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「忘れない」「先例にしない」 群馬県が県立公園から朝鮮人追悼碑を撤去

 群馬県が1月29日、県立公園「群馬の森」(高崎市)にある朝鮮人追悼碑を行政代執行で、撤去しました。追悼碑には戦時中の強制動員・徴用で亡くなった朝鮮人犠牲者がまつられています。2004年に県議会が全会一致で設置を決めたものです。この20年の間に、戦争の記憶の風化が進み、日本の加害性を見ないようにする歴史否定論がはびこりました。その苦い帰結の象徴のような出来事です。碑の撤去を悪しき先例にしてはならない——撤去前日の28日、追悼碑に心を寄せる人たち約200人が、碑の前で朝鮮人犠牲者の追悼集会を開きました。全国各地の朝鮮人追悼碑について朝日新聞時代から取材を重ねてきた阿久沢悦子記者によるレポートです。

朝鮮人犠牲者追悼碑と碑文について【そもそも】で解説しています。知ってるよ、という人は本文からお読みください。

【そもそも①】
「群馬の森」の朝鮮人犠牲者追悼碑とは

「群馬の森」の朝鮮人犠牲者追悼碑の歴史は1995年に遡ります。市民らでつくる「戦後50年を問う群馬市民行動委員会」が、かつての日本の過ちを繰り返さないために、群馬県内の中国人・朝鮮人の強制連行・強制労働の実態を調査しました。
群馬県内では小串、根羽沢、群馬などの鉱山労働や、大同製鋼、中島飛行機太田工場などの軍需工場、中島飛行機の藪塚、後閑、多野などの地下工場建設、吾妻線や導水路の工事などに、徴用や動員で朝鮮から連れてこられた多くの労働者が酷使され、犠牲となったことがわかりました。中には自治体が編纂した市史や村史に記録があるものもあります。
判明した犠牲者を追悼するため、市民有志が1998年に「朝鮮人・韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会」を結成。旧日本陸軍岩鼻火薬廠の跡地にある「群馬の森」公園を用地として提供してくれるように、2001年県議会に請願を提出し、全会一致で趣旨採択されました。その後、碑文案の中にあった「強制連行」という文言について、群馬県は「外務省にも相談したが、募集、官斡旋、徴用のどこからどこまでを強制連行というのか、線引きが困難だ」として使用を拒否。市民団体と県は協議を重ね、「強制連行」を「労務動員」という言葉に置き換えて、2004年4月に碑を建立しました。

「群馬の森」の朝鮮人追悼碑。「記憶 反省 そして友好」の文字がレリーフに刻まれている=群馬県高崎市

【そもそも②】
追悼碑撤去までの経緯

県立公園「群馬の森」の使用許可は10年ごとに更新することになっていました。しかし、群馬県は2014年、碑の前で開かれていた追悼集会で、過去に出席者から「強制連行」という発言があったとして、「政治的行事及び管理を禁じた公園使用許可の条件に違反する」という理由で更新を拒否しました。また「碑の存在自体が論争の対象となり、街宣活動、抗議活動など紛争の原因となった」として碑を撤去する方針を明らかにしました。同年、加害の歴史を否定する団体「そよ風」が県議会に追悼碑設置許可取り消しを求める請願を提出し、賛成多数で採択されたことが背景にあります。
碑の管理団体である「『記憶 反省そして友好』の追悼碑を守る会」は、追悼碑の設置不許可は県の裁量権の逸脱、乱用にあたるとして、処分取り消しを求め、前橋地裁に提訴しました。2018年、前橋地裁は県の処分は裁量権を逸脱し違法として、処分を取り消す判決を出しました。しかし、2021年、東京高裁が群馬県の主張を全面的に認め、守る会の請求を棄却。2022年6月に最高裁で高裁判決が確定しました。
それから1年半、市民団体やアーティストなどの抗議を押し切る形で、群馬県は行政代執行法に基づき、碑の撤去を強行しました。

追悼碑の碑文は日本語とハングルで表記されている=群馬県高崎市

【そもそも③】
朝鮮人追悼碑の碑文には何が書かれているの?

