暴れる女の子
映画『ノック・ノック』(2016)を観た。
43歳建築家の男性が、愛する妻と子供たちがビーチに行っている間に、2人組の若い美女に何もかもめちゃくちゃにされる、というストーリー。
女性2人組は土砂降りの日にずぶ濡れで家に来て、雨宿りをさせてくれた男性を誘惑して性行為をさせた後、次の日には性格が180度変わって、人間離れした邪智暴虐の限りを尽くす。
主人公の男性はすごくいい人で、文句のつけようがない。
にもかかわらず、一度誘いに乗っただけで、初対面の女性にすべてをぶち壊される。
思ってたよりも暴力がハードですごかった。
全く関係ない人が死ぬシーンもあって純度高めのやばさだった。
予告編。
この映画の怖いポイントは「犯人に目的がないこと」だと思う。
暴力をふるう、というのは普通ならお金、名誉など、何か目的や因縁があってやることだと考える。
しかしこの女性2人組にそういったものはない。
すべてをぶち壊すのが楽しいから暴れている、といった感じ。
誤解を招きそうな言い方だが、これって非常に女の子的だと私は思う。
これを書くととってもサブカル女子感が増しちゃうのだけど、でも書くんだけど、私「ひなぎく」という映画が好きなのね。
ひなぎくも、女の子2人組が楽しそうに家に火をつけたり、パーティー会場に忍び込んでケーキの投げ合いをしたりするポップな映画なのだけど、
これもおそらく女の子だから成立している世界観。
「女性」ではなく「女の子」。「少女」でもいいかも。
現実社会の人、特に男性は、社会に対して「何かしていかなければならない」と、教育されて育っている。
だから男の子が暴れるときは、必ず何か目的がある。
何かのアンチとか。
男の子の暴力は、常に何かへのカウンターである。
女性でも、「社会を良くしたい」「世界を変えたい」と思っている人は、男の子的だ。
一方で「少女」は、もともと社会からそんなに期待されていない。
(記号としての少女、ね。)
だから映画の中で暴れる女の子たちは、社会に対して「何かしていかなければならない」という考え方から、自由だ。
社会的に「クズ」などと思われても、彼女たちには社会という軸は存在しないので、どう思われようが痛くもかゆくもない。
どうしても都合が悪くなったら、「女の子だから」で許されればいい。
怖いものは何もない。
したがって、お金が目的じゃない強盗をするし、怨恨とは無関係に善い人を殺す。
一生そうやって「遊んで」、楽しく生きていきたいと、本気で思っている。
それはすごく意味不明で怖いのだけど、同時に、どこか愉快で、クールさがある。
彼女たちは知っている。
変に深刻ぶって真面目に生きるのはバカらしい。
それなら本物のバカになって、遊びまくったほうがよっぽど楽しい、と。
生きることの本質って、やっぱり「楽しむこと」に尽きる。
そこに目的は、本来、必要ないのかもしれない。
無目的に生きてみたい。
そんな願望は、きっと少なからぬ人の中にある。
だからこれからも映画の中で、女の子たちは暴れ続ける。
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