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読書のコスパ

小説を一冊、読み終えた。物語からテーマがはっきりと浮かび上がってくるような作品だった。だらだらとストーリーが続くのではなく、背景にある筆者の考えに手が届きそうな感覚があった。こういう作品に会えたとき、表現力ってすごいなあ、といつも感じる。

そんななか、思春期に出会った「わけわからん小説」たちを思い出す。

梶井基次郎の『檸檬れもん』も謎だったし、カフカの『変身』も意味がわからなかった。わたしは思考が浅薄なほうなので、「なんだこれ、わけわからん!」と戸惑った。

よくわからないから、無理やり「この世がいかに得体の知れないものかを描いているんだな」とか「人生の不条理を表しているんだろう」とか結論づけた。今も、納得できる体感的な答えは得られていない。

とくにカフカの『変身』は、中島敦『山月記』を読んだ後だったから、よけいに意味がわからなかった。

『山月記』では、主人公の李徴りちょうが虎に変身してしまったのは、己の不遜さが原因だと結論づけられていた。それに対して、カフカの『変身』では、主人公グレゴール・ザムザが虫になってしまった後の顛末が淡々と語られる。もっともよく知られた不条理文学かもしれない。

きれいに因果が決まった『山月記』と、不条理すぎる『変身』。変身譚として比較されることの多い二つの作品を読んだわたしは「決定的に違うやん!」とびっくりした。読了後に教訓を得られるかどうか。それがわたしにとって決定力な違いだった。

そういうことを思い返していて、いつのまにかわたしは読書にコスパを求めていたのかもしれないと思い当たった。読むという行為に対して、なんらかの教訓や学びをリターンとして常に求めていたのではないか、と。限られた時間のなかで読むわけだから、できるだけ得るものが多いほうがいいと思っていた。

でも、遠い昔、「わけわからん小説」について考えるのは楽しかった。

ああでもない、こうでもなさそう……と考えを巡らせるとき、脳のいろいろなところが活性化されていたんじゃないかと思うほど。あの時間もまたとても豊かだった。

たまには、納得解を追い求めるのではなく、「ただ読むこと」を楽しんでもいいかもなあ、と思う。

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