【シベリア散歩(3)】ウラジオストクの売春婦、からゆきさん
はじめに
こんにちは。前回はウラジオストクのコリアンタウンである開拓里と新韓村について紹介しました。清潔でないとして取り壊されるなど、かなり苦労しましたね。
上の写真は1918年頃のウラジオストクの売春婦を撮影した写真です。このような写真が残っているなんて、本当に不思議ですよね。彼女たちは一体どこでこのような写真を撮ったのでしょうか? そして、どのようにして写真のある場所までたどり着いたのでしょうか? その裏側を追ってみましょう!
この記事を始める前にそもそもウラジオストクという場所は、皆さんにとって馴染みのない場所かと思います。まずこの記事が展開される空間的な知識を知っておいていただきたいと思います。
1904年、日露戦争が始まる前のウラジオストクの日本人の主な居住地は、市の中心部であるJ1です。現在も各種施設や観光客で賑わう中心地です。
1905年の日露戦争が終わった後、日本人居住地はJ2まで拡大します。J2地区には現在、商店街が立ち並んでいます。特にこの時期に最も注目されるのは、J3地区にウラジオストクの日本人売春宿、そしてしばらくして1915年に本願寺という仏教寺院ができたことです。売春宿のすぐそばに仏教寺院が近くにあったとは、なんとも皮肉なことです。
もっと面白いのは、J3地域はコリアンタウンである開拓里(K1)の一部だったということです。開拓里は前回の記事で説明したように、ロシア当局が非衛生的な場所と指摘してK2地域に強制的に移転されました。その後、K2地域は新開拓里または新韓村と呼ばれました。
日露戦争後、市中心部から韓国人町へ
日露戦争は1904年から1905年まで行われました。 この戦争は「近代的な総力戦」であり、ロシア・フランス同盟とイギリス・日本同盟の間の国際戦であったという点で、「第0次世界大戦」と呼ばれることもあります。
この戦争が起こる前のウラジオストクでは、ある社会問題が浮上し始めました。それは、性病患者数が急増したことです。一つの統計を見てみましょう。1889年のウラジオストクの性病患者数は約800人、1897年には1,200人、1898年には3,400人まで増加しました。
もう一つ注目すべき点は、日本人売春婦の数も156人から205人に増加したことです。ロシア政府は売春婦が性病増加の原因だと判断しました。ロシア医務警察委員会は売春婦を病院に収容しようとしましたが、限界があり、隔離政策をとろうとしました。
ウラジオストクに来た日本人売春婦は、主に長崎と熊本の出身者が多ったです。長崎はウラジオストクと航路がつながっており、シベリア艦隊が冬の間、長崎に停泊しているため、渡航が容易であったためです。それでも彼らは違法な売春をしていたわけではなく、ロシア政府が認めた法律の中で活動していました。
彼らの呼び名は「からゆきさん(唐行きさん)」です。
せっかく彼らの正式な呼び名が分かったので、ここからは日本人売春婦ではなく「からゆきさん」と呼ぶことにします。
彼女たちは日露戦争後、韓国人のいない韓国人町である開拓里へ移動させられました。なぜ、開拓里に韓国人がいなかったのですか?ロシア国籍のない韓国人は村を離れてしまったからです。
空の開拓里にはロシア政府によって動員された労働者が入り、戦時中に中国の煙台地域に避難した日本人からゆきさんたちは、日露戦争後すぐにウラジオストクに来ました。
また、日露戦争後に3万人のロシア兵が駐留し入国の簡素化により、からゆきさんへの需要と行政的な入国手続きが日露戦争後すぐに整いました。
日露戦争前は市の中心部にあった売春宿は、戦後警察によって開拓里に移され、その数は15軒に増えました。
前回の記事で説明した通り、コリアタウンである開拓里は1911年頭に衛生的問題で新韓村に移転されました。
実は1911年初頭、韓国人だけでなく、日本人売春宿も取り壊されそうになりました。 ロシア政府も日本人売春宿が衛生的に汚いと認識したためです。 しかし、この決定に売春業者たちは日本人商人と一緒に駐ウラジオストク日本総領事館に助けを求めました。その結果、日本総領事はロシア政府官僚に陳情を出し、移転時期を延期するよう譲歩を得ました。その結果、移転先が決定するまでは経営できるようになりました。
