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『アリスのための即興曲』Vol.39 Mの正体

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストを書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


初めての方は、こちらからどうぞ。


Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーは、こちら。

Vol. 38 M との対峙

本編  Vol.39  Mの正体



 Mへの質問を開始するにあたり、念のためこちらは二人であることを伝えておいた。もしMがメールの送信者は僕ひとりだと考えているなら、中山伊織は第三者だということにされてしまう。けれど彼女は僕の仲間であり、介入する権利があることをMにわからせる必要があった。それについて、MはただひとことD’accord.わかったと答えただけだった。

 僕が質問し、相手が答える。はじめは遠い星のように散らばっていた疑問点が、目に見えない糸によって繋ぎ合わされていく。それはアリスとの初めてのフランス語レッスンを思い出させた。暴行犯かもしれない人物とメールのやりとりをしながらそんなことを思い出すのは妙だけれど。

 中山伊織はむっつりした顔で、僕の隣でホットココアを飲んでいた。目はしっかりと画面に向いているので参加する意志はあるらしい。女の子の気持ちはよくわからない。とりあえず彼女のことは放っておこう。僕はまず、最も重要だと思われる質問をした。 


― アリスは無事ですか?
― はい。

― アリスはまだ日本にいますか?
― はい。

― 彼女は誘拐や虐待などの被害を受けていますか?
― いいえ。

 僕の質問に対して一秒の間も開けずMからの返事が返ってきた。ひとまずアリスの無事が確認できたところで僕はほっとした。そして彼女が日本にいることもわかったのだ。これは大収穫のように思われた。「彼女はどこにいるのですか」と質問したかったが、僕はぐっとこらえた。これではルール違反になってしまう。そこで僕は質問を変えて次のように尋ねた。


― あなたとアリスは知り合いですか?
― はい。

 Mの回答は想定範囲内だった。顔見知りの犯行かもしれないという僕の予想は正しいことになる。気を良くした僕はもっと踏み込んだ質問をすることにした。

― 僕にUSBメモリを送ったのはあなたですか?
― はい。

「なぜそんなことをしたのですか」と書こうとして、胸の内がひやりとした。あぶない、あぶない。実際に質問していたらペナルティー1だぞと、僕は心の中で言った。

― あなたが僕にあれを送ったのは、僕を憎んでいるからですか?
― いいえ。

― それでは、いたずら目的ですか?
― いいえ。

どういうことだろう。USBメモリを送った人物は、僕を貶めて精神的苦痛を与えたいのだろうとずっと思っていた。けれどMによるとそうではないらしい。わけがわからなくなってきた。僕は深呼吸をし、胸の中であいうえおを唱えた。そして少し切り口を変えて質問することにした。

― あなたは証言ビデオの内容が変更されたことを知っていましたか。
― はい。

― ビデオを撮り直したのはアリス本人ですか。
― はい。

Mの回答は僕の胸に鋭く突き刺さった。初めてあのビデオを観たときの衝撃が鮮やかに蘇った。ダイヤモンドの結晶でも飲み込んだみたいに、心臓がひどく痛んだ。目の端に涙がにじむのがわかった。けれど感傷的になっている場合ではない。僕は首をぐるりと回して息を吐き、次の質問を打ち込んだ。

― アリスは何らかの理由で僕を憎んでいて、復讐のためにビデオを撮り直しましたか。
― いいえ。

― 誰かをかばう目的でしたか。
― いいえ。

僕は少しほっとすると同時に、胸の中に黒い影が生まれるのを感じた。「アリスは森田をかばうために僕に罪を着せた」という仮説は僕をひどく苦しめたが、一応の筋は通っていた。けれどその可能性がなくなった以上、彼女がビデオを撮り直した目的がわからなくなってしまった。けれど「なぜですか」と問うことはできない。まずは事実関係の整理をした方がよさそうだ。


― 僕は12月9日の明け方5時半ごろ、アリスからの電話を受けました。
       アリスに何かが起こったのは、その前夜の12月8日と考えて間違いない
       でしょうか。
― はい。

