ワンネス体験記✨そのうち消します✨断食にトチ狂った不器用な皿回しの話✨スピリチュアル
物理的にヒトと一緒にいると「分離」「孤独」を感じ落胆しますが、物理的にヒトと離れていると「わたしはみんな、みんなはわたし」であることに心から安堵し生きる喜びを感じます。どっちでもいいです。
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🐱他人を遠ざけるのは、自分を遠ざけるのと全く同じであることに、生まれて初めて気づきました
他人を遠ざけるのは、自分を遠ざけるのと全く同じであることに、生まれて初めて気づきました。
「人間関係は鏡のようなもの」
「人の悪口を言うと、必ず自分に返ってくる」
今の今まで、わたしは、それらのような言葉を、分かってて生きてるつもりでしたが、違いました。それらの言葉の本質を全く理解してなかったし、自分は理解していると思ってたから、そもそも理解しようと努力したことがただの一度もありませんでした。ヒモ男にズタボロにされたあとですら、そうでした。家庭に不和をもたらしてしまったあとですら、そうでした。
人生に絶望のあまり
「あの大事故のとき、わたしなんて〇〇でしまえばよかったのに、そしたらこんなに苦しむことなど、なかったのに、なんで助かっちゃったんだよ、ありがた迷惑だ!」
とまで思ってしまいました。
結婚後も同居のストレスに苦しみ
「借金まみれでひとりズタボロだったときにやってた〇〇〇のあとがたくさん残ってるけど、またやってやろう、そして人生を手放そう、そして生まれ変わったら、誰とも接触せず孤高の人生を歩むのだ」
わたしにとって一番の味方はわたしでなければいけないはずなのに、このままでは、わたしはわたし自身を保つということすら出来なくなってしまう!そう意を決して環境を変えたものの、職場でのパワハラにより、あんなにキラキラ毎日働けていたというのに辞めざるを得なくなり、新しいことを始めてみるも
「あのとき感じた、YouTubeを始めたときの、わたしでも幸せになれる!なんていうキラキラなんて、ウソだった。かんちがいだった。バカみたい、こんな、いかにも、ええワタシ悟ってますけど?みたいなアイコン掲げちゃって」
完全なる負のループへと落ちました。
「他人を憎みながら生きるのにほとほと疲れたから、こうしてここにいるというのに、わたしはいまだにあの人たちのことを憎み続けてる、抜け出せるどころか悪循環もいいところ。どっちに転んでも、どっちも苦しい。だからわたしはわたしをあきらめて手放したいから、お願いだから、どうかわたしをラクに〇〇せてくれ、後生だから」
「やっぱり世の中こんなもん、不幸な家庭に生まれたわたしだから、不幸をたどって、ほらみてごらん、こんなにも不幸じゃないか!」
「生きるためには働かないといけない、それは分かるが、てことは、働くために生きているってことだよね、そんな人生にいったいなんの意味があるっていうんだい?なんでみんなそれができてるのに、わたしはできていないんだい?」
「あーやっぱりムリムリ、わたしには。引き寄せだとか感謝だとか。感謝なんてそんなのいいから、とにかく鬱を治す薬をくれよ!いや、それよりやはり、いますぐ人生終わりにしてくれ!わたしはわたしがキライなんだ!」
「そうだあいつの郵便ポストに腐った〇〇〇の〇〇を入れてやろう、そうでもしないと、わたしの魂は救われない!わたしのことを見下してきた人たち全員が憎くて憎くて仕方がない!わたしは、わたしが憎くて憎くて、仕方がない!!!」
そんなことばかりぐるぐる考え、毎日毎日寝逃げしてました。にっちもさっちもいかなくて、どこを向いても苦しくて、逃げ場がなくて、すべてはあんな環境のもとに生まれてきたせいなのだと、心の底から憎みました。
たんなる良いヒトを演じているだけでした。
「日本には言霊という考えがあるから、言ってることは本当になる」
口当たりの良い、そう信じてれば「ワカッテル」風の自分をアピールできる、ただの小道具としか思ってない、自分に都合の良いときにだけ、それらの言葉を振りかざしているにすぎませんでした。
そんな自分に気づけないまま、こんなに年を取ってしまいました。
わたしって偽善者ぶってるよなぁ、そんなこと自分でわかってるよ。
そう思いながらも、わたしはわたしのことを「性格いい」と思って生きてきました。とんでもなく「性格わるい」くせに。
そうやって、わたし自身がわたしを「演じて」いたから、「わたしにとって良いヒトを演じている」上っ面だけのヒトにつかまってしまい、どん底に落ちてしまいました。しかも、二回も!
