちの理由の中で大きなひとつが、今回の記事でお話したいことでもある。
元々その目的もあったのだが、毎日読んでいることで、そして、それについて私の点字訓練に付き合ってくれている友人たちと語り合い考察会などする中でなおさらに、どんどん大きく実感されてきた。その上、言語化されてきた。
それは、「読書」というもの、それ自体のヒトに齎す計り知れない大きな影響である。

これは例えばの話なのだが、今の人たちは、学校教育などについても、例えば国語で「漢字」を勉強する。これは、「漢字を勉強し覚えること」だけが目的となっているというように思いがちだ。ひいては、学校で習うことって、大人になってから何か役に立ってるか?というような。
しかし、実は、「国語という授業を学校の中で行うこと」や「漢字を勉強すること」自体によって身に付くことが、「漢字」以外にも、実はものすごくたくさんあるのだ。
……そして、現代の日本人が学校教育に対してそのように感じてしまう背景には、今や学校の教諭たちですら、「教育」の本当の意味、そしてたったひとつの単元やたったひとつの内容を教えるということ自体、それだけをしながら同時に非言語でどれだけものすごく多くの情報量、子どもたちに「人生で生きる上で必要な能力や要素」を教えているか、自覚していないことすら多くなっているのではなかろうか、とも思う。
教師の存在自体が、どれほど子どもたちに、敢えてこういう言い方をするならばその潜在意識に、強大多大な影響を与え、どれほどものすごい情報量を教えているか。

さて。
「読書」ということもそう。いや、実は読書に関しては特にその影響力が比べ物にならないほど大きい、ということで取り上げたいのだが。
そして同時にこの「読書」という言葉。「読書離れ」という言葉になって現代日本では流行っている。
そして、その背景のひとつ(たくさんあるうちの僅かひとつの理由をあげているに過ぎないが)には、「本を読むなんて、特に今生きている時代と違う時代に書かれた話や違う時代の物語や、ましてやフィクションの物語なんて読むだけ時間の無駄だ。今の時代はそれ以上にたくさんたくさん入れねばならない情報だってあるし、実際に使う情報や物語ではなく現実の情報を入れたほうがよほどいい」というような考え方もあるのではないかと考える。
私自身も、長らくそうであったのだ。
(ただ、私の場合は、視覚事情によって読書自体が非常に苦痛…自覚をしていなかったが苦痛であったために結果的に読む習慣がつかなかったという面が多大であると感じている。)

しかしながら、実は、「読書」というのは、その「読書」という行為自体が、実は、それこそ「生きる上、日常に必要なヒトの素養、能力」をとてつもなく、しかも他で補うことのできぬほど唯一、育ててくれるものなのだ、そして時として、心と身体の歪み(骨格の歪みなど)すらも、調整してくれる効力がある。
更に言ってしまえば、「読書」をいつの間にかしなくなっている…布団の中で童話の読み聞かせなどもしなくなっている…宮沢賢治の名は知っていてもその物語(童話)は読んだことがない、という人がものすごく増えているような現代日本で……いわばその「読書離れ」によって起こっている「ヒトの成長の欠落」とでもいおうか、素晴らしい文豪たちの本を読むという読書をしなくなったことにより生きることに必要な能力や素養が育たなかったことによって、今、学校や会社の人間関係・コミュニケーションや、人生の課題・悩み、自分の人生を自分で手綱を持って行く力や方向性などなど、心理職が飽和状態になっている理由のほとんどの心の不調・身体の不調・人生の不調が、ここに大きく端を発して起こっている、と深く深く感じる。

…ここの言葉でも表し切れない深い深い深い効力を、実は私は言語化できぬところでずっと感じていた。
そして、私自身がある意味「本離れ」であったにも拘わらず、私の奥底では実はこれをずっと感じており(だからこそ結局私は視覚の問題のほうが大きくて実は読書したかったのではないかとすら感じているのだが)、実は世の中に強く大きく発信したいことであったのだ。

これが、コミュニティの副代表や監事、点字朗読に興味を持っている方たちといった仲間たちともやり取りを重ねるうちに、どんどんどんどん言語化され、この思いも日に日に強く大きくなっている。