― 彼女の腹部には痣があり、「気が付いたら裸のまま気絶していた」と
       アリスは語りました。アリスを暴行したのは夫の森田嵩幸ですか。
― わからない。

 たっぷり二分ほどの間を開けてからMが答えた。おや、と僕は思った。これまで僕の質問に対してMがこんなに時間をかけたことはなかった。画面の向こうに現れた文字は、青白く震えているように見えた。

 僕たちのメールのやりとりを見ていた中山伊織がすかさず言った。
「ねえ、やっぱりこのMって森田さんのことなんじゃない?だってさっきまでMの答えはきっぱりしていたのに、坂本くんが森田さんの名前を出したとたん、Mの反応は歯切れが悪くなってきた。まるで痛い所を突かれたみたいに」
「そうだね。僕もちょっと妙だと思った。でももしMが森田だとして、自分の罪を隠したいなら、『いいえ』と答えることも出来たんじゃない?Mが嘘をついているかどうか僕らには確認できないんだし」
「それもそうね」
「ここは文字通りに受け取るべきじゃないかな。Mは本当に森田と事件の関わりについて知らないんだよ」
「その前に、確かめたいことがあるの。念のため質問させてもらってもいいかな」
僕が頷くと、彼女は隣に来てキーボードをかたかたと打った。

― あなたは森田嵩幸ですか?
― いいえ。

「ほらね」と僕は言った。
中山伊織は少しがっかりしたようだった。彼女は空になったココアの紙コップを手の中で丸め、部屋の隅のごみ箱に捨てた。僕はその紙コップと一緒に森田に付随する暗い影が拭い去られたような気がして、思わずほっとした。森田は完全に潔白ではないのかもしれないが、少なくともMではない。僕にとって、その事実は十分すぎるほどの安心材料だった。




    最後に森田に会ったときのシルエットがふと蘇った。キャメル色のあたたかそうなコートを身に着け、街灯に静かに照らされていた彼の姿を。僕はふと、森田の言った言葉を思い出した。僕がアリスのビデオを見せたとき、彼は言ったのだ。「かわいそうなアリス。俺があいつを呼ばなければ、こんなことにはならなかったのに」と。その直後に病院から電話があり、祖母の入院手続きのことでてんやわんやだったので僕は彼の言ったことをすっかり忘れていた。けれどそれは何かとても大切なことのような気がした。森田の言う「あいつ」がM だとすれば、ふたりの間には何らかの繋がりがあるに違いない。その考えは暗い海の底にもぐりこむ魚のように、僕の目の前にちらりとひらめいてまた消えゆこうとしていた。逃がしてはいけない。僕は再びキーボードに向かい、質問を打ち込んだ。

― あなたは森田嵩幸を知っていますか。
― はい。

― あなたが書面に《M》という名を残したのは、森田嵩幸のことを僕に連想させるためでしたか?
― いいえ。

― もっと有り体に言えば、森田嵩幸に罪を着せるためでしたか?
― いいえ。

 少し焦りすぎたのかもしれない。せっかく捕まえかけた魚がまた僕の手から逃れてゆくような気がした。ここは回りくどい質問を避け、核心に迫るべきではないだろうか。僕は隣にいる中山伊織を見た。彼女は冬眠準備をしているりすのような目で僕を見つめ返した。僕はこぶしを握り、質問を打ち込んだ。

― アリスを暴行したのはあなたですか?

あまりにもストレートな質問だ。先ほどの電気ショートの件を考えると、Mは実力行使を厭わない人物のように見えた。下手に刺激することは避けたかったが、真実を知るにはリスクを侵すしかない。僕は震える指で送信ボタンを押した。けれどMの反応は予想外のものだった。

― いいえ。

僕は愕然とした。Mが犯人ではない。一体どういうことだろう。もちろんMが嘘をついている可能性も考えられたが、このゲームを続ける以上はMの言うことを額面通りに受け止めるしかない。




