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4/30 雑記

私は本当にクリニックでされていた話の意味をことごとく取り違えていた。両親を投影していたという言い訳は本当に言い訳でしかなく、それをメタ的に話題にすれば良かったのに、居心地の良い場所を壊すのが怖くて、回避した。

結果的に家族病理の理解に辿り着けたけれど、別に理解しなくても進めたのではないか。空虚感をあるがままに受容してとりあえず進むという森田療法的な仕方で治癒していけたのではないか。森田療法の考え方に父親の気配を感じた…というのはどうでもよく、ただ私が回避したという事実があるだけでしょう。

あろうことか治療構造の理解すらも避けて通り、家庭的な居心地の良さに安住しようとした。善意にタダ乗りして快適さを享受し続けた。おそらく自閉特性を慮って優しい言葉で伝えてくれていたのに、それを自分に都合良く解釈して、安易な道に逃げ続けた。現段階の自分にできることだけをやって、できないことが日々浮き彫りになっていった。

自分の愛されたいとか理解されたいという欲を満たすためだけに、相手を無視して自分の解釈を押し付け続けた。発達障害が「免罪符」であるという意見には賛成しかねるけれど、私はたしかに「免罪符」として利用してしまってたんじゃないか。
(この自己中心性が生きづらさを作っている…というよりも、自己を注視して生活するあまり、それがどんどん膨れ上がって生きづらさになっている。満たされなさを埋めようとせずに、そのままにしておけ。そのままにして、日々のやるべきことに集中して取り組め。)

それはたしかに特性的に仕方なかったと言えなくもない面もあるかもしれない。けれども、たしかにそうでない部分も多かった。「知らないうちに」回避した、と私は以前話したけれど、そんなことがありうるのか。脳内多動の散らかり具合を考えればあり得るかもしれない。しかし、脳内のぐちゃぐちゃ具合に気付いたり、それを整理しようと工夫することはできたんじゃないか。

たしかにADHDの多動だけはどうにかならないと何もこなせなかったけれど、それにしたって、ピンポイントで良かったわけで、網羅的にすべてを洗い出そうとすることの意味ってなんだったんだろうか。これも注意の持続と報酬系?単なる「はからい」ではないんですかね。「はからい」に全神経を注いだ。

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