そもそも、もともとは点字を流暢に読み書きできるようになる、という私にとっては大変巨大な目的に向けたものであったため、これは目的のひとつにはあったとはいえ大きな福利であるが、私の主宰コミュニティ「EGLC(Easy Going Life Community)」では、こういう話もどんどん座談会やワークショップなどで出して行こうと考えている。

そして特に宮沢賢治の言葉のちからというのは、私の目的や思いを反映するに非常に合うもので、読書のちから、そして催眠・潜在意識や身体とのつながり、それはつまりヒトの根底根源的ないのちに必要な学習・成長にどれほど関係しているものか、という話をするにうってつけなのである。

今回の記事ではひとまず、私がX(旧ツイッター)にて思いの丈を綴った記事と、
その下には、その翌日であったか、コミュニティの監事であるひろゆきさん(このかたがまた、学生時代に児童文学研究サークルにもおられたという、そして今は催眠・潜在意識のしくみとも精通しているおかた)と、Facebookのメッセージでやり取りをした内容を掲載したいと思う。


<X(旧ツイッター)での私のつぶやき>

宮沢賢治は本当に不思議だ。
表面的には描写自体は何気ないものでただの物語のように見えても、そしてただの言葉・文字の文章のように見えても、その文章は深いところでまるで全てがメタファー(隠喩・暗喩・非言語メッセージによる肯定的暗示)になっており、読んでいる者や聞いている者の心の奥底が反応し、その者の心の状態を表出させる。
私が幼い頃からずっと、ただ単にどうでもいい会話をしていただけなのにいつの間にか相手が深い催眠状態に入ってトラウマや今の生活上の歪みパターンをさらけ出してしまっていたときと同じような。
だから、心にしこりや自分の心(身体)を見たくない状態の人は宮沢賢治の言葉を一生懸命入れないように入れないようにと反抗して防衛して、それでもなぜだかどうでもいいような学校の授業や日常の描写の文章なのにも拘わらず潜在意識にどんどん何か気付きたくない「真髄」「肯定的な(綺麗な・美しい)暗示」がメタファーとして入っていくから、本人は無自覚なのだが反射的に自分の無意識から現れ出ようとしてくる物を出してはならぬまずいと抑え込もうとしてしまう。

宮沢賢治は童話作家だ。童話とは、教育的メタファーなのだ。賢治の場合は不思議なことに、本当に言葉の使い方自体、文章そのもの全てがメタファーとなって心のスポンジに染み込み吸収されていく。 しかし顕在意識では何が入ってきているのかよくわからないため、しばしば顕在意識が勝手な劣等感や何かわからないもどかしさやコントロールできないかのような感覚を味わい、いやそんなはずはないと感じていないふりをし正当化しようとし出し、人によってはそれで言っていることとやっていること考えていることがとてもちぐはぐになるようなこともある。

そして、宮沢賢治にはそんな物凄く深いエリクソンメタファー的な効力があるから、現代人はどんどん宮沢賢治を読まない・知らない人が増えているのだろうと感じる。(無自覚に「知りたくない・避ける」プログラムが働く)

しかし、「童話」なのだ。童話とはお母さんが小さい子供に布団の中で寝かしつけに読み聞かせるようなもの。そして、それを何気なしに聞いていくことで、子どもの心と身体には力強い人生の肯定的暗示、セルフトーク(自己暗示)、生きる力と指針が入って植え付けられていき、頭も心も身体も本当に大人になるよう発育していく。
その「童話」が、「宮沢賢治作品…?いやあ文学的知識が浅いために知りません…」などと大人がしゃあしゃあと言うようになってしまっている時代。

特に大人になってからでは、既に自分の中にごちゃごちゃと置きまくられてしまっている「現代言葉」「判断」「勝手な理由付け」などが邪魔をしてメタファー暗示でも染み込んでいくまで回数や時間が必要となるし、時として跳ね返してしまう。(小さな子どもは、しかも眠りに就くまどろみという催眠状態の中で、もう肯定的な生きるために必要な能力素養の成長を促す暗示がどんどんばんばん一発で入って行くのだが)

そして何度も書くが、そうして生きやすくなるための暗示、宮沢賢治の言葉を敢えて使うならば「みんなの本当の幸い」「本当の食べ物」本当の意味での補い合い支え合いそのものでもある命の奥底にある本物のホスピタリティ(という言葉自体が他者支援のような語弊がある言葉になってしまっているが)といったものを、いつの間にか跳ね返してしまおうという「現代的歪み」のプログラムが心の中に植え込まれた人は、こうした作家からどんどん離れ、知らないまま人生を終えようとしてしまう。私も実はかつてそうであった時期があったが。なぜだか読みたくなかった、なぜだか知りたくなかった、というような。