 その時、中山伊織がおもむろに口を開いた。彼女は考え深げにこう言った。
「ねえ、坂本くん。私たちは知らない間にMが暴行犯だと思い込んでいたけれど、Mは犯人じゃなくて目撃者なのかもしれない。だからM自身詳しいことを知らないのよ、きっと。そしてアリスさんを助けようとして坂本くんに接触を図った。そういう風には考えられないかな」
僕は彼女の言ったことについてしばらく考えてみた。
「確かに可能性としてありえない話じゃないと思う。けれどもしそうだとしたらずいぶんまどろっこしいやり方だね。もっと堂々と連絡すればいいのに」
「身元がばれたら困る事情があるとか?」
「Mは覆面ヒーローだとでもいうの?」
中山伊織は笑い出した。僕としては皮肉のつもりだったのだが。
「それとも、Mには共犯者がいるとか。こっちだって二人組なんだから、あっちだって誰かと協力しているのかもしれない」
彼女は考え深げに言った。なかなか鋭いところを突く。もし僕と中山伊織が探偵事務所を開いたら、彼女は有能な助手になってくれそうだった。



 彼女は飲み物を取ってくると言い、席を離れた。その間に僕はこれまでのMとの会話を書き出してみることにした。Mとのやりとりで得られた情報をまとめると、以下のようになった。

1 アリスは無事で、日本にいる。なお、誘拐や虐待などの被害は受けていない。
2 Mとアリスは知り合いである。
3 僕に新しいビデオを送ったのはMであり、ビデオが編集されたものであることを知っていた。
4 ビデオを撮り直したのはアリス自身である。その目的は僕への復讐ではなく、誰かをかばうためでもない。
5 Mは森田嵩幸ではない。
6 12月8日の夜、アリスに危害を加えたのが森田嵩幸かどうか、はっきりしない。
7 Mは森田を知っているが、署名の《M》は森田に罪を被せるためのものではない。
8 Mはアリスに危害を加えていない。

その時中山伊織が部屋に戻ってきた。手にはミルクティーの入った紙コップと薄っぺらい雑誌を持っている。休憩所で借りてきたのだろう。
「どう?何かわかった?」と彼女は言った。
「さっぱりわからない。核心に近づいたと思ったらまた遠ざかる。その繰り返しだ」と僕は言った。
「もしかするとフランス語の宮下先生とか?」
「そんなはずないと思うけど。どうして?」
「だって他に『M』がつくひとなんて思いつかないんだもの」
彼女はあくびをし、部屋の隅で雑誌をぱらぱらとめくりはじめた。まるで友だちの家に遊びに来ているみたいに。のんきなものだ。
「クロスワードパズルだって。懐かしい!ねえ、坂本くん。『G』で始まるケーキの名前ってわかる?」
「ちょっと中山さん。そんなことしてる場合じゃないでしょ」
彼女は僕の言葉が聞こえなかったみたいに、「GはガトーショコラのGかしら」と呟いている。彼女はどこからか取り出した一枚の紙に、せっせと何やら書き込んでいる。彼女の細い指が紙の上を行ったり来たりしているのを見ていると、ある考えがふと浮かんだ。僕はその考えが消えないうちに、急いでキーボードに質問を打ち込んだ。

― もしかすると「M」はイニシャルではなく、何かの記号でしょうか。
        単語の頭文字とか。
― はい。

思った通りだ。僕たちは「M」を誰かの署名だと決めてかかっていた。しかしそうではないのだ。何かもっと別の意味を含んだ言葉が隠されているのかもしれない。

― 「M」には複数の意味が含まれていますか?
― はい。

 僕がキーボード入力する音を聞きつけて、中山伊織がひょっこり隣にやってきた。僕は彼女に言った。
「中山さん、『M』がつくフランス語の単語、思いつかない?何でもいいから書いてみて」
「わかった」
 僕たちは手当たり次第にそれらしい単語を打ち込んでみた。
《mimer(仕草を真似る)》、《majeur (主要な)》、《mystère(神秘)》、《misogyne(女嫌い)》など。結果はことごとく外れだった。ああ、頼む。核心に近づいていることは確かなのに。

 僕はすべての意識を集中し、これまでに習ったことのあるフランス語の単語を思い出そうとした。大学の試験に出てきた単語や、アリスとのレッスンで学んだ言葉を。僕は目を閉じて、初めてのフランス語レッスンのことを考えた。