そんなわたしを、優しくすくい上げてくれて、許してくれて、いや、許すもなにも、ほんとに初めの初めから、ありったけの愛でもって、もう一度、わたしをあきらめることなく、わたしにアプローチをしてきてくれたのが、わたしのかけがえのない大切な妹でした。わたしのかけがえのないツインレイでした。上っ面だけのヒトにつかまってどん底に落とされてしまったおかげで、ツインレイに巡り合うことができました。
🐰子供時代は、本当に苦労をしました
子供時代は、本当に苦労をしました。
(大人になってからもだけど!苦労の倍返しをくらったけど!そして、それが今になって、苦労の倍返しのさらに倍返しで、幸せの万倍返しをありがたくも、いただいた!)
たしかに、お金のある家庭がうらやましかったけど、びっくりするくらい機能不全な家族だったけど、わたしには妹がいたので、毎日一緒に楽しく遊んでました。
どのような家庭だったかというと……幼きわたしたち姉妹をファストフード店内に置き去りにしパチンコ行ったきり戻って来ない親、とか。
ある晩ふと目が覚めたら、ほの暗い二燭光(にしょっこう)のもと、ゆらりと直立している母親、その手元には包丁が握りしめられ、刃先は父親へ。母親の放つ不気味な一言「コレでワタシを〇して…」とか。
「性欲処理に困ったときは私が手伝ってあげてもいい」などと抜かす下劣な叔父とか。(想像してみてくれ……これをな……真顔でな……シラフでな……言うんだぜ……性欲というものが何なのかすら解せぬ年頃の姪に……山奥に連れてって……車内にふたりきり……すごいだろ……? しかもな……「うちの妻には今の話は言うな」とか口留めしてくるんだぜ……? なら言うなや最初から)※幸いにも何もされなかった良かった……ほんと
妹は覚えているのに、姉のわたしはスッポリと記憶が抜けている期間があるのを知ったのは、大人になってからです。妹から聞いて驚きました。どうしてわたしはまったく覚えていないんだろうと、不思議でしかたがありません。妹いわく、あまりにもショックだったので、自分で記憶を封じ込めてしまったのではないか、とのこと。その期間の妹は小学校六年生だったそうです。てことは、わたしは中学校三年生ということになります。
わたしが覚えているのは、ひとつのことだけ。ある晩ベッドで寝てると、いきなり腕をつかまれ、引き上げられました。びっくりして「ぎゃっ!」と叫ぶと暗闇から「ごめんごめん、まちがえた」と、男の大人の人の声がしました。その場面しか記憶にありません。その男の人が、誰なのかも分かりません。
とにかく、引っ越して引っ越して引っ越してまた引っ越して、転校して転校してまた転校して、またまた転校して、だったこととか、そのせいで常にお金に困っていた家庭だったこととか、そのせいでしょっちゅう親が大ゲンカしてばかりいたとか、そんな調子でした。
引っ越し続きだったせいか「親友」と呼べる人がこれまでの人生でただの一度もいませんでしたが、そのほうがわたしには快適でした。
しかしそれなりに仲の良い友達は数人いたので、楽しい思い出はたくさんあるにはありました。しかし、どの時期においても、その場限りの友達でした。職場が変わったり、卒業したりすると、ぱったりと関係は途切れました。わたしにとって、それはとても良い方法でした。一緒になにかを食べたり飲んだりするのはとても難しく、一緒にいることのほうにばかり気をとられるため、あまり楽しめませんでした。
今現在のわたしのスマホの電話帳の登録件数は6人です。全員、家族です。LINEはやりません。スマホを使うたび、パソコンを使うたび無意識に「なにか消せるアプリはないだろうか」と目が画面をさまよいます。いらないファイルはまたたくまにゴミ箱にポイし、即座にゴミ箱の中身をカラにしないと気が済みません。スマホもパソコンもクラウドも。
ある日お弁当をぱかっと開けたら、中身いちめん白ごはんだけ、なんて日もあったこと、そのお弁当を見たクラスメイトが「あなたの弁当って、ヘンだね」てボソッとつぶやいたこと、いまでもすごく覚えてます。
家にお金が無いのは分かってたので中学校の「卒業アルバム」を買わずにいたら、担任の先生から「本当に買わなくていいのか?」と聞かれました。その問いに「はい」と即答するなり、複雑な表情をされたこと。そのときのわたしは内心こう思っていました。
