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啓発本を肯定できるようになった

 大学1、2年生の頃は、自己啓発本の類をよく読んだ。

 というのも、中高の頃は勉強に部活にと明け暮れていて、なかなか豊かな読書経験が積めなかった。本屋さんに寄るのはもっぱら参考書か文房具を買いに行く時で、「当時、どんな物語を読んだ?」という質問をされても、中学の卒業論文を書いたときに借りた青く分厚い専門書とか、教科書に数頁だけ載っていた名著の断片しか出てこない。中身は全く覚えていない。

 反省をして、「大学ではたくさん本を読むぞ!」と意気込んだ。なかでも、自己啓発本は目覚ましい肩書を持つ面々が書いていて、面白い面白い、と読み漁った。

 大学3年の頃から、自己啓発本が途端につまらなく感じるようになった。「あれ、この内容、別のところでも見たな…?」という感想に始まり、「これくらいは、本を読まなくてもわかることじゃないのかな?」「むしろ、自分で気づかないと意味のないことだよなあ」と思うように。

 4年生にもなると、自己啓発本というジャンルに対して、結構な角度を付けて斜に構えるようになった。「自己啓発本を疑い始めてからが、大学生の始まりだ!」という持論まで生まれ出ていた。

 時が流れて社会人に。
 仕事において深刻な悩みに直面した私は、ここ数年足を寄せていなかった自己啓発本の商品棚と対面して、唸っていた。

 悩みとは、「話し上手になりたい」という願いだった。よくある悩みだが、切実だった。自分なりに考えて上手な人の真似をしたり、発声練習をしたりしたが、上手くいかない。そうだ、ダメもとで行ってみよう、あの棚へ。そんな経緯だ。

 ギラギラ光る棚。自己投資、ロジカルシンキング、有能になる方法…。うう、装丁を見るだけで酔いそうだ。どれどれ、『バナナの魅力を100文字で伝えてください』かあ。バナナが可愛いし、中身も見やすいし、これにしよう。そそくさと、お会計。

 ページをめくる。なんとまあすっきり書かれていることか。何なら、大事なところは太字や線引きでこれでもかと強調されている。
 大学後半からは1週間かけて読むようなゴリゴリの本ばかり読んでいたから、行き帰りの通勤時間×3日くらいで読み終えてしまったことに拍子抜け。さて、もとを取るためにも、書かれていることを自分なりに実践して、少しでも肥やしにしよう…。

 あれ、自己啓発本って、種なのかも。ふと浮かぶ。

 今までの読書は、本から知識を与えてもらおうとしてばかりだった。本自体が果実だった。でも、自己啓発本は種か、もしくは苗木で、自分がどう実らせるのが大切なのかもしれない。

 当たり前かもしれないが、それぞれの本に「使いよう」がある。そのことに、遅ればせながらやっと、唐突に、気づいた。自分のなかの、ちょっとした革命だった。

 気づいてみると、本屋さんはまるで園芸店のように見えてくる。種袋なのか、植木なのか。この子は一年草かな、多年草かな。果実が実るまでに、どのくらいの時間がかかるんだろう。

 花かもしれない。切り花かな、はたまたドライフラワーかな。そういえば、おじいちゃんが大学に植えた桜は50年が経って立派に咲いている。そのくらい気長な種も、潜んでいるのかもしれない。

 自己啓発本の受容の仕方をわかって、一歩大人になった気分だ。自分の本棚のなかにも、まだ開花の可能性を秘めて待っている種や苗木がいるかもしれない。GWに、実家の本棚を整理するのが楽しみだ。


▼おじいちゃんが大学に桜を植えた話

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