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優しさでできたタクシーの思い出

Facebookの通知が、昔の出来事を知らせてくれた。iPhoneの画面には、わたしが7年前の今頃に投稿した内容が表示されている。わ、懐かしい。

「今日は朝から美人さんばっかり乗ってくるからびっくりしとったんやけど、お姉さんが真打しんうちやなぁ!」

わたしが後部座席に乗りこむなり、タクシーの運転手さんはにこやかにそう言った。

「ザ・調子のいい大阪のおっちゃん」である。50代くらいの男性。女性のお客さんに対する「つかみ」のフレーズなのかしら。

当時のわたしは、妊娠7か月。お腹には双子がいて、すでに腹囲は90cmに達していた。会う人会う人に「そろそろ生まれるんですね!」と声をかけられた時期だ。実際の出産は、3か月後だったけれど。

妊婦健診に行くため、タクシーをつかまえた。地下鉄の駅から病院までは少し離れていて、重いお腹で歩くのはかなり負担だった。

行き先である総合病院の名前を確認したあと、運転手さんはミラーをのぞきながらたずねた。

「もう生まれるんですか?」

よく聞かれるやつだ。わたしは困って、双子を妊娠しているからお腹が大きいけれど、出産予定日はまだまだ先なのだと答えた。

「へー! 双子! そらダブルでめでたいですわ!」

運転手さんはにこにこしていた、と思う。顔は見えないけれど、声に笑みがにじんでいるのが伝わってきた。来阪した人が驚くことのひとつに「大阪のタクシー運転手さんはよくしゃべる」があるそうだ。

運転手さんは続けた。

「うちはね、嫁はんも私も子どもが欲しかったけど、結局、できへんかったんですわ」

わたしは言葉に詰まった。

運転手さんは明るく話し続ける。

「なぁーんでうちには子どもができへんねやろ、って思ってつらい時期もありましたけど、いまは夫婦ふたり楽しく暮らしてますわ」

わたしが乗車したせいで、運転手さんに話したくないことを話させているのではないかと、心配になった。けれど、運転手さんはほんとうに屈託なく、気楽な口ぶりで、話すのだ。ただ、「なぁーんで」のイントネーションが心に残った。

「そのぶん、妊婦さんや、お子さんのいてはるお母さんに優しくしようとおもてるんです。わしらにできる子育てのお手伝いみたいなもんですわ」

そこまで聞いて、わたしは涙ぐみそうになった。勝手に想像するのは申し訳ないけれど、運転手さんたちの「つらい時期」が夫婦ふたりの楽しい暮らしに姿を変えるまで、苦しい日々があったかもしれないと思った。

「ザ・調子のいい大阪のおっちゃん」なんて決めつけた自分を恥じた。調子よく見えても、みんないろいろ、ある。そして、わたしが同じ立場だったら、同じことを言える自信はない。

タクシーはなめらかに、ゆっくり走った。「安全運転で行きまっせ! 車の中が寒かったり暑かったりしたらうてくださいよ」と運転手さんは言った。おかげで、目的地に着くまでの時間を安全に、快適に過ごせた。

病院に到着。運転手さんは後部座席のドアを開け、もたもたするわたしを待っていてくれた。

「体、大事にしてくださいね!」

あらためて見た運転手さんの表情は、やはりにこにこと晴れやかだった。わたしはありったけの感謝をこめて「ありがとうございました」と返し、院内に入った。心がふくふくと弾力に満ちていくのを感じた。

つらい経験を優しさに変えられる人は素敵だ。尊敬する。

わたしも、泥水にたとえたいくらい嫌な、つらくて悲しい思いをしたことがある。忘れられないのに、すっかり「過去」にもできない、そんな記憶を持っている。

でも、もしかしたらつらさが優しさに転じる日がくるかもしれない。

そう思うと、救われる気がする。あのタクシーでもらった優しさを、わたしもいつか誰かにあげたい。まずは手近なところから始めようと思い、わたしなりにまわりに気を配ることにしている。

優しさが乱反射する世界は、きっと丸くて、きっとすごくいい。

個人的なご厚意でお話しくださっただろうこと、運転手さんに掲載の許可を得るすべがないことから、実際のお話とは少し内容を変えてあります。


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