「記憶 反省 そして友好」
「20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地として支配した。また、先の大戦のなか、政府の労務動員政策により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊いいのちを失った人も少なくなかった。
21世紀を迎えたいま、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。
過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。この碑に込められた私たちの思いを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである」

【本文】
追悼碑の前で200人の市民が黙祷


1月28日の高崎市は晴れ。防寒のため、ショールやニット帽を身に着けていきましたが、日中は追悼碑まで歩く間に汗ばむぐらい暖かく感じました。碑は公園の入り口から徒歩で10分ほど。一番奥まった静かな場所にあります。背の高い金色の塔、「記憶 反省 そして友好」の追悼碑が並んで建っています。塔の隙間からは朝鮮半島の方角を望むことができ、追悼碑の円形の台座は、故郷に帰る人が迷わないようにと羅針盤を象ったそうです。

追悼碑の撤去に抗議しプラカードを掲げる参加者ら=群馬県高崎市

 午後2時半ごろから、追悼集会の開催を知り街宣車で来た右翼団体が、遠巻きに大声を上げ、それを制止するために群馬県警の警察官約200人が碑の周りを取り囲みました。ものものしい雰囲気の中、市民たちが三々五々集まってきました。子どもを連れたお母さんや中・高生の姿もあります。県内の人が中心ですが、東京や埼玉、神奈川、韓国から訪れた人もいました。

 午後3時、碑の前で朝鮮人犠牲者を悼み、参加者が黙祷を捧げました。静寂を破るように、右翼団体が拡声器で怒鳴る声が遠くに聞こえてきます。
追悼碑を守る会の石田正人さんが「初めて来たという人はいますか?」と尋ねると、半数以上が手を挙げました。「この追悼碑がいつ、どういう気持ちでできたのかを知ってほしい」と語り始めました。

「追悼碑を守る会」の石田正人さん

「戦後50年をちゃんと振り返ろうというのが始まりなんです。日本人はヒロシマ、ナガサキに原爆を落とされた被害の歴史があるけれど、アメリカと戦争する前には植民地支配で中国や朝鮮で土地を奪い、石炭や資源を奪い、米や食い物を奪った側なんです。当然、抵抗があるわけですよ。でも日本の方が武器を沢山持っていた。資源や食べ物を奪い、抵抗する人を殺したんです。酷い場合は女性を強姦しました。最後に証拠を残さないように家を焼き尽くすようなこともした。私たちは戦後50年を機に、加害の歴史が日本全国各地にあるんじゃないか、と調査をしたんです。調査して、いっぱい見つかったんです」
石田さんはトンネルの写真が載った資料を掲げました。
「このトンネルは何のために掘ったのか。戦争中、中島飛行機製作所として戦闘機を作っていたんですね。アメリカに工場を壊されると、トンネルを山に掘って、その中で飛行機に作ろうとした。群馬県内に5カ所あります。誰がトンネルを掘ったのか。植民地の朝鮮人、中国人を連れてきて掘らせたんです」

集会の参加者らはそれぞれの思いを書いた付箋紙を追悼碑に貼り付けた=群馬県高崎市

「生きた証」を残そうという思いが詰まっている


連れてくるというのは「強制連行」でしょうか。朝鮮人が金儲けのために自発的に日本に来たのだという主張について、石田さんは丁寧にひもときました。
警察官と役場が農家の次男、三男を供出させ、現地では抵抗できなかったこと。日本による土地調査事業で農地を奪われ、農民は食うや食わずの状況になっていたこと。
「大きな意味では日本の力によって連れてこられた。日本で働かざるを得なかった」
次いでJR岩本駅(沼田市)の近くの水力発電所の導水橋の写真を掲げました。これも朝鮮人の強制労働で作られたものだそうです。工事を請け負った建設会社「間組」の社史には朝鮮人約1000人が動員されたという記録がありました。

沼田市の如意寺には朝鮮人の埋火葬許可証が残っています。1990年代には強制労働を生き伸びた人の証言も新聞各紙に掲載されています。
「この碑にはその人たちの生きた証を残そうという思いが詰まっているんです。歴史事実を表現しているからこそ、いま向こうで騒いでいるあの人たちはいやなんですね。県庁に撤去を働きかけた。そして県は撤去を決めた。日本の裁判所も撤去を認めてしまった」
「群馬の森」には小さな山がいくつもあります。それは火災が広がらないような工夫。地形が火薬工廠だった痕跡を伝えています。
「ここは日本の戦争の歴史を背負った県立公園です。戦争の歴史を伝える意味でも絶好の立地だった。だからこそ、撤去させたいのだろう」
石田さんはそう語りました。

