【成人発達理論】ターコイズ段階の特質

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ティールを超えたターコイズ段階の意識構造の特徴

1.”目標”にではなく、”目的”に生きる

つまり、必ずしも目標の達成にこだわってはいない。目標を達成できるかは複雑系である社会の様々な要因に規定されるのであって、人事を尽くして天命を待つ他にできることはないと考えている。

2.”未来に向けて”ではなく、”いま”を生きる

”目的”を遂げる、あるいは、体現する場所は”いま・ここ”の中にしか存在しないことを暗黙的に了解している。いままさに対面している顧客、仲間、家族、社会に対し、自らの存在を放擲することに関心を寄せている。

3.計画を手放している。にも関わらず、未来を創造している

”いま・ここ”における本分の体現を重視するがゆえに、未来において本分を体現することを目指す”計画”への関心を失っていく。しかし”目的”は抽象度の高い高邁な理想を掲げているがゆえに、その人の一つ一つの行為は価値ある未来の創造に概ね接続されていく。周囲が次第に変容していく。

4.長大な歴史の中で、自分は大河の一滴にも値しないと考えている

自分を高尚に見せるために方法論的に選択された謙虚さとは質の全く異なる、根っからの慎み深さを湛えている。人間社会、あるいは、それを越える生態系全体の問題構造(あるいは進化の構造)を深く洞察するがゆえに、その問題(あるいは進化の構造)に対して自分ができることはほんのわずかなことしかないことを熟知している。

5.しかし、その一滴にも値しない自分を世界に捧げようとする

そうでありながら、その大河の一滴にも値しない自分を、世界の問題構造、あるいは進化の構造のためにコミットすることで生きていこうとする。それは義務感、責任感からそうするのではなくて、そうすることが根源的なレベルでの自分にとっての”快”につながるという直観によってそうしている。そうした意味において、その人は主体的真理に肉薄していると言える。

6.意図的に右脳を主に、左脳を従において、一体的に運用する

人生の深淵な真実について、論理的思考を過度に巡らせて思考の迷宮に入ることは過度な左脳の運用になると考えている。一方同様に、人生の深淵な真実について、瞑想や内省、山籠もりなどの右脳的開発に傾倒し過ぎることも、自分の持てる身体機能を十全に活用しているものとは言い難いとも考えている。元来、人間は左右の脳とそれぞれ接続している二つの眼球を与えられているのであり、それによって解像度深く世界を観察できるのだから、脳は全て活用するものだと考えている。

7.自分をメタ認知する視点が人格の多くを占める

”自分”という俳優を観察している”映画監督”の視点が常在している。その観点から人生における喜怒哀楽を達観して眺め、その意味を噛みしめている。結果として、多くの危機的状況において驚くべき平静さを発揮する(本人さえも驚嘆するほどに、例えば経済的な危機状況で展望のない状態で、このような状況が起きている意味を達観して味わう視点があり続ける)

8.検証されていない世界に意識を意図的に拓く

世界は基本的に科学では知り得ないものばかりで、科学で検証されていない世界に関心を持ち、そのようなコンセプトが提唱されている意味を洞察しようとする。一方、少なくとも経験論的に感得、あるいは直観されていないコンセプトを、自らの救い、心理的安全弁として盲信することはなく、適切な距離を維持しながら自ら経験を通じて検証しようとする。

9.人生観の根本的な変容

ティール段階までは正義・調和の実現に重きを置いていた人生観が緩み、より軽快なものになる。具体的には、起伏のある人生において喜怒哀楽全てを味わい尽くすことに、人生の普遍的な意味(つまり人類一般に適用されるような意味)を見出す。

その観点から見れば、長期的に見れば極端にネガティブな経験さえも、人間にとってかけがえのないリソースになり得るのではないかと考えている。

10.問題解決への意図を手放す

基本的に善意に満ちたあり方を体現しているが、その善意を通じて人を善き方向に誘うために操作する意図を手放す。自分には人は救うことはできないし、新たに獲得した人生観に照らして考えれば”救う”という行為自体、存在しないと理解する。苦痛や問題それ自体は全く悪ではないと考え、他者がこれらと対峙するチャレンジを優しく見守り、時に手を差し伸べようとする。

11.主体的真理の社会実装に生きる

抽象度が高く、なおかつ世界規模のビジョン、主体的真理を掲げている。しかし、そのような主体的真理を革命によって成し遂げることに関心を寄せていない。具体的に、足元を見すえて、周囲に働きかけることで社会実装しようとする。現実世界の状況は芳しくないと考えてはいるが、あくまで娑婆にまみれて世界に参画しようとする。

12.自分と他者は本来一体であると直観している

何らかの実践によって西田幾多郎の言う純粋経験ないし絶対無の境地を垣間見た経験があり、自他未分離というリアリティを直観している。これは個別差があるものの、上記体験の論理的理解のために量子力学や素領域理論的な世界観に関心を寄せている。

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