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街歩きは森鴎外:夏目漱石=5:5がいい

 春風の感触を肌が思い出してきた。
 金曜日の夕方、家の近くの商店街を歩いていたら、「今日はもう帰ろう、横浜に帰ろう」と話している人々がいた。建設現場の作業員のようだ。
 話し方と場景とが、なんだかいいな、と思えた。

 大学を卒業してから、地元の神奈川を離れて東京に住むようになった。実家を出たはといえ、電車で帰れる距離に両親は住んでいるし、学生時代の友人たちにも気軽に会える。首都圏の外から上京している人からしたら、生ぬるい巣立ちだと思う。それでも地元の方の地名が耳に入ると、懐かしく嬉しくなる。

 実家に行くとき、友人に会うとき、行楽に出かけるとき、今の家に帰るとき。どこに行くにも高い確率で経由するターミナル駅がある。
 その駅は昔から生活圏内で、小学生の時は図書館の亀を眺め、中学生の時は総合スーパーのレストランで駄弁った。中学に上がる際には鉄道会社による再開発が始まり、思い出の場所は消え、商業デパートや高層住宅ビルができた。大学生では通学路に使った。
 社会人になってやっと、その駅離れをしたが、今でも度々利用する。面白いことに、その駅の改札階に降りる時々で、湧く感情が様変わりする。懐かしくなるときもあれば、他人行儀になることもある。感情が溢れる時もあれば、何も感じなくて心配になることもある。

 昔授業で、こんな対比に触れた。欧州の街を歩く際、森鴎外は剛として街に惑わされず凛と歩き、反対に夏目漱石は街に翻弄されて色々影響を受けたそうだ。(とてもうろ覚え。)欧州の街とは、すなわち「慣れない土地」と変換できたはずだが、慣れている土地でも表情が変わって見えるときはよくある。

 街を歩くとき、今自分はどっちに近いかな、とよく考える。最近では、六本木は堂々と歩けて、渋谷には圧倒された。私のなかでは、街の綺麗さとか人の多さとか、そんな単純な話でもないみたい。堂々とできても圧倒されても、楽しい。どちらかに偏りすぎても、疲れたりつまらなくなったりする。程よくありたいなあ。

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