しかも私はセラピストだ。宮沢賢治を読みだして、しかも数文ずつなのでまだ第1話1週間だが、それでも日々、やはり私が宮沢賢治を選んだのは、本当にこれがどの角度からの意味でも借りるべき本だったのだと実感し続けている。 そして、読んだり聞いたりそこから繋がったりしている人たちの心が、そしてその時々の心の状態や変遷が、セラピストの感覚として非常によくわかる。(そして私は一般で言われる「視覚」が利かない分、その人たちの心の状態や魂の姿とでもいうようなものが直に”視える”ので尚更はっきりよくわかる)
同時に、逆に言えば、これくらい少しずつゆっくり読んだほうが、良いのかもしれないとも感じる。 人によっては、一気に読むと、あまりに効力が強い。
強い薬というものはいきなり服用すると、効きすぎるあまり反射的に異物のように感じてなぜだか(しかも無自覚に)一生懸命払いのけよう、排除しようと、効かないようにと動き出してしまうものだからね。

<また別のつぶやきにおいて>
私の中で印象的な言葉がある。
銀河鉄道の夜の中で、ジョバンニが気付くといつのまにか銀河鉄道の中におりカムパネルラが隣にいた。外を見ると一面のリンドウの花。 ジョバンニ「僕、ここから飛び降りてあれをとって、また飛び乗ってみせようか」と言った後のカムパネルラの返しの台詞。「もうだめだ。あんなに後ろに行ってしまったから。」 物語の会話の上では、表面上は鉄道がどんどん速く走ってリンドウの花がもう遥か後ろだからもう無理だ、という言葉にしか(顕在意識では)とれないのだが、このカムパネルラのたった一言の裏に、読み手の潜在意識に感じさせる物凄く深いメタファーがある。そして、顕在意識ではわかっていなくても、潜在意識ではその物語の先に起こることなども含めてこの一言に詰まっているメタファーに、必ず気付いて感じているものなのだ。潜在意識は。身体は。
宮沢賢治の言葉の使い方は、まるで日本のミルトン・エリクソンである。

先日、読みながら、宮沢賢治は書き間違いが多い作家のようだと情報を得たが、その書き間違いですらも、実はメタファーを埋め込むためのわざとではないかと感じるほどだ。
(実際に催眠療法士や潜在意識を扱うセラピストは、そのクライアントが自分に肯定的な暗示をより効率的に受け取るために、敢えて間をあけたりわざと”言い間違い”をしたりするという技法も使う。逆に、クライアントの言い間違いや言い淀みで本人の本音を受け取り潜在意識と会話をするという技法も使う)


<EGLC監事、ひろゆきさんとのFacebookでの会話>

ひろゆき:
(略)…宮沢賢治にとって活版所の風景描写は、どこか銀河の中を走る電車からの光景の伏線だったかもしれませんね。

イムラーン:
そうなのですよ。後の光景の伏線や、後の光景のイメージのための誘導でもありますし、それに、ジョバンニが鉄道から戻ったあとの「これから」生きて「本当の幸い」を探しに行く場所(銀河鉄道ではなく、毎日の”ここ”)でもありますから、やはりなるべく大事にイメージしたい場所ですよね。
序盤だけれども今までで初めて、台詞や動きばかりの描写だったところから細かい情景描写が出てきた瞬間でもある。
ちなみに〇〇さん(点字朗読配信をなさっている配信と点字の先輩)も、活版所の場面はお好きでその場だけ音読したことさえあったそうです。短いけれど、それだけ深く印象深い章でもあると思いますね。
こうして様々な発見があるのは嬉しいなあ…

ひろゆき:
通常学校では教えませんが、小説など、誰の視点(視線)から描写されているかを意識すると(通常は無意識的に受け止めている)、物語が重層的になり、面白さが増します。
伏線なども合わせると、エリクソン的な仕掛けが、物語に引き込む、催眠に誘導するところと重なってきますね。 興味深いと思います。

