涙の量

「分からないこと」。
私は人の感情や言動の含有物を分析しようとする癖がある。
分からないことが嫌いなのだ。
分からないことは私を傷つけてくる、そう認識しているからだ(しかし、ビジネスなどの現場での傷つきはさほど響かないし、数分後には忘れているぐらい)。この人間のこの言動は過去にこんな経験をしたからだろうだとか、今まで言われた言葉たちをかき集めては家庭環境や社会環境を妄想してしまったり。

正直、考えたところでどうしようもない。
それに、私のこの勝手な分析というのは、悲しみが主成分となっている。
それはもちろん私が悲しみを主として生きているからだろう。
ネガティブ感情に過敏な人間だった。
しかし今はもう過敏というよりも、アンテナを張っているのではないかと思うぐらいそこにしか目が向かなかったりしている状況である。
きっと、私自身が悲しみという感情を上手く発散できていないのだろうと思う。
そんな中で人の言葉たちを勝手に悲しみとしてカテゴライズするのは本当に失礼なことなのではないかと、冷静にそう思う。
楽しさで生きている人間もいれば、そもそも悲しみなどどうだっていい人間だっている。
わざわざポジティブをネガティブにする必要などどこにもない。

前回書いた反省をすることや、この偏見まみれの分析と呼べるかも怪しく、もはや脚本のようなものたちを完結させるには、発散なのだと思う。
それは、他人の前で大泣きすることだと私自身はもう分かっていることなのだ。

分からないことも苦痛まみれだが、分かっていることですらも苦痛が伴うようだ。

「本当は考えたくない」という言葉は少し違う。
本当は、考えたくないわけじゃなく、思考をし続けた後にリフレッシュできる何かがほしいのだ。
私は考えない人間になりたいわけではない。たしかに考えない人間の方が長生きするというデータが実際にあるらしいが、そういうわけじゃない。
知性を生かして、物事の輪郭だけじゃなく中身も見つめ、理性的な人間でいたい。
でも、所詮私は直感などの本能も強いため、潜在意識の面倒も見たい。それがリフレッシュに繋がるのである。
それが、他人の前で泣くことだ。
ずっとずっと、温もりを求めている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?