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子なしの敵は、どこからともなく現れる

3年前、東京から大阪に引っ越すことになり、退去日に夫と一緒に不動産屋に鍵を返却しに行った。その地域では50年くらい続く不動産屋で、家の周りを500mくらい歩くと、二つ三つは管理物件を示す看板を目にするような、地元では名の知れた不動産屋だった。

鍵を持って行った私たちを対応してくれたのは、70代くらいの品のよさそうなご婦人だった。月1くらいで帝国劇場とかに通っていそうな雰囲気。退去することは既に伝えていたので、手続きをしながら「大阪のどの辺りに住むのか」「この地域の住み心地はどうだったか」など、和やかに世間話をしていた。

いつかもし東京に戻ることがあったら、またこの地域に住みたいです、と口にしたら、とても喜んでくれた。自分も若くしてこの土地に嫁ぎ家業を継いだこと、子育てしながら仕事も続けてきたことなどを話してくれた。

「次に戻ってくるときは、赤ちゃんを見せてね」


何気ないひとことだった。
私と夫の間に漂う空気が、ほんの少しだけれど変わったのがわかった。顔を見合わせたりはしないが、おそらく彼も同じことを感じている。

下記の記事で書いたことがあるけれど、私はいわゆる「選択子なし」だ。あえて周りに宣言したことはないが、家族(自分の方も義実家も)からも職場の人からも、その話題を持ち掛けられたことはこれまで本当になかった。(友人とはディスカッションをしたことは何度かある)

たぶん私は選択子なし|coicoi (note.com)

赤の他人から突然、ノーガードの状態でストレートを食らった。たぶん絵に描いたような作り笑いで「あーそうですね、ぜひ」みたいな、あからさまに気のない返答をした。嫌とか不快とか、そういう感情ではなくて「おうおう、本当にこういうことを言う人がいるんだ」という驚き。ご婦人を見る目が、一瞬にして珍獣を見るような目に変わった。その後も事務所を出るまで、何度か似たようなことを言われた。

ご婦人にはおそらく1ミリの悪気もない。話の中からお子さんやお孫さんをとても大切にしているのが伝わってくるし、それが彼女の喜びであり、誇りなのだろう。そして目の前にいる、今日初めて会う相手にとってもそうであると信じている。

ただ、世の中には子どもが欲しくても様々な理由で「持てない人」「持たない選択をせざるを得ない人」もたくさんいる。わざわざ言わないだけで、そういう事情を抱えた人は少なくない。

私は散々議論し尽くしたうえで「持たない」選択をしているので、今さら傷ついたりはしない。けれど、もしかしたら私が「欲しいけど持てない」人かもしれない、とは考えなかったのだろうか。「うちは持たないと決めているので」と毅然と言い返せばよかったのだろうか。あのご婦人は今も曇りなき善意で、悩める人を傷つけているのだろうか。のらりくらり躱した私は、未来の被害者を生み出すことに加担したのだろうか。

誰しもきっとこれまでの人生で色付けしてきた眼鏡をかけて生きているから、完全にそれを取り去ってものごとを捉えるのは難しい。けれど、「自分は色眼鏡をかけている」という前提に立つことがまずは大切だと思っている。相手のためを想って発した言葉が、相手を傷つける武器とならないように。


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