「卒業アルバムとか、そんな、なんにも役に立たないムダなもの、仮にお金があったとしてもわたしは欲しくないから、別にほんとは欲しいけどガマンしてるとか、そんなんじゃ全然ないから、そんなに心配しなくてもいいのになぁ」
高校の卒業旅行は行きませんでした。お金がムダだと思っていたし、そもそも払えるわけがないことを理解してたし、だいたい旅行に興味が無かったので、ものすごく平気でした。みんなが旅行してるあいだに学校の図書室で受験勉強をしてるフリして四コマ漫画を読んで笑ってました。学生時代のわたしを支えていたのは漫画やアニメでした。完全なるオタクでした。
その時期には妹とどのように過ごしていたのかをいっさい思い出すことができません。たぶん、わたしは漫画やアニメやイラスト描きに、妹は妹なりの趣味に、それぞれ分かれていたのだろうとは思うのですが、さだかではありません。不仲になった記憶もまったく無いし、家でお菓子を一緒に作ったり、ラジオの音楽番組を聞いたりしていた思い出も残っているので、姉妹の仲は良好だったに違いありません。
妹とのきずなが一度も途切れなかったことは、しばらく音信不通となってしまったことは悔やんだものの、わたしにとって一生の宝物と信じてやみません。
親の引っ越し癖とかギャンブル癖とか不仲とか不倫だとか私たち姉妹を見捨てて家を出て男のとこに行っちゃった母親とか、その男をあろうことか思春期の娘たちと自分の旦那が住んでる家に住まわせてしまっただとか、なんかもうほんとひっちゃかめっちゃかすぎて、わたしは性に関すること、男女を匂わすもの、酒、タバコ、ギャンブル、その他もろもろの不健康で堕落した生活を連想させるようなものを、ひどく嫌う性格になりました。
そして、いまだに忘れられない瞬間というのが、高校生のときの断捨離デビュー。いつまでたっても忘れることができないほどの衝撃でした。「動物のお医者さん」という少女マンガに出てくる片付け魔の小夜ちゃんを一目みた瞬間、まるで雷に打たれたようなひらめきが降りてきました。
「これだ!わたしが求めていた理想像はっ!よし、わたしは今日から小夜ちゃんだ!」
わたしにとっての人生のロールモデルだと思いました。その日以降、学校で授業を受けている間も「こうやっている今も、わたしの部屋の勉強机の上にどんどんとホコリがたまっているのか…なんてことだ」とそわそわするようになりました。
いまでも断捨離が得意です。テーブルの上のリモコンなどが平行に置かれてないのが目に入ると、位置を直さないと気が済みません。わたしの両目は、なにか捨てるものがないか、なにかムダなものはないか、と無意識に部屋中を探索してまわります。
頭の回転は鈍く知能指数も低い反面、非常に整理整頓にたけていたため、暗記科目が大得意でした。高校三年間はずっと首位でしたが、大学に合格したとたん勉強の意味を失い、まったく勉強しなくなりました。成績は一気に落ちて、案の定、先生から説得されました。
「卒業した後も成績の記録はずっと残るから、もう少し努力しなさい」
「卒業したらわたしはもうここにはいないのに、なぜそんな記録などとわけのわからんもののために勉強せねばならぬのだ、わたしはさんざん今までがんばったのだから、わたしではなく他の生徒をたしなめよ」
と思いました。もちろん同窓会は一度も行ったことがありません。
とにかく断捨離、整理整頓が大好きでした。今でも大好きです。きちんと片付けられていないと、とても不快に感じます。最小限の物に囲まれていると、心の底からほっとします。
物質世界から解放されたい、物を増やしたくない、物を減らしたい、と、高校生の頃からずっと思っていました。人生の荷物をできるかぎり少なくして、常に身軽でいたいです。目に見える物は、わたしをひどく苦しめます。
わたしにとってのストレス解消法は、ひたすらとことん寝ることです。目をつむってしまえば、なにも見えなくなるから安心します。
しかし、そうしてしまうと、今度は心のなかに大切にしまっておいた「あの人にあのときこういうふうに言われた」という、いつまでたっても忘れられない思い出の数々が、いきいきと鮮明によみがえってきてしまいます。自分で自分を評価し罰するという作業に、それはもう熱心に布団のなかで没頭し続けます。
