【稽古日誌】カスケードとカテーテル #11

2022.4.21(木)
今日は通し稽古(最初から最後まで止めずに行う稽古)と一部シーンの修正をしました。
今日の通し稽古や日々の稽古を観つつ、演出のもこさんから貸していただいた本『俳優になる方法・増補版』(山崎哲著 2011年 青弓社刊)を読んでいて、なるほどと思ったことがありました。
コモノの俳優はその存在にいやらしい主張がまったくない。代わりに、「いる」「在る」ということが直に、怖いくらいに肌感覚でわかります。下手な俳優にありがちな余計な恣意性を感じません。
一方、上述の本のなかで著者は、笠智衆を評して「物語のなかの人間であると同時に、自然物としてそこに自己を表出できた」(P.22)俳優であると言っています。ここでのポイントは「自然物」ということです。当然、笠智衆は人間なので観客には俳優が人間に見えます。しかし笠智衆は、観客に人間として見えると同時に、山や海やちゃぶ台と同じように、「そこにただあるだけ(=恣意性のない)」の「自然物」としてもその存在を観客が感じ取ることのできる俳優だったと言います。
このような観客への感じ取られ方だけでなく、舞台上やカメラ前での意識でも両者は共通しています。コモノの俳優曰く、「からっぽ」「何もしない」。
また同書では「笠智衆は、 (略)できるだけ頭や心をからっぽにして、ただそこにいようとしたのです。」(P.22)、笠智衆が小津安二郎に言われた言葉として、「今度、出てもらう僕の作品では、表情はなしだ。いいかい、表情はなし、能面でいってくれよ。」(P.21~22)。
そのようにして舞台に立つことが、いかに難しいことか。コモノの俳優はまだまだ上を目指しているのでしょうが、少なくとも考え方は著者や笠智衆と同じです。

巷で言われる「自己表現」など生ぬるい。演技の土俵はどこまでも自分・自我を殺そうという「無私」を目指すこと。いえ、実際に自我を殺すなど死以外には不可能であり、だからこそそうして闘う俳優に観客は感動するのでしょう。
な、なるほど……

演出助手 寺原航平

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