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海外ノマド日本のドラマを観て思う「多様性」について

海外ノマド生活…なんていうと、自由に生きている印象もあるかもしれないが、私の最近の生活は、ベトナムのハノイにある現地企業で働き、海外ノマド生活を送っている。

そんな私は実はどこの国にいても家で仕事をしながら、いつも日本のドラマを観ている。バラエティー番組も観るが、色んな規定がある中、ドラマは仮想世界であるし、観ていて現実逃避ができる。
海外に住んでいる私の好きなことが、日本のドラマを観ること、なんてちょっとおかしな気もするかもしれないが、これならネットさえあればどこでも楽しめる趣味でもあるのだ。
海外のどんなところに行っても楽しめる方法の1つは、どこに行ってもできる趣味や好きなことがあることかもしれない。


日本のドラマは「多様性」を強調している?


今期のドラマが次々始まり、気が付いたら終わっていく中で、最近のドラマはなぜかすごく「多様性」を描くドラマが多くなったという印象がある。もちろん現代ではそういう「多様性」をよく取り上げる世の中になっているし、だからこそ、そういうことをドラマにも反映させているのだと思う。

けれど、そのドラマの中で表している「多様性」の全てが「正解」かどうかは分からないなと思うこともある。「正解」は自分が決めることでもあるので、私の思う「正解」と世の中の「正解」は異なるかもしれない。けれど、そんなドラマの中の「多様性」を見ながら、勝手きままに想いを書いてみようと思う。

海外ノマド…海外にいると見える外からの日本

海外にいるのに、日本のドラマを観る、なんて海外にいる人らしくないかもしれない。けれど、海外にいながら、かなりの数の日本のドラマを観ている気がする。昔からドラマが好きで、海外に住みながらも夏休みなどで日本に長期滞在していた時は、ドラマのエキストラなんかのアルバイトもしていた。
だから、気が付けばそこそこドラマに詳しくなったり、今は日本語、言語を専門にした仕事をしているせいか、ドラマの台本、脚本、台詞がすごく気になってしまうのだ。
家にいて、仕事の合間や仕事をしながら、日本のドラマを何も考えず、ボーと観て、けれど以外とちゃんと観ているので、偶に涙したり、素敵なセリフにほっこりしたり、すごい台本に感動したり…。そんな日々を送っているのだ。

そんな様々なドラマを観ていて、最近は本当に「多様性」が重視されているのか、俗に言う「普通」で「一般的」ではない設定や、設定のキャラクターが増えてきたと思う。しかしながら、ここういう傾向は欧米では10年も20年も前から始まっていたようにも思う。

これを「多様性」として括ってはいなかったかもしれないが、色んな意味での「自由」がドラマなどでの節々に少しずつ出てきたような気もする。

そんな日本の2024年冬ドラマ


今期のドラマでは
大学の研究室でゲイのカップルがいたり
シングルファーザーのお父さんがゲイだったり
自閉症の主人公がいたり
五感がなくなっていく主人公がいたり
余命三ヶ月のお父さんがいたり

そして
昭和のお父さんが令和にタイムスリップしたり
化粧や女の子のものが好きな男の子がいたり
ゲイカップルも本当に多く登場している
本当に色んな人たちがいるんだと、そしてそれを受け入れられる人、受け入れられない人

色んな周囲の人達が登場する。

そして、なぜか今はそういう色んな問題を抱えた人たちが主人公で、「ほっこり」したドラマなのかと思いながら観ていてもそこには、「切ない」というか「辛い」ものや「謎」が多いドラマが多かったようにも思う。

なんというか、のんびり穏やかに観られるドラマは少なかったかもしれない。

マイノリティーとマジョリティー

「多様性」と言えば、「色々な人がいる」「色々な形がある」みたいにも捉えることができるが、結局、マイノリティーであるからこそ、起こる疎外感だったり、差別だったりするのではないかと思うのだ。
日本は団体行動を好み、周りと合わせようとする傾向がある。だからこそ、マイノリティーが疎外(除外?)されてしまう傾向になるのかもしれない。

欧米の国、他のアジアの国もだが、日本に比べればそういう束縛から解放され、海外で暮らす方が自由だと思う人もいるだろう。

日本は周りの目というのがあるから、なんだか自由がなく窮屈のが感じるのかもしれない。だから外国に住んでいると、そういう周りの目というのがなくなり、自由になったような気もする。
けれど、逆にその国の枠にハマっておらず、すでに「外国人」というまた別の枠の中にいて、だからこそ得たある一種の自由なのかなと思ったりもする。
けれど欧米では受け入れられていても、他諸国アジアでは意外とまだ多くの偏見もあるし、なかなか生きずらい国も多くある。そして、ちゃんとその国の中で生きていこうとすると、外国人という壁にも結構ぶつかってできないことや規制に縛られることもある。

実は海外にいることは「自由」を手にしたようにも見えるが、別の意味での「不自由」な生活を強いられることもある。日本よりも他者を受け入れる文化のようにも思う欧米でも、意外と人種差別をうける(受けた)という日本の方もいる。
日本にいたら感じないマイノリティーな気分や、差別、疎外感、外国人(外人=外の人)という感覚は海外に出るからこそ、また新たに知ることのできる感覚かもしれない。