松本浩美さん=群馬県高崎市

この碑は「日本の良心」 だからこそ疎まれ撤去される


群馬県に生まれ育ったライターの松本浩美さんはこれまで新宿で抗議行動を重ねてきました。
「なぜ碑が撤去されるのか。この碑が『日本の良心』だからです。植民地支配の加害の歴史を反省することが日本の良心です。それが今の政権は目障りで仕方がない。だから叩き潰す。追悼碑は撤去されちゃうけど、ここに集まった人たちの思いは消えません」
そして声を震わせながら、群馬県への抗議を口にしました。
「追悼碑の撤去は差別扇動です。群馬県が撤去のお墨付きを与えたから、右翼団体が大挙して押し寄せました。私が懸念しているのはヘイトスピーチの激化と朝鮮人追悼碑やモニュメントが同じような形で撤去されるのではないかということです。そんなことがないように一緒にやっていきましょう」

神奈川県で朝鮮学校を支援している秋山真也さんはこの碑が立った意味を学ぼうと足を運びました。
「碑文にある『記憶、反省、友好』という文字を目に刻もうと思ってここに来た。朝鮮半島を侵略した負の歴史、朝鮮半島から無辜の朝鮮人を連れてきて厳しい現場で働かせて犠牲にした。その歴史を記憶にとどめ、心から反省し、1人1人が手をつないで、平和の輪を大きくするために友好の輪を築いていこうということです。ここに集まった人は歴史の証人。ここから碑がなくなったとしても加害の歴史は消えたりしません。大事なのは明るい未来のために、子ども達に伝えていくことです」

群馬県玉村町のオルタナティブスクールで教員として働く木村香織さんは、2週間前に子ども達を連れてこの碑の前で校外学習を行いました。
「子どもは具体物で教えることで一番学びを得ます。碑文の『記憶 反省そして友好』について、本当はごめんなさいって書きたかったんだよ、と言いました。だけど、日本人の中に反対意見があるから百歩譲って反省なんだよ、って。本当は強制連行って書きたかったんだよ。だけど反対意見が強くて、一万歩譲って労務動員という言葉になったんだよ、と伝えました」

本当にこの国を愛するなら加害も被害も伝えていく


講談師の神田香織さん=群馬県高崎市


広島の原爆被害を描いたマンガ「はだしのゲン」を講談にして37年間、全国各地で披露してきた講談師の神田香織さんの姿もありました。
「はだしのゲンが去年、広島市の副教材から削除されました。朝鮮人労働者の追悼碑を撤去するというのは同じこと。どうして本当のことを子ども達に伝えていこうとしないんでしょうか。本当にこの国を愛するなら、加害も被害も含めてあったことを伝えていく。これが一番だと思うんです」
そして、「記憶は弱者にあり」という言葉を引用しました。「酷い目に遭った人はそれをいつまでも覚えている。それを加害者が忘れたいと暴力をふるってどうするんですか」と続けました。
はだしのゲンは昨年、広島市の副教材から削除が報道された後、マンガの売り上げが15倍に伸び、神田さんへの「はだしのゲン」の講談の依頼もコロナ禍で年1回に減っていたのが、昨年は18回にのぼったといいます。
「ゲンと同じように、朝鮮人犠牲者を追悼する気持ちを15倍に増やそうではありませんか。日本の軍事費が増えていく今こそ、加害の歴史をきっちり学んで伝えていくことで、戦争に向かう政府の動きに歯止めをかけましょう」と訴えて拍手を浴びました。

集会の最後に司会を務めた群馬県出身の女性がマイクを握りました。
「公共の利益を害していない限り、代執行はそぐわない。なのに、法にのっとってやりますとは何か?山本一太知事許すまじ、群馬県クソださい。裁判官だって間違うことがある。これで終わりじゃない。壊されたらまた作ればいい。碑について、心の中にずっと留め置きながら、また新たな碑を作りましょう」と呼びかけました。

プンムルの楽隊が碑の前で演奏した=群馬県高崎市

朝鮮半島の農楽「プンムル」の楽隊が碑の前を演奏しながらぐるぐると周り、参加者による献花が行われました。
「忘れません、忘れません、忘れません」とポストイットに碑への思いを書いて貼り付ける人も居ました。

