胡弓かなた

イラストやマンガを描いたり、あきれたぼういずを調べたりしてます。低血圧。

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マガジン

  • あきれたぼういず活動記

    日本初の音楽ギャググループ・あきれたぼういずの活動の変遷を、当時の新聞記事などを中心に追いかけていきます。毎週日曜更新予定。

最近の記事

(71)山茶花のその後/あきれたぼういず活動記

(前回までのあらすじ) 1953年頃にあきれたぼういずは解散し、それぞれ個人で活動していくことに。 そして1957年、川田晴久がこの世を去った。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【親友・森繁久彌】山茶花究と森繁久彌の出会いは1937(昭和12)年、古川ロッパ一座時代である。 森繁いわく「カメレオンのような人相」で人当たりもよくなく、周囲の仲間からも距離を置かれているようだったという山茶花だが、森繁はなんとなく馬が合いそうに思い、酒に誘った。 以来、生涯無二親友と

    • (70)川田のその後/あきれたぼういず活動記

      (前回までのあらすじ) 1953年。テレビ放送が始まり、それぞれに活躍をみせる一方、あきれたぼういずは解散して完全に個人で活動していくことに。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【遠山の金さん】川田はその後も身体を気遣いながらも活躍を続けている。 1955(昭和30)年には、国際劇場で「舞台生活25周年記念特別公演」を開催。 年末からはダイナ・ブラザースとともに日劇の正月公演に出演している。 映画では、同じ新芸術プロの専属になった山茶花究と一緒に出演していること

      • (69)解散の謎/あきれたぼういず活動記

        (前回までのあらすじ) 1953年、テレビ放送が始まると、あきれたぼういずや川田晴久、有木山太もさっそく活躍していく。しかし、あきれたぼういずはまもなく解散することとなる。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【解散はいつか?】結成日がはっきりしないのと同様、あきれたぼういずの解散時期も、いまいち判然としない。 1951(昭和26)年に解散した、としている資料が多いようだが、これはおそらく、坊屋の発言が元となっている情報だろう。 坊屋は、渡米公演から帰国後「ハワイ

        • (68)テレビの時代/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1951年にラジオの民間放送が始まる。あきれたぼういず達は、舞台や映画だけでなくラジオでも活躍していた。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【テレビ出演】1953(昭和28)年、いよいよ日本でもテレビ本放送が始まる。 まだまだ放送時間も短く、番組も少ないが、あきれたぼういず達は早くから出演を果たしている。 NHKが日本初のテレビ本放送を開始したのが2月1日。 しかし、それ以前から東京新聞にはNHKテレビの番組表が掲載されているので、放送は

        (71)山茶花のその後/あきれたぼういず活動記

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        • あきれたぼういず活動記
          71本

        記事

          (67)有木山太の活躍/あきれたぼういず活動記

          (前回)のあらすじ 1951年に民放ラジオが始まり、あきれたぼういずや川田らもレギュラー番組を持つなど以前にも増した活躍をみせる。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 民放ラジオ開始以降、有木山太の活躍ぶりはめざましく、彼一人であきれたぼういず三人に勝るとも劣らないほどである。 今回は、前回noteの続きとして有木のラジオ出演をまとめた後、後年までの彼の活躍ぶりを追ってみたい。 【民放ラジオでの活躍】◆「コロムビア・アワー」(CBC:新日本放送/NJB:中部日本放

          (67)有木山太の活躍/あきれたぼういず活動記

          (66)ラジオでの活躍/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 1951年。あきれたぼういずは帝国劇場公演を果たした。一方、吉本興業を離れた川田は新芸術プロダクションを立ち上げる。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【民間放送開始】これまでNHKのみだったラジオ放送だが、1951(昭和26)年9月以降全国に民間放送局が続々と開局、放送開始した。 民放開始当初から、あきれたぼういずたちもラジオで大いに活躍。 これまではラジオ寄席等にときたま顔を出す程度だったが、レギュラー番組を持って毎週出演している。 開

          (66)ラジオでの活躍/あきれたぼういず活動記

          (65)マダム貞奴/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1950年、川田やあきれたぼういず達は渡米公演を果たした。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【浅草花月劇場が復活】1946(昭和21)年秋に舞台興行をやめ、洋画専門の映画館「浅草グランド」になっていた浅草花月劇場だが、1951(昭和26)年から再び実演系の劇場に戻り、名前も浅草花月劇場に戻して復活。 復活第一回公演が50年大晦日初日「初笑い珍道中」。 そして2月28日からはあきれたぼういずが出演、渡米土産の「ハワイ珍道中」を上演している

          (65)マダム貞奴/あきれたぼういず活動記

          (64)あきれたの渡米②/あきれたぼういず活動記

          (前回)のあらすじ 川田晴久につづき、坊屋・益田・山茶花のあきれたぼういず一行も1950年6月末から渡米。まずはハワイで大歓迎を受け、アメリカ本土からやってきていた三人組ヴォードヴィリアン「タップナチュアス」とも交流した。 【アメリカでテレビ出演】8月14日からはハワイを離れ、アメリカ本土を巡演。移動はやはり車で、ロサンゼルス、カリフォルニアからユタ、オレゴンなど八州ほど廻っている。 しかし川田らとは招聘主が違うからか、巡った会場が違ったせいか、のちの坊屋や益田の話からも

