【稽古日誌】カスケードとカテーテル #12

2022.4.22(金)

今日の稽古は昨日の通し稽古を踏まえ、間や動作の細かな修正をしました。そのときに出たアドバイスを1つと、昨日の稽古日誌のつづきを書きたいと思います。
演出のもこさんから、「動きも一台詞」というアドバイスがありました。
たとえば、ある役(以降A)が「え?」という台詞と同時に、自分に繋がっているものを発見するというシーン。そのときに、心のなかで「何これ?」や「いつから?」などを言う。大事なのは相手役が、Aが心のなかで台詞を言っている間を待ってあげること。
そうすると、その間が共有されることで無言でも心のなかの会話・2人の関係が成立します。
本質は会話の稽古と同じですが、このような関係の成立のさせ方もあります。

次に、昨日の稽古日誌の続きです。
昨日は、演出のもこさんから貸していただいた本『俳優になる方法・増補版』(山崎哲著 2011年 青弓社刊)の言葉を引きながら、コモノの俳優の演技に感じる「存在感」と俳優の意識の持ち様、そのつながりについて書きました。
今日は、なぜそうした演技に感動するのかを考えたいと思います。
著者は、演技の「核心」を「人間を演じると同時にものを、<人間以外のなにか>を演じるという俳優の表現の二重性」(P.23 傍点原文)と言います。これもまた、#5の稽古日誌にもこさんが書いていた稽古の意義についての部分、「『今そこに、確かに存在している』と実感できるために全ての過程があり、」という言葉と響き合います。
「人間が存在する」ということを考えてみると、人間という社会的な「言葉」と、社会性・言葉以前に存在している「身体」という二側面があります。哲学では「意味と実存」、「存在者と存在」なんて言い方をしたりします。
そうした表現を演技の「核心」だと著者が言うのは、俳優・「人間」を素材として使うことの意味は、その人間の「二重性」という存在の仕方が舞台と客席で共有されることにあると考えているからでしょう。もこさんの言う「『今そこに、確かに存在している』と実感できる」という言葉も、「人間という言葉」と言葉以前に在る「身体」がどちらも欠けることなく舞台と客席とで共有されることを指していると言えます。
では、なぜ感動するのか。一口に言えば、私たちが生きていて決して拭えない孤独の姿を舞台上に観るからでしょう。
上述の人間存在の二重性ということは、自我の恣意性・持て余した自意識以前の、「素直な人間の姿」です。「そのようにしか在ることができなかった」という、身一つの、孤独の姿です。文学者・坂口安吾は『文学のふるさと』のなかで、そうした孤独を指して「ふるさと」という言葉を充てます。「この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。(略)私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。」(「文学のふるさと」『堕落論』平成21年 新潮文庫刊)
著者は自身の師である唐十郎の舞台に関して、「唐十郎は、劇物語をつねに人間の<胎児>段階へと遡行させながら描き」(P.253)、そうした「唐十郎の舞台にいやおうない<郷愁>を感じてしまう」(同)と言います。
「生をこの世に受ける」ということが人間のどうにもならない孤独のはじまりならば、唐十郎が「劇物語をつねに人間の<胎児>段階へと遡行させ」たことも、孤独=ふるさとの姿を観客と共有しようとしたと納得できます。
神という人間が作り出した「幻想」への信憑がついえた現代、蓋然性の高い「事実」をしか人生に信じるよるべがないのだとすれば、「事実としての人間の在り方」を確かめるような演技・演劇は、それに私たちが感動できる限りにおいて、「生きる価値」を肯定するよるべにはなるかもしれません。

演出助手 寺原航平

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前回から山崎哲さんの演技論書も合わせて紹介されていて、ちょっと補足をすると私は山崎哲さんの直接の弟子でありまして、『俳優になる方法』は付箋貼ってマーカー引いてボロボロになるまで読み込んだバイブルなので、どうかコモノを下の立場として書いてほしいと震えてます笑 哲さんが居なければ今の私は居りません、寺原君、頼むよ笑笑

演出 伊集院

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