だから、私は、海外移住や海外暮らしの中で見つける自由さや、日本ではあったしがらみはなくなったとしても、又別の形での不自由さや縛りを味わう気がするのだ。けれど、外国にいてその国の中でその国人と同等に生きていこうとせず、あくまでもその国で外国人として生きていれば、日本よりお自由でしがらみのない生活ができるんじゃないかと思う。

ドラマに観る主人公の「多様性」と実体験

そんなドラマの中の多様な主人公を見ながら、私たちは色々なことを学べるのかもしれない。けれど、どれが正しいとか、誰が正しいとか、そういうのはなく、それを自分がどう受け止めらえるか、なのかもしれない。

多様性と言いつつ、言語や表現などはコンプライアンスとか差別と言ってどんどん制限かかっている。自由なのか不自由なのかどちらなんだろう、と思ったりするのだ。

私は幼い頃からヨーロッパにいたこと、大学はイギリスだったので、その結構前に、そして年齢的にもまだ多感だった時期に多くの「多様性」の中で生活することができた。

大学の中はもちろん多国籍で、日本人が少ない環境にいたけれど、イギリス人だけではなく、多くのヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人、アラブ系と本当に国際色豊かだった。
それだけではなく、LGBTサークルが存在したり、友人がゲイだったり、校内は宗教も色々でクリスチャンのサークルもあって毎週ミサに行く子もいれば、ヒンズー教の友人がラマダンを過ごしたり、そんな人たちが同じ空間で、同じ寮の中で生活をしていた。
イギリスはベジタリアンも多くいて、そのベジタリアンにも魚はOK,乳製品もNG,なんて色々な種類があることを大学にいなが知ることができた。さらにヒンズー教の人たちは豚肉は食べない、ハラル肉しか食べない、という色んな人たちと一緒に、みんなが一緒に食事会をして、何を食べられるか、ということもこの頃に既に考えることができる環境にいた。

だから、今テレビでそんな「多様性」を見ながら、少し不思議に感じたりもするのだ。

また、今は耳にするADHDとか、よく言うHSPなども日本で知られる前に耳にしていたし、そういう人も周りにいたし、自分も色々心理的な病状(性質、症状?症状?)も身近なものでもあった。
幼い頃にそういうことを身を持って体験したり、知ることができたのは、とても有難いなと今は思ったりする。

受け身の情報社会の中でもっと活発に自分で調べて、自分の目で見て確かめること

そんな世の中で、どんな情報でも簡単に手に入る世の中になった。けれど、実際に体験して得た情報や知識と、ネットから、携帯の画面から得た情報とは同じではない、と思ったりするのだ。

目の前で見えることだけではなくて、受け身の情報ではなく、もっと自ら考えて調べて得る知識や情報を信じていくべきだなと思うのだ。
恐らく、コロナ禍で、世の中は本当に大変だった。そんな世の中から、また「普通」の世界にもどりつつ、改めて世の中の「多様性」なんて言葉が広がったのかもしれない。コロナ禍で人と関われない世の中で、感受性の強い人たちは、きっと「人と人とのつながり」の大切さを改めて感じたのではないだろうか。

けれど、実際世の中はまだまだ明るくなくて、コロナの後で「頑張ろう」と思っても、また色々そんな中ネットでできることやSNSが流行り、テレビを観るということも減っていき、情報量も増え、すべて目に見えるものをそのまま受け入れる世の中になってしまったようにも思う。

こういう世の中で、自ら動いたり、自ら選択したり、自ら得た情報から新たに自分で考えるということが減ってしまったように思う。さらに、そんな状況で想像力や思考力が培えなくなってしまうのではないかと思う。

多様性とは自分が多様性でいることではなく、相手を受け入れる多様性ではないか

そんなドラマを観ながら思うのだ。
男は…
とか
女は…

とか
そうつい言ってしまうのはまだまだ仕方ないことかもしれない。人はそう言う概念でずっと生きてきたのだから。

そして人は少しでも枠から外れたものを受け入れられなかったり、疎外しようとしてしまう。それは偏見だったり差別にも繋がってしまう。

周りと違うから周りと合わせようとして自分に正直に生きられない。なんだか自由じゃない世の中に見えて、今それを変えようとしているのかもしれない。

人は人、それぞれ異なる。ただそれを受け入れられたら良いんだと思うのだ。

多様性とは自分とは異なる他者を受け入れること

多様性とは
「自分らしくいて良いんだよ。」ということだけでは無くて、きっとそれは自分とは違う他者を受け入れる。と言うことなのではないかなと思いながらドラマを観ていた。

でもそれをするのはなかなか難しい…
自分の固定観念を変えることは難しいし、自分の考えを変えることも難しい。

でも人は人、皆違っているのだから、型にハマらず、型にはめず、そんな周りを気にしないで生きていて良いんだと思うのだ。

もっと言えば、そんな他者に関心を持たなければ良いのだ。人は人。こうあるべき姿なんて、決まっていない。そうすれば誰もが「自分は普通じゃない」とか「自分は他とちょっと違う」という考え方もなくなるかもしれない。

ただ枠の中に入っていれば、周囲との関係が少し楽なのかもしれないし、少し他者と違うからと生きづらくなることもあるかもしれない。人は人、他者は他者なのだからそんな気にしないで、他者に無関心になれたら、皆が楽に生きられるのかもしれない。


と最近の日本のドラマを観て思ったりする今日この頃。


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