          (64)あきれたの渡米②/あきれたぼういず活動記

          (63)あきれたの渡米①/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 1950年5月に日本を発ち、アメリカ各地を巡業した川田晴久と美空ひばり。 7月に無事帰国し、アメリカ土産の舞台公演やラジオ、映画に登場した。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【あきれたぼういずの渡米】川田の渡米からひと月半後には、あきれたぼういずも渡米することに。 メンバーはジャズシンガーの暁テル子に日本舞踊と歌の榎本美佐江、あきれたぼういずの5人で、ハワイの仏教青年会からの招聘だった。 益田の著書によれば、暁テル子の夫である日系二世のキャ

          (63)あきれたの渡米①/あきれたぼういず活動記

          (62)川田の渡米②/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 1950(昭和21年)5月、川田晴久と美空ひばりの渡米公演が実現。ハワイで熱烈な歓迎を受けた。6月20日にホノルルを発ち、アメリカ本土サンフランシスコに到着した。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【辛いアメリカ巡業】アメリカ本土では、サクラメント、ポートランド、スポークン、シアトル、サンノゼ、ロスアンゼルス、モントレー、サンフランシスコなど、西海岸の都市を廻っている。 大歓迎を受けたハワイとはうって変わって、興行は辛いものだったようだ。 ハ

          (62)川田の渡米②/あきれたぼういず活動記

          (61)川田の渡米①/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 奇跡の再起を果たした川田は、ダイナ・ブラザースを結成、さらに美空ひばりと出会い彼女を売り出す。そして芸名を川田晴久に改めた。 有木山太もシベリアから復員してきて舞台に活躍する。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【川田と美空ひばりの渡米】舞台にラジオ、映画出演と忙しく活躍していた川田は、1950年1月、過労で倒れてしまう。 復帰したとはいえ、無理はできない身体だ。 しかし川田はこのとき、アメリカ旅行のプランに期待をふくらませていた。 美空ひば

          (61)川田の渡米①/あきれたぼういず活動記

          (60)絶望からの再起/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1946(昭和21)年夏、あきれたぼういずが再結成し活躍していく一方で、川田義雄は脊椎カリエスと腎臓結核に苦しめられ、再起は絶望的とまでいわれていた。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【川田の再起】脊髄カリエスと腎臓結核で苦しんでいた川田だが、その精神力で奇跡的に再起、舞台に復帰することとなった。 東京新聞社の記者だった尾崎宏次は、この頃理不尽なレッド・パージ(占領下の日本において、共産党の支持者だとした人々を解雇した動き)に巻き込まれ

          (60)絶望からの再起/あきれたぼういず活動記

          (59)グループで、個人で/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1946年6月に再結成したあきれたぼういず。戦前と違い、フリーで活動していく。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【ストリップ流行】1947(昭和22)年。 1月5日の演芸欄、新宿の帝都座五階劇場のプログラムに「レビューヴィナスの誕生」とある。 大ストリップブームの始まりである。 戦時中に締め付けられた反動でタガが外れたかのように、ここから「ハダカ」ブームの時代となり、「ハダカ」の出ない舞台公演はこのブームに押されて苦戦していく。 しかし

          (59)グループで、個人で/あきれたぼういず活動記

          (58)頭山・音・長井の消息/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 1946(昭和21)年6月、坊屋・益田・山茶花が集結してあきれたぼういずを再結成した。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【映画出演】7月16日の東京新聞に、理研映画「お好み演芸会」二巻の広告が出ている。 飛行館でのラジオ放送の様子を映像に収めたもので、あきれたぼういずの名前もある。 「近日公開」となっており正確な公開日は不明。 あきれたぼういずは6月12日に一度ラジオ放送をやっているのでこのときの映像だろうか。 舞台公演の様子が映像で残された

          (58)頭山・音・長井の消息/あきれたぼういず活動記

          (57)あきれたぼういず再結成!/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 戦後東京でもいち早く活気を取り戻していた浅草。あきれたぼういずの面々も復帰しつつあった。一方、川田は持病のカリエス再発で療養を余儀なくされた。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【ラジオの人気調査・川田の療養】年が明け、1946(昭和21)年1月。 山茶花や坊屋は、舞台だけでなくラジオ放送にも出演している。 NHKでは「お好み演芸放送」に対する投書で統計を取り、放送してほしいジャンル、芸人の人気調査をしている。 一番多いのは浪曲の需要で、演劇

          (57)あきれたぼういず再結成!/あきれたぼういず活動記

          (56)復興は浅草から/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 太平洋戦争が激化する中、あきれたぼういずやミルク・ブラザースは解散。メンバーはそれぞれ個人で活動していた。岡村龍雄・芝利英は戦死。 そして1945年8月15日、終戦を迎える。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! ▶︎今回は1945(昭和20)年8月15日の終戦以後、年内の活動について。 【戦後を生き抜くための娯楽を】戦時中も、終戦後も、演芸娯楽が大衆を励まし慰めるために必要とされていることは変わらない。 東京新聞によれば、8月22日から映画

          (56)復興は浅草から/あきれたぼういず活動記