芥川龍之介の「羅生門」も見事にこの視点の切り替えが、物語のリアリティ、重層性を作り上げています。(笑)
(注:「羅生門」は、以前にも話に出て、私が「小学校の時の教科書に出てきたせいで怖い場面だけ強烈に覚えている。それでいて物語の内容をほとんど覚えていない」というような会話をしたものでもありました。)

イムラーン:
まさにまさに。そして、だから読書は深い催眠状態に入るわけでもありますよね(「読書中」というのは、実は日中当たり前のように誰もが入っている催眠状態なのです)。
そして、同時に幼少期~若いうちにあらゆる読書に触れることで、ヒトが日常で行う人間関係や日常の通常の会話で(本来)行われる、前提的なものごとの知識や何気なく使っている言葉の意味定義、非言語やりとりを含めて受け取って相手の言葉を理解したり言いたいことを表現したりする要素が潜在的つまり催眠的爆発的にいつの間にか養われるわけですね。

だから、物語でフィクションだから別にいいだろう、とか、時代が違うんだから実物を知らなくて当たり前だろう、とか、だから歴史や文化背景も調べねばならないのか、とか、そういう話ではないのですよね。
読書自体に、そして読書に引き込まれてイメージすること自体に物凄い意義がある。 読書の重要性、現代日本人の言葉の通じなくなっている病理など、つくづく気付かされ言語化も進む、思わぬ福利溢れるここ一週間です。

そして、だから(視点の切り替えなど読者の深い部分に見事に暗示として刻み付ける技法が優れているから)羅生門は怖いのです!(笑)
羅生門は屍の山のイメージが強烈過ぎるし、ごんぎつねは銃が火を噴いて狐が撃たれた瞬間があまりに強烈に残って… よだかの星、なんてのもそうだった気がするなあ…

近未来、EGLCに読書普及会も新設されそうだな…(笑)

ひろゆき:
はい。民話なんかも面白いかも。「むかーし、むかし」というあたりから、催眠誘導に似ていますからね。
同じような事柄が、場面や設定を重ねて繰り返す手法も、エリクソン的かも。

イムラーン:
要するにエリクソンはその場でそれら(物語)を作っていたわけですものね。 私の催眠の最初の師は、初級の一番序盤でやることですが、潜在意識の声と顕在意識の声を説明するとき、「ももたろう」の序盤で実演します。 私も言葉で言いにくいのですがこのやりかたがあらゆる意味で一番良いと感じており、私もそうすることにしています。
(注:ミルトン・エリクソンは、クライアントが診察室へ入ってきてどこがどう辛い、などと訴えたときに、良く「例え話」をいきなりその場で始めたそうです。しかも、表面的にはまったく関係のない例えば「ところで私はトマトの苗を育てていてね…」など。それでも、その例え話をクライアントは顕在意識では「??なんでいきなりこんな話を始めるんだ、ぼけたのかこのじーさん??」などと思いながらもつい何となく聞いているうちに、いつの間にかセッションが終わるころには症状が随分と緩和されていたり、もう感じていなかったりしていた。そのため、ミルトン・エリクソンは魔術師と言われた天才心理療法家でした。)


イムラーン:
しかも「むかーしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが…」は決まり文句ですから、昔の子どもや大人はもはやそれが後催眠暗示のアンカーで、即座にイメージの世界に入って行ったでしょうね。
(注:後催眠暗示のアンカー…「この言葉であなたは以前同じシチュエーションで入った催眠状態より更に深いリラックスと集中の催眠状態に入りますよ。」というお互いの合図。)


ひろゆき:
確かに、物語など、その世界に引き込む要素がふんだんに使われているので、催眠の学習には、もってこいですね。

稲川淳二もいいかも。(笑)
(注:稲川淳二も怖い話で知られている作家なので、私が怖がるため、ひろゆきさんはここで私をからかって遊んでいます。)


イムラーン:
結局、昔から読み聞かせや「本にたくさん触れる」こと自体が、深い催眠で「世の中」というものを大量に吸収することができる、物凄く強大巨大な学習だったのですよね。

