見出し画像

死にたくないとも思わない

最近気づいたことがある。
死にたいとも思わないけど
死にたくないとも思わない。

もし仮に明日死んだとしたら、
悲しんでくれる人がいることは想像できる。

逃れたい何かがあるわけでも
何かに絶望しているわけでもないけれど。

それなりに仕事して
それなりに休日に予定があって
それなりに日々、楽しいことはある。

仕事が終わりひと段落した時に、
なぜか焦りのような、
寂しさのような感情が湧いてくる。

めちゃくちゃ多忙というわけではない
だからこそ
空いた時間を充実させなければならないという
焦りや不安

なぜそう感じるのか、
これを言語化したいのにできない。悶々とする日々。
誰かに相談するつもりはないけど、誰とも共有できなくて寂しい。
今できる範囲で文章にしてみた。


「夢ってなんですか?」「今後のビジョンとかあるんですか?」


最近出会った学生さんに聞かれることがあった。
言葉に詰まった。

練習してもっといいタイムでマラソン走りたいな
ぶらっと海外旅行行きたいな
とか、ないわけではないけれど
多分相手が求めている回答ではない。

私が学生の頃、
夢や目標を持ち、努力しないと生きている意味なんてないと思っていた。
でもその努力する先が見つからず、しんどい時期があったことを思い出す。

生きる意味とは?そもそも必要なのか?

なんとな〜く生きていれば人生を無駄にするのか?
直接誰かに言われたわけではないけれど
そう思わずにはいられない。
おそらく焦りの原因になっていると思う。



「まだ命があるからか、ちょっと痛いね」


訪問患者さんである94歳のおばあちゃんが火傷の処置中に発した言葉。
山奥の集落出身で、
いつも訪問のたび「山のわさびが〜」「千里の道を歩いたんや〜」と昔話を聞かせてくれ、
最後には「来てくれるなんて、あ〜ありがとうございます」と手を合わせるのがお決まり。

「まだ口にものを入れると味を感じて。
美味しくいただいてるんです、あ〜ありがたい」

この方とお会いするたび
「生きてるんだな」
と感じる。

生きる意味、、、とかじゃなくて
今をしっかり生きている。
羨ましい。



「ありのままの自分」「自分らしく」

SNSが普及したことが影響しているのか
「自分らしく生きている」のお手本ができてしまっているような気がする。
10人10色のはずなのに、
その理想像のせいで
みんな同じような方向に向かっている感じ。

SNSが悪いという話ではなく、
それだけ見ていても「キラキラしているように見える何か」と比較して
結局「自分」を見れないまま。
本当に大切にしたいことはわからない。



人生が変わる出来事?


なんとなく現状に満足できなくて、
1人海外旅行に行けば人生変わるかもと思ったことがある。

実際行ってみて
180度生きる世界が変わ、、、るわけはなかった。
でも「もっと英語ができたらもっと楽しかっただろうな〜」と思い、少し英語の勉強をしてみた、のような少しの変化はあった。

結局
どんな人と出会い、どんな経験をし、そして自分がどう感じ、どう行動するか
人生ってその積み重ねでしかない。
一つ一つが自分を構成し、変化し続けるのだと思う。

さっきのおばあちゃんの話に戻るが、
1つ1つの出来事を噛み締めて生きてきたんだろう。
最近の出来事は忘れちゃうけど、山での生活のことは事細かに覚えておられる。

生きることに精一杯な環境、時代で生きてきたおばあちゃん。
ありがたいことに衣食住には何不自由ない生活を送っている私。
もちろん生きてきた時代は異なる。

おばあちゃんが持つ
あの強さ。

土台を固めていくこの感覚。
地味だけど、それが何より大事な気がする。


情報が溢れ、何でも手に入ってしまう便利な時代。
だからこそ足元をみる練習が必要なのかも。

でもどうしても焦ってしまうから
命がある限り、
気がついた大切なことを手放さずに生きていけたらいい
ということにしておこう。

そしてこの焦りも、生きている、
の一部なのかもしれない


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?