「体冷やすと、子どもを産めなくなるよ」
秋田の冬はとにかく寒い。「体冷やさないようにしないと。子ども産めなくなるよ」。10代から20代にかけて、そういう言葉を何度もかけられた。記憶があいまいではっきりとは言えないが、1976年生まれの私が中高生くらいの時にはもう耳に入っていたように思う。そして「冷えと母体」は関わりのあるものとして、いつの間にか頭の中に組み込まれていた。
体を冷やさないようにという言葉は、私の体を気遣うやさしさからきたものだと分かっている。
しかし、その結びにある「子どもを産めなくなるよ」という言葉は、どのような考え方から生まれたものだろう?
「自分の体は自分のもの」
2月26日、生殖能力をなくす「不妊手術」を自分の意思で受けられる社会にしたいと願う女性たちが、東京地裁で国家賠償請求訴訟を起こした。原告は5人。〈「わたしの体は母体じゃない」訴訟〉と名付け、訴訟費用などにあてるため寄付も募っている。
母体保護法には不妊手術を受けるための必要条件として「妊娠や出産が母体の生命に危険を及ぼすおそれがある」「現に数人の子を有し、かつ、分娩ごとに、母体の健康度を著しく低下するおそれがある」「配偶者(事実婚を含む)の同意がある」ことを課している。違反すれば50万円以下の罰金や1年以下の懲役という刑事罰を受ける。
原告の女性たちは、母体保護法の規定(3条1項、28条、34条)が憲法13条(個人の尊重)と憲法24条2項(個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した立法)に違反すると訴え、国に対して不妊手術を受けられる地位の確認や損害賠償を求めている。
「自分の体は自分のもの」。この、当たり前であるはずのことが、日本ではいまだ制限付きの権利になっている。
たとえば人工妊娠中絶を受ける際にも、母体保護法で原則、配偶者の同意が必要となる。女性が「望まない妊娠」をしたとき、配偶者や性行為の相手の同意書を母体保護法指定医に提出しなければ中絶できない。
また刑法(212条)は「妊娠中の女子が薬物を用い、又はその他の方法により、堕胎したときは一年以下の懲役に処する」と定める。相手の男性は、罰せられない。
「女性=母体」の根本にあるもの
10代か20代だった私に向けられた「体冷やすと子ども産めなくなるよ」という言葉は、無意識のうちに「母体の予備軍」として私の体を気遣うものだったように思う。
子どもを産み育てることは女性の幸せである―という考えが根強い社会では「体を冷やすと子どもを産めなくなる(あなたの幸せが損なわれる)」という気遣いが息を吐くように生まれる。やさしさや、思いやりから。
だが、一見「個人の幸せ」を願っているかのような言葉の源をたどっていったとき、そこにあるものが「国家の強制力によって生じている価値観」だと気づかされることがある。
行政による婚活支援、人口減対策としての「若い女性(妊娠・出産する可能性がある女性という捉え方)」の定着支援、それと表裏一体で起き始めている「子育て支援」からの静かな撤退(人口減対策の「ターゲット」を見誤ったと言わんばかり)がもつ暴力性にも、目を凝らしたいと思う。
「子どもを産んだ人が幸せを感じること」と、「子どもを産むことが幸せだと人に押し付けること」は、まったく異なる。今回提訴した原告の女性たちの声にふれて、そんなことを考えた。
性と生殖に関する健康と権利(セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス&ライツ=SRHR)について、この数年でまたひとつ歴史が動いたと感じている。
旧優生保護法のもとで強制された不妊手術に対する国家賠償請求訴訟、性同一性障害特例法の「不妊化要件」(※戸籍の性別変更のため、国家が生殖能力を失わせるよう求めるもの)への最高裁違憲判断、そして、母体保護法に対する女性たちの違憲提訴。声を上げるまでに、どれほどの苦しみがあっただろう。
それだけではない。思春期の私が「体を冷やすと子ども産めなくなるよ」と言われていた三十数年前から、さらにもっと昔から「私の体は私のものだ」と声を上げてきた人たちがいた。
そのような声にふれるたび、私が経験したことは個人的なことではなかったんだと気づく。社会が変わる瞬間に立ち会えている、と感じる。
(三浦美和子)
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