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問い

どんな問いに出会うかで人生の豊かさが変わるような気がする。



この前開催した「タンボdeタイワ」というイベントを終えて
そう思った。
「タンボdeタイワ」というのはその名の通り
田んぼで対話をするというもの。

これじゃざっくりすぎるので、ちょっと紹介。




「最期はどこで過ごしたいですか?」

地域医療の現場にいて人生会議(ACP)という言葉をよく耳にします。

 「人生会議」とは、もしものときのために、あなたが望む医療やケアについて前もって考え、家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有する取組のことです。

厚生労働省のHPより(https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_02783.html)


簡単に言えば
「延命治療は望むか?」
「食べれなくなった時胃瘻は希望するか?点滴したいか?」
「最期はどこで過ごしたいか?」など
意思表示できるうちに話し合おう、もしもの時のために備えておこうというもの。

元気なうちから、というのがポイントなのだが、
「まだ元気だから自分には関係ない。」
「そんなこと言われても考えられない」
と感じる人も少なくない。


でも、「死」に無関係な人はいない。

家で最期を迎えることを望む人が多いが、実際は病院で亡くなる人が多い。
生きるの延長線上に「死」もあるはずなのに
「死」が日常から切り離されているようにも思う。


生きている人皆が自分ごととして考えるきっかけを。
生きる、死ぬの話をフランクにできればいいね、と
職場の仲間で話したりしていた。

また、医療職と患者、という関係性。
「先生の前だとかしこまって本音を言えない」
上下関係のようなものが生じるし、我々医療職者も病気や医療をベースとした関わりになりやすい。

それで本当に患者の人生や生活に寄り添えるのか?

タンボdeタイワの誕生


私には農家の友人がいて、時々手伝いに行ったりする。
農業も「命」を扱う仕事。
生命の営みが繰り広げられる畑や田んぼで
生きる、死ぬの話をしたらどうだろう。

開放感もあり、病院で話すのとはまた違った話ができるのではないか?
そんな話になった。

さらに、その友人は学生時代、哲学系のゼミに所属しており、対話を扱う授業があったと。対話のファシリテーターの経験がある友人の同期にも声をかけてくれ、協力してくれることになった。

こうして「タンボdeタイワ」が動き出すことになった。



「寂しさ」ってなんですか?

今回行った対話のテーマ。
生きる死ぬの話をするのが目標だが、まずは対話をやってみようというところから。


色んな案を出し合う中で、私が考えたテーマが採用された。
これを提案した時、単純に「寂しい」と感じることが多かった。毎日色んな人に出会い、話をしているのになぜ自分は寂しさを感じるのか。自分でも何かよくわからなくて言語化したいと思ったから。


「自分は感情に乏しいと自覚がある、だからこそ向き合ってみたい」
と話すメンバーもいた。

・感情を言語化する
・寂しさを深掘りする
・人との違いは何か?何が違うのか?を皆で話す。
そして自分の「寂しさ」に立ち返る。

これらをねらいとし準備を進めた。



どう問いかけるか?

とにかく準備が大事らしい。
対話を行う場づくりはもちろん、どう問いかけるか?が重要。
問いかけ方によって生み出される対話の内容が変わってくる。
そもそも人によって言葉の捉え方が違う。各々が認識しているニュアンスの違いを実感できるように、また、定めたねらいを引き出せるように。寂しさの因数分解を。

「問い」の設定のため、何度もミーティングを重ねた。


ざっとあげても様々な案が出てきた。


「寂しさを感じるのはどんなときですか」
「あなたは何に対して寂しさを感じますか」
「寂しさは自分にとって何に例えられますか」
「あなたのその寂しさは何色ですか」
「なぜ人は寂しさという感情があるのか」




最終的に決まったのが


寂しさを感じるのはどんな時ですか?
今、あなたは「寂しい」を何だと思いますか?

問いは二段構えに。



対話 inビニールハウス〜雨音とともに〜

畑のど真ん中でやる予定が、あいにくの雨。
育苗ハウスにお邪魔して開催することに。
計9名の参加者。中にはこのイベントのために静岡から来てくれた方も。2つのグループに分かれて約 1時間対話をした。


これは対話が終わって振り返りのシーン


ちなみに、対話のグランドルールはこんな感じ。

・コミュニティボールを持っている人のみ発言する。
・誰かの話に評価を加えない。
・無理に発言しようとしなくてOK。

どんな話が展開されたのかは
ここでは書かないでおくことにします。
あの場があったからこその言葉たちだと思うので。

同じ方向のエネルギーを持った人たちの中で話す安心感を
強く感じたことを覚えています。


問いから自己表現

第1回のイベントを終えて。

話を聞く中で
何で自分は/相手はそう思うんだろう、、、。
あの人の言っていることは共感できないな、、、なぜなんだろうか。

と考えさせられる場面がいくつかあった。普段考えないような問いが投げられた。その場で答えは出なかったが、持ち帰って今でも考えている。少し言葉にできた時、開放感のようなスッキリした気分になる。
その言葉も全部自分の内に秘めている、だけど姿形がはっきりしないもの。それに気がつき、表現できた開放感なのだろうか
(表に現れると別のものに変わってしまう気もするが、、、。)


どんな問いに出会うかで、人生の豊かさも変わるような気がした。




最初の話に戻るが、
「延命治療は望みますか?」
のようなクローズドクエスチョン
答えとしてはyes/noの二択かもしれないが、その選択に至るまでのストーリーは人それぞれなはず。
且つ、
日々揺れ動くもの。
そんな答えのない問いに向き合う姿勢が大切なのではないか。
その 1つ 1つが「生きる」「生きている」の積み重ねであり
「生」の延長線としての「死」があるに過ぎない
と最近思っている。




結局「寂しさ」を言語化できたのか?というと「はい」とは答えられない。正直ずっともやもやしている。けれど、対話の前後で表現の仕方は変化したと思う。

「今は(対話の最中)寂しいと感じないね。」
参加者の 1人がこう言った。
とても共感できた。
おもしろさに共感してくれる仲間が増えるといいな、と思った。




相手へ投げる問い
与えられた問い
問いを大切に生きていきたい。



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