日本軍の引き上げまで存続
新韓村が形成された後、開拓里はからゆきさん(日本人売春婦)とロシア人売春婦が居住する場所となりました。彼らは開拓里に残り、1922年日本軍がウラジオストクを離れるまで売春業に従事しました。ここはウラジオストクの代表的な売春宿として、各国の軍隊が行き交う場所でした。
日本兵はどのような経緯でウラジオストクにいたのでしょうか?答えは、1918年から1925年にかけて展開された日本のシベリア出兵に関係しています。
ロシア政府は1914年12月に開拓里の日本人売春宿の移転を決定したが、結局実行されず、からゆきさんは開拓里に残って売春に従事しました。「華林新吉原」、「錦江桜」などが有名な売春宿でした。時に華林新吉原 については、 「大門に萬燈飾をなし不夜城の光景」と記録されています。
ウラジオストク日本人社会における売春業者の影響力は強かったです。日本人居留民会の幹部に売春業者の親戚関係者が多かったです。このため、売春業者は日本領事館でもどうすることもできなかった。
ウラジオストクの日本人売春宿の客は主に中国人とロシア人でした。からゆきさんは市街地で中国人を相手にし、開拓里ではロシア兵を相手にしました。日本軍のシベリア出兵期のおもな客はアメリカ兵でした。
特に中国人に接したからゆきさんは、中国人によって「仕切られ」になることが多かったのです。「仕切られ」とは、からゆきさんの代金を外国人に支払い、その外国人の妾になることです。中国のアヘン常習者に仕切られたからゆきさんが多かったです。仕切られによって日本人居留民会が得た経済的利益は数え切れないほど多かったそうです。
人間の歴史の中で永遠のものはなかなか見つかりません。日本人の売春業者たちもそうでした。1922年7月、日本軍のシベリア鉄兵宣言以来、売春業者たちは売春婦の雇い代だけで数万円の損失を被り、ロシアを離れないという決意を固めました。しかし、結局閉鎖を免れることはできませんでした。「花に十日の紅なし」の諺のように情勢が変われば権力も一緒に消えていくのです。
最後に
ここまで、「日露戦争後のウラジオストク朝鮮町における日本人売春婦につい」という論文に基づいて様々な資料を駆使し、ウラジオストクの韓国人町における日本人売春婦、つまり「からゆきさん」の歴史について紹介しました。彼らがなぜ韓国人町に住むようになったのか、そしてなぜ韓国人が去っても彼らはそこに居続けなければならなかったのかについても調べてみました。
ロシアの警察は性病を取り締まるために、からゆきさんを韓国人町に縛り付けました。ウラジオストクの日本人社会も韓国人町の「仕切られ」のおかげで経済的な利益を得ていました。そのため、彼らを韓国人のいない韓国人町という束縛から解放するつもりはなかったようです。このような状況で、からゆきさんが自分の人生を再び開拓するために、そこを離れてどこかへ行くことは容易ではありませんでした。1922年、日本軍のウラジオストク撤兵という「デウスエクスマキナ」によって、別の人生の行路が彼女らを待つまでは。
デジタル歴史家
ソンさん
【参考】
藤本尊正、「日露戦争後のウラジオストク朝鮮町における日本人売春婦について」、 『Север』 (26), 2010、75-93頂
http://www.etomesto.ru/map-vladivostok_1919-jp/?x=131.900584&y=43.138583
Иван Зуенко、Индустрия греха во владивостокском «чайна-тауне»、Magazeta、2018/10/03
牧野宏美、「1日で49人の相手を…」 過酷な労働、波乱の人生赤裸々に 「からゆきさん」肉声テープ発見、『毎日新聞』、2020/12/29
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