…私はおかげさまで羅城門の強烈な教育を受け、怪談系は恐ろしいわけです。


ひろゆき:
イメージ力をつける、相手の気持ちを思いやる、世界は自分の目線だけでは見えてこない、等、徳育の効果もあったでしょうね。


イムラーン:
非言語コミュニケーションですよね。


ひろゆき:
行間を読むというところですね。


イムラーン:
それから、結局言葉では現れないものごとの真髄を感じる、読み解く能力は結局潜在意識、身体の感覚そのものですから、真髄に繋げたり、他、そもそも通常の会話に必要な前提的となる「世の中」というもの自体や世の中の知識。 そんなものは、結局全部、「読書」という催眠に因る強力な学習効果で入るのだろうなと最近改めて強く感じています。


ひろゆき:
ぼくは、小学校に入るまでは、読書好きでしたが、高校までの9年間で、すっかり「国語」が嫌いになってしまいました。 大学に入って、自由に本を読めるようになって、良かったです。


イムラーン:
そうそう…しかも私は小学校のとき、林間学校などのバスの中で、無理やりバス前方のテレビから「学校の怪談」など流され、必死で寝ていたのですがどうしても聞こえて来て… 恐ろしい目に遭っていたのです。 教育的肯定的催眠効果が高いぶん、トラウマ創造効果も高いわけです……だから稲川淳二や芥川にはまだ食わず嫌いがあるわけです……(笑)

ひろゆき:
ただ一方で、映画やテレビがプロパガンダの今も役立っていますが。


イムラーン:
肯定的治療的(成長的)効果か、洗脳的トラウマ創造効果か、の良い例ですね。

まあ、洗脳という言葉を使えばどちらも洗脳だと私は思ってしまっているのですが。(笑)


ひろゆき:
きちんと、物語などの構成、視点などを教えることで、創造力を持ち、かつ洗脳されにくい脳が育つと思います。

脳を洗うのも悪くない。気持ちいいかも。(笑)
一度、頭から脳を取り出して、川でじゃぶじゃぶ洗濯したくなります。


イムラーン:
情報をちゃんと選り分ける(顕在意識での検閲というより、寧ろ潜在意識でもそれができるというイメージ)ですよね。 そう、肯定的治療的リフレーミングも、洗脳には違いないと私は思うのですよ。(笑)
私もしばしば行う、催眠の根底原理を使った深いセラピーなんかも、脳を丸洗いされたようになるので気持ちが良いですよ。 おばあさんは川へ洗濯へ……(笑)


イムラーン:
「本を読むことと催眠治療的効果」 これは…座談会、やりましょう。


ひろゆき:
神話や民話が、集合的無意識と深くかかわっている点も、その辺りにありそうですね。
(注:ユング心理学では、集合的無意識という全人類の繋がっている潜在意識領域があると言われ、そこでは共通した神話や民話のモチーフが頻繁に現れる)


イムラーン:
そう思いますね。結局集合的無意識(潜在意識)から作られたものは、潜在意識(真髄に気付き、知り、とらえる力)を育てる、といいますか…


ひろゆき:
言語学者のソシュールは、ギリシャ神話の韻やアナグラムが、潜在意識に語りかけているという研究をしています。


イムラーン:
それは面白い!

イムラーン:
アラビア語も、その「音」それ自体が身体を反応させ、それ自体で身体の奥底に意味を伝えると言われます。そして実際、それがアラビア語かすらもわからない私のクライアントなども、アラビア語のクルアーンの一節を聴いただけでなぜだか涙が溢れてきたり…実際ムスリムたちは、クルアーンを聴いたり唱えたりしながらわけのわからず泣いていたりそれこそ脳を丸洗いされているような感覚になったりしています。 私の名前、イムラーンに変わる前の「イラム(キリスト教で言えば実はソドムのような街の名前だった)」なども、実は初めて会って初めて挨拶したクライアントにさえも「本当にそういう名前なのかな?」と違和感を感じられていたほどです。 これらは潜在意識にダイレクトに訴えるけれども、 宮沢賢治などはそれでいて顕在意識にも訴えかける。しかしながら非常にエリクソン的で潜在意識のほうへの比重が高い。 折衷的な領域。