「税金の使い道が違う」「なんで壊しちゃうの?」 参加した人たちの声

追悼集会が終わった後、参加していた人たちに話を聞きました。
母親と訪れた中学3年の女子生徒は「国を平和にするために、碑を残すことが大切だと思う。壊すのにも費用がかかる。税金の使い道が違うなと思いました。加害の歴史は学校で教えてもらえないので、知ることができてよかった」と話しました。

丸木美術館を訪れるためにソウルから来たという女性大学教員は、碑の撤去を知り、急きょ群馬の森に駆けつけました。
「日本に朝鮮人犠牲者の追悼碑が建てられたことに感謝しています。この碑は日本と韓国の関係を深めることに貢献しました。なぜ撤去するのでしょうか。惜しいと思います」

ドイツ人の夫との間に4人の子どもがいる日本人女性は、子ども達を連れてやってきました。「子ども達は以前もここに来たことがあり、撤去と聞いて来たがった。どんな形でかはわからないけど、碑はこの子たちの記憶に残ると思う」
一番幼い未就学の子は「なんで壊しちゃうの?」とお母さんに聞き続けていました。
「ドイツではナチスの加害の歴史を刻む碑を壊すことはあり得ない。そのような企みがあれば、市民が大挙して抗議のデモをし、やめさせるでしょう。なぜ日本では、これがまかり通るのでしょうか」と話しました。

碑の前で献花し、黙祷を捧げる人たち=群馬県高崎市

【記者は】
ひとり一人の足跡をたどり碑に残す営み、止めないで

私は全国各地にある朝鮮人慰霊碑の取材を続けています。最初のきっかけは、2019年9月、韓国のジャーナリストで映像作家の安海龍(アン・へリョン)さんが作ったサイト「散らばった歴史 忘れられた名前」に触れたことです。安さんのお父さんは徴用工として北海道の千歳で滑走路の建設にかり出されたそうです。当時16歳でした。
記事の中で、私は「群馬の森」の朝鮮人追悼碑に抗議の声が上がっていることなどを前提に、「近年、徴用工の動員の強制性を巡り、碑文などを削除・変更する例が相次いだ」と書きました。安さんは「どう解釈するかは日本人の問題。私は記録を残した人に感謝し、労働者の足跡を追いたい」と応じています。慰霊碑は全国に約160カ所あり、安さんの歴史をたどる旅はまだ続いています。
<ひと>安海龍さん

2020年12月には夕刊連載「現場へ! 強制労働の足跡をたどる」で、各地の鉱山で戦時中に強制労働により犠牲となった朝鮮人・中国人と、その顕彰碑を守る人々について取り上げました。
①    朝鮮人や中国人、鉱山で苦役(静岡県の峰之沢鉱山)
②    慰霊碑に格差、どこから?(栃木県の足尾銅山)
③    アジア人への冷たさ、根深く(三重県の紀州鉱山)
④    会いたい父よ、事故で海底に(山口県の長生炭鉱)
⑤    滞る遺骨返還、向き合いたい(岐阜県の神岡鉱山)
どの現場でも在野の郷土史家や教員、労働組合員、在日朝鮮・韓国人らが丁寧に地域に残る歴史を掘り起こし、記録し、碑を建立したり、遺骨返還の道を探っていたりしました。
数百人単位で連れてこられ、半数が死んだ現場もあります。名簿には13歳の少年の名もありました。
静岡県浜松市の高校教諭、竹内康人さんは「日本人にとって(朝鮮や中国からの)移入労働者はいくらでも替えの効く『消耗品』だった。一人ひとりの経緯を明らかにすることは消耗品を人間にかえす作業だ」とその意義を語っています。こうした活動の上に各地の慰霊碑・追悼碑の建立があるのです。
私は当時の日記に、「教員でも加害の歴史を取り上げる人が減っている。労組も先細りだ。この人たちがいなくなったら、碑や追悼集会はどうなってしまうのだろう」と書いています。
いま記事を読み返すと「強制連行」「強制労働」と書いてネットで批判されないようにと、用語の定義に汲々とし、関わる人々の思いを十分に伝え切れていなかったのではないか、という反省が先に立ちます。
「群馬の森」の朝鮮人追悼碑撤去が悪い先例とならないように、私たちはこれら全国に点在する慰霊碑・追悼碑を守っていかなければなりません。
歴史の証人を消させない。歴史否定の論をこれ以上広げないために、自分たちの地域から、郷土史から、実直な学びを積み重ねていきたいと改めて思いました。(阿久沢悦子)
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