 あの日は台風が近づいているせいで、部屋の中は翳っていた。シャンデリアのひかりが木漏れ日のようにアリスの白い肌を照らしていた。まるでつくりものみたいに華奢な彼女の指が、さらさらと何かの文字を書く。僕はそこに現れてくる言葉たちを、魔法の呪文のように見つめていた。何かの言葉を彼女が書いて、それが冗談だとわからずに僕はぽかんとしていたっけ。それから彼女がその単語の意味を教えてくれて、僕たちは大笑いした。あの言葉は何だっただろう。記憶の淵にひっかかっている言葉。贈り物のリボンをほどくときのような、甘い響きを含んだあの言葉。

 そして突然、僕はその言葉を思い出した。僕は震える指でMaîtresseメトレスと打ち込んだ。すると画面が青白くひかり、Mからの答えを届けた。その答えはOuiはいだった。僕は思わず微笑んだ。もう疑う余地はなかった。僕は次の質問をした。

― あなたはアリスですか?
― はい。

肩のまわりがふわりと軽くなるのを感じた。まるでそこにアリスがいて、僕を包み込んでくれているように。「よくできました」という彼女の声が耳元で聞こえたような気がした。その声はこう告げていた。
「ねえ、言ったでしょう。maîtresseメトレスには色々な意味があるの。主人、飼い主、先生、愛人。私はそのどれにだってなれるのよ。あなた次第でね」
僕はしばらく青白い画面を見つめていた。この向こうにアリスがいる。先ほどまで無機質で散文的な物質に過ぎなかったそれが、アリスの生命を閉じ込めているみたいに急に輝いて見えはじめた。



 そのとき、僕たちのやりとりを見ていた中山伊織が口をはさんだ。
「ちょっと待って。Mはアリスさんなの?どういうこと?」
「僕だってよくわからないよ」
「でももしMがアリスさんだとしたら、このメールのやりとりの目的は何だと思う?どうしてこんなに回りくどい方法を取る必要があったのかしら」
「それもそうだね。僕の携帯電話の番号なら知っているはずなのに」
「坂本くんに直接連絡できない事情があるのかもしれない。 誰かから監視されているとか」
「そんなはずないよ。だって彼女は初めに『虐待や誘拐の被害を受けていない』と答えたんだぜ」
そう言いながらも、僕は鳩尾のあたりが急に締め付けられるのを感じた。森の中で騒ぐ烏たちみたいに、躰中の血が激しくざわめいた。口の中に苦い味がする。何かきっと僕の知らないことがまだある。僕の直感はそう告げていた。僕は思いつくままに質問を打ち込んだ。

― あなたは先ほどMには複数の意味があると言いましたね。《maîtresse》
        の他にも、まだありますか?
― はい。

僕は唾を飲み込んだ。耳の奥で心臓の鼓動が速くなる音がする。僕は自分の考えが間違っていることを願いながら、こう尋ねた。

― Mとは、フランス語で「死」を意味する《mort》のことですか。
― はい。

そこで突然コンピューターの電源が落ちた。画面が真っ暗になり、ぷすんという頼りない音がした。あちこちをいじってみたが、パソコンはうんともすんとも言わなくなってしまった。まるでパソコンそのものが死んでしまったみたいに。心臓の鼓動は狂ったように速くなってゆく。軌道を外れたジェットコースターみたいに、それは僕をまちがった方向に導いてゆくような気がした。なんだか悪い予感がした。
「中山さん、今すぐここを出よう。アリスの元に行かなくちゃ」
「ええ?でも、どうやって?私たち、彼女の居場所を知らないのよ」
「それはそうだけど、とにかく何とかしなくちゃ。彼女の命が危ないんだ」
中山伊織はきゅっと唇を結んで頷いた。僕たちはその小さな暗い部屋を出ると急いで会計を済ませ、あてもなく街に飛び出した。

 外は真っ暗で、冷たい風が吹いていた。骨に染み入るような風だ。墨で塗りつぶしたような夜空に、一番星がぽつりと瞬いていた。


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