問い
どんな問いに出会うかで人生の豊かさが変わるような気がする。
この前開催した「タンボdeタイワ」というイベントを終えて
そう思った。
「タンボdeタイワ」というのはその名の通り
田んぼで対話をするというもの。
これじゃざっくりすぎるので、ちょっと紹介。
「最期はどこで過ごしたいですか?」
地域医療の現場にいて人生会議(ACP)という言葉をよく耳にします。
簡単に言えば
「延命治療は望むか?」
「食べれなくなった時胃瘻は希望するか?点滴したいか?」
「最期はどこで過ごしたいか?」など
意思表示できるうちに話し合おう、もしもの時のために備えておこうというもの。
元気なうちから、というのがポイントなのだが、
「まだ元気だから自分には関係ない。」
「そんなこと言われても考えられない」
と感じる人も少なくない。
でも、「死」に無関係な人はいない。
家で最期を迎えることを望む人が多いが、実際は病院で亡くなる人が多い。
生きるの延長線上に「死」もあるはずなのに
「死」が日常から切り離されているようにも思う。
生きている人皆が自分ごととして考えるきっかけを。
生きる、死ぬの話をフランクにできればいいね、と
職場の仲間で話したりしていた。
また、医療職と患者、という関係性。
「先生の前だとかしこまって本音を言えない」
上下関係のようなものが生じるし、我々医療職者も病気や医療をベースとした関わりになりやすい。
それで本当に患者の人生や生活に寄り添えるのか?
タンボdeタイワの誕生
私には農家の友人がいて、時々手伝いに行ったりする。
農業も「命」を扱う仕事。
生命の営みが繰り広げられる畑や田んぼで
生きる、死ぬの話をしたらどうだろう。
開放感もあり、病院で話すのとはまた違った話ができるのではないか?
そんな話になった。
さらに、その友人は学生時代、哲学系のゼミに所属しており、対話を扱う授業があったと。対話のファシリテーターの経験がある友人の同期にも声をかけてくれ、協力してくれることになった。
こうして「タンボdeタイワ」が動き出すことになった。
「寂しさ」ってなんですか?
今回行った対話のテーマ。
生きる死ぬの話をするのが目標だが、まずは対話をやってみようというところから。
色んな案を出し合う中で、私が考えたテーマが採用された。
これを提案した時、単純に「寂しい」と感じることが多かった。毎日色んな人に出会い、話をしているのになぜ自分は寂しさを感じるのか。自分でも何かよくわからなくて言語化したいと思ったから。
「自分は感情に乏しいと自覚がある、だからこそ向き合ってみたい」
と話すメンバーもいた。
これらをねらいとし準備を進めた。
どう問いかけるか?
とにかく準備が大事らしい。
対話を行う場づくりはもちろん、どう問いかけるか?が重要。
問いかけ方によって生み出される対話の内容が変わってくる。
そもそも人によって言葉の捉え方が違う。各々が認識しているニュアンスの違いを実感できるように、また、定めたねらいを引き出せるように。寂しさの因数分解を。
「問い」の設定のため、何度もミーティングを重ねた。
ざっとあげても様々な案が出てきた。
最終的に決まったのが
問いは二段構えに。
対話 inビニールハウス〜雨音とともに〜
畑のど真ん中でやる予定が、あいにくの雨。
育苗ハウスにお邪魔して開催することに。
計9名の参加者。中にはこのイベントのために静岡から来てくれた方も。2つのグループに分かれて約 1時間対話をした。
ちなみに、対話のグランドルールはこんな感じ。
どんな話が展開されたのかは
ここでは書かないでおくことにします。
あの場があったからこその言葉たちだと思うので。
同じ方向のエネルギーを持った人たちの中で話す安心感を
強く感じたことを覚えています。
問いから自己表現
第1回のイベントを終えて。
話を聞く中で
何で自分は/相手はそう思うんだろう、、、。
あの人の言っていることは共感できないな、、、なぜなんだろうか。
と考えさせられる場面がいくつかあった。普段考えないような問いが投げられた。その場で答えは出なかったが、持ち帰って今でも考えている。少し言葉にできた時、開放感のようなスッキリした気分になる。
その言葉も全部自分の内に秘めている、だけど姿形がはっきりしないもの。それに気がつき、表現できた開放感なのだろうか
(表に現れると別のものに変わってしまう気もするが、、、。)
どんな問いに出会うかで、人生の豊かさも変わるような気がした。
最初の話に戻るが、
「延命治療は望みますか?」
のようなクローズドクエスチョン
答えとしてはyes/noの二択かもしれないが、その選択に至るまでのストーリーは人それぞれなはず。
且つ、
日々揺れ動くもの。
そんな答えのない問いに向き合う姿勢が大切なのではないか。
その 1つ 1つが「生きる」「生きている」の積み重ねであり
「生」の延長線としての「死」があるに過ぎない
と最近思っている。
結局「寂しさ」を言語化できたのか?というと「はい」とは答えられない。正直ずっともやもやしている。けれど、対話の前後で表現の仕方は変化したと思う。
「今は(対話の最中)寂しいと感じないね。」
参加者の 1人がこう言った。
とても共感できた。
おもしろさに共感してくれる仲間が増えるといいな、と思った。
相手へ投げる問い
与えられた問い
問いを大切に生きていきたい。
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