ひろゆき:
催眠療法の学習だけでは、語りきれない、でも、やはり伝えたい部分ですね。

潜在意識を育てるという観点。


イムラーン:
これこそが催眠というもの自体の本質・原理・使い方そのものですからね…。

結局こういうところがわからなければ、催眠というものはわからないままだと思います。
私のクライアントから聞いた話ですが、そのひとが以前受けたという催眠療法士は、そのひとの身体に起こる震えなどのトラウマ反応は「身体の反応なので催眠では解消できない」と言ったなどと言います。
トラウマ反応というそれそのものこそ、「催眠状態」で起こる催眠そのもののしくみなのに!催眠を悪用すればトラウマ反応になり、催眠を肯定的治療的に使えば身体の反応を本人に不利な反応(トラウマ反応)ではなく肯定的建設的な反応になる。まさに催眠そのものなのに。
しかしこうして、日本の催眠療法士は、実は「催眠のしくみ・原理」をほとんど知らないまま開業している場合が非常に多い。

そして催眠の理屈、原理を知らずに催眠技法を扱うほど(しかも気付かずにトラウマやPTSD、精神疾患や身体疾患を潜在的に持っている人に使ってしまうことが非常に多い、それほど)恐ろしいことはない。

ひろゆき:
それが、稲川淳二より怖い。
(注:ひろゆきさんのからかい遊び再燃)

イムラーン:
…そうか…稲川淳二はそれよりは怖くないのか… ……と洗脳されるかな(笑)


ひろゆき:
仕掛けを知ってしまえば、怖くないと思います。(笑)

イムラーン:
…なるほど…と騙されて良いものか…(笑)

しかしまあ、幼い頃のあのごんぎつねやよだかの星のようなダメージよりは、今はコントロールできるでしょうね。
(注:幼い頃はしかけを知らず潜在意識にずどーんと入ってきてしまったが、今はその技法をわかっている分、受けることも止めることもできるという意味で)

確かに、それで読書自体怖く重くなるのはもったいないな。 …とはいえ、点字図書は視覚がない分、なおのことイメージに直結するのですがね(笑)

ひろゆき:
映画を作っている人は、映画を観ても、引き込まれないと言われます。

ただ、構造を知ることで、もっと、もっと、視点人物の心持ちを想像することで、面白さが増すと思いますが。

では、次回は、「羅生門」でも。(←隙あらばイムラーンをいじめて遊ぶひと)

イムラーン:
…(仕組みを知っている側から読者気分に)切り替えてイメージに引き込まれる人もいるぞ…(笑)
しかし、本当に点字のおかげで、燻っていた新しい世界が開けましたね。 …

…が!次回作は注文の多い料理店に決めております(笑)

ひろゆき:
「注文の多い料理店」は、実はめちゃくちゃ怖い話です。(笑)

イムラーン:
…なんですと?(笑)

ひろゆき:
(笑)

イムラーン:
まあ、そういう意味では銀河鉄道も怖い話ですよね

ひろゆき:
いや、そう意味ではなく。

イムラーン:
……怖いなー(笑)

ひろゆき:
読書会、楽しみにしています。


イムラーン:
かにの床屋?だったか、歌がありますよね。
ちょっきんちょっきんちょっきんな、うさぎのお客の耳を切ってしまうという。あれも、未だに恐ろしいのです。
幼いときに聞いた印象が本当に怖かったのでしょうね。


ひろゆき:
やはり、想像力が強いというか、潜在意識優勢だったのですね。 注文の多い料理店の怖さは、主人公は知らないが読者はわかるところからくる怖さです。

知らず知らず、全体主義の世界に引き込まれていくような。


イムラーン:
うわあ……それは怖いな。しかも、対象が「全体主義」と来ましたか…私にとっては本当に怖そうだ しかし、最初セロ弾きとか言っていたのがやっぱりこれを読んでみたいと変更したのですから、恐らく深い意味があるのでしょう… …何より銀河鉄道完読せねば、そちらに行くことができない(笑)


ひろゆき:
その頃には、(点字も)すらすら読めるようになっていることでしょう。 銀河鉄道、終点まで行きましょう。

イムラーン:
指先に集中する分、集中力とリラックスが高じかなりの催眠状態(イメージの鮮明な世界)に入っています。その分、吸収力、慣れも加速度をつけていくことでしょう。
その分、ある意味童心で宮沢賢治が入ってくる…から怖いところもあるが(笑) そして、何せ毎日やっているものだから録音がどんどん溜まる。編集もピッチを上げようと思います(笑)

ひろゆき:
はじめに、銀河鉄道・宮沢賢治を選んだ意味がありそうですね。

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