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100ある種は100蒔いたらいいけど。

尾石晴さんのinstagramでシェアされていた書籍『Microsoft Wordを開発した伝説のプログラマーが発見した「やりたいことの見つけ方」がすごい!』という本を読み進めている。

そこで、無意識の中に潜伏していて自己の人生を豊かで有意義だと感じることを”阻んでいるもの”を見つけたので、その一つをシェアしてみたいと思う。


100あるものを100賭けるのか


「100ある種は100蒔きなさい」
と中学校だったか、高校だったかで、権威ある方から教わる機会があった。

私の記憶が間違ってる可能性もあるのだが、
その「100全てを賭けなさい」というのは種だけでなく、”利益についても同じだ” と教わったのだった。20年前の記憶だ。
その方が(私と私たちの為に詳細は伏せる)クラスの全員に問いを出す。
「100ある財産を100かけて物を成そうとするのと、100あるうち50をかけるのと、100あるうち何もかけず家にしまっておくのと。どれが正しいのか?」

クラスメイトは、100の財産全て蓄えるんだ、と答える子もいれば、50を投資するんだ、という子もいた。
100あるうち100投資するという考えの子は、当てられた4-5人のうちだれも居なかったように思う。

先生は少し強めの口調で「100利益があれば100また投資するのが正しい」と説いた。


何をどこに投資するのか



主語が変われば見え方は全く違うものになる。
仮に、それが「植物の種」ならば、100あるうち100蒔いてしまうのが絶対的に正しいだろう。植物の種は、年数が経つほどに発芽率が下がってしまうからだ。50を大事に保管していても5年後、その50の種が発芽する確率はかなり低くなる。

ただ、「100の利益」ならば、経営的にかなり攻めの姿勢に見えるし、
「100の体力」ならば、体力全てを仕事に使ってしまったら、育児や家事をする余力なんて絞り出せなくなる。文字通り命を削る行為、これは正しいとは言えない。

最近認知が広まったように思う「人生の選択肢の種まき」もやれる範囲で積極的にしたほうが良いものになるだろう。

逆に、100ある貯金を、勝率の低い賭博にかけてしまったら、それは阿呆だと言われるだろう。

100あるものを100投資する、というのは、「何をどこに」という視点が欠かせない。(ここでいう投資とは金融の投資だけでなく、広義での投資、つまり、健康のためにサプリを飲むとか、本を読むことといった事柄も含む)

中高時代の私に衝撃的に刺さった「100を100賭けるのか!」という衝撃は、ちょっと教えを説いた方が伝えたかったメッセージとは違う形で受け取ってしまったかもしれない。
当時の私には植物の種も財産もない、持っている体力と時間を、100%何かに賭ける事。それが正しいんだと、無意識下で信じ続けていた。


何をどこにどれくらい?

主語を”体力”とした時、100ある体力全てを賭けてするべき事は、その人がそうしたい!と思える事である方がいいに決まっているし、通常、夜ご飯食べた後に歯磨きしたりお風呂に入ってベットへ行く体力もないくらい使い切ってしまう事は避けるべきだと思う(産前の私はそういう働き方だった)

100あるうち50投資、というのを記憶違いでなければ私の尊敬する先輩も仰っていた。私自身も、中高生のときは「100あるうち50投資」が安定的な正攻法なんじゃないか、と思った人間だ。
それがいつの間にか100あるものを100かけつづけて、産後の人生を迷子することになってしまっている。(子育てしながらこれまで通り働けない葛藤)子育てに50とられて、仕事に100なんてかけられなくなった。


無意識下で自分の首を絞めているものに気づく

何が正しく何が良いことなのか、常識、なんてものは、科学的に証明できるもの以外は、普遍の真理ではない。

私の中で決めた事
手の中にある種は、100撒きましょう。
有限資本である体力と時間は、あそびを持たせましょう。(上限70-80%)
資金は、抱え込まず、安定的な投資へ回しましょう。(上限30%かな、車と家電の買い替えで100の天井が大きく変わるから)

私のように祖母も母もひとり親だと、産後も正職員で居ないと不安だという気持ちはなかなか取っ払うことは難しい。

ただ思考の中に無意識に紛れ込んでいて、自分を生きづらくしているものに気づけたら、少しずつ変わっていける。
いつか、伝統的な枠組みの正社員じゃなくても大丈夫だと思える状態になれたらいいなと思う。

あなたは、100あるものを100賭ける人ですか?50賭ける人ですか?
書籍から学生時代を思い出し閃いた事をそのままフレッシュにお届けしてみました。青くって、すみません。(笑)

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