もはや、それは「趣味」ともいうべき領域です。人生の生甲斐と心から思えるような、心の友とも呼ぶべき
(今のわたしにとって、それは外国語ですが)
夢中になれるものにとことん打ち込めているあいだは、「自分と他人の比較対象研究」作業が完全にストップします。
やるかやらないか、のどっちか一つしか取れないような生き方しかできません。一枚の皿しか回せません。よくあんなに一度に何枚もの皿を回しながら軽やかに動けるなぁ、と、他の人達をながめながら感心して生きてきました。
一枚の皿しか回せず、その皿すらも、しょっちゅう落としてしまう自分に対して
「もっと他の人達のように上手にならなきゃ!ならなきゃ!最低でも三枚くらいは回せるようにならなきゃ!それでこそ一人前の皿回し!早く一人前になって、じーちゃんやおじさんや主人や子供たちやお姑さんに恩返しをしなければっ!特に私の命を救ってくれた主人に、一刻もはやく恩返しをするためにも、ぴかぴかのおおきな美しい皿を素早く華麗に回さなきゃ!!!」
などと思いながらやってきました。最初から才能なんて無いのはわかっていましたが、必死で他の人達の皿の回し方テクニックを盗み見ながら、続けました。
軽くて小さな、たった一枚の皿をラクラクと目をつむったまま回して鼻歌などふんふん歌いながらスキップしているひとを見かけるやいなや、それはもう嫉妬に燃えに燃えまくりました。足元にバナナの皮をこっそりすべらせておきたくなるような衝動にかられたことも、何度もありました。
🐶確実になにかが、ゆがみはじめました
子供時代のイヤな思い出をすべてずるずると引きずったまま学生時代を過ごし、またそこでネガティブなことを解決できないまま仕事を続けて周囲に合わせてニセの自分を演じ続けて見よう見まねで善良なる社会人のフリをし、つもりにつもったすべてのことに気づけないまま結婚し、同居し出産しました。それにより、いわゆる「ママ友」を作らざるを得ない時期を迎えました。
そこから、確実になにかが、ゆがみはじめました。他のヒトと同じ空間を過ごす、ということは、わたしにとって、ものすごくたいへんな作業なのですが、ものすごくたいへんだと感じてる自分に気づかないふりをしたまま、五年間が過ぎました。家でもそうしました。
家のことやら子育てやらと自分なりにがんばったあげく、幼稚園のPTA役員の仕事とパートを一年間続けたことが引き金となり、鬱病になりました。
鬱病になりました、と言っても、病院の診察でそういうふうに診断されただけで、わたし自身は、わたしのことをまったく鬱病だなんて思えませんでした。わたしは、わたし自身のことをこう診断しました。
「ただの怠け病」
ありったけのタオルやブランケットを、寝室の窓とカーテンの隙間に敷き詰め、お日さまの光が一筋も部屋のなかに入ってこないようにしました。寝室専用の小さい冷蔵庫や電気ポットを買ってきて、なるたけ部屋の外に出なくても済むように工夫しました。それ以外は、どういうふうに日常を送っていたのか、まったく記憶が残っていません。
主人が連れて行ってくれた神経科病院の玄関でのことはぼんやりと覚えています。
病院のなかに入ろうとしてスリッパを履いてはみたけど、スリッパの底じき(?)の表面が平らじゃなくてゴワゴワと波立っていて、それが履き心地が悪くて、気になって気になって仕方がなく、他のスリッパを履こうとしたら、そのスリッパもゴワゴワしてて、取り替えたら、やっぱりそれもゴワゴワしてました。主人いわく、下駄箱の前でひとりで一生懸命、スリッパをたくさんズラズラ並べてたそうです。
待合室でぎゃーぎゃー暴れ、職員さんに取り押さえられたのは覚えています。診察室に連れていかれて、お医者さんに「わたしのことなんてメンドくさいやつがきた、としか思ってないでしょう」と言ったような気がします。あのときは本当に申し訳なかったです。
主人は優しい人なのですが、同居中よく言われてました。
「お前は、ダメ!ほんっとーに、ダメ!なにをやらせても、ぜんぜんダメッ!!!」
こんなだったらいっそのこと、家族のひとりひとりの性格が悪いほうが、よっぽどましだったのに、などと、とんでもない思いを抱いてました。なんで天使のような家族のなかで、わたしだけ悪魔のようなひどい人間なんだろうと、苦しみました。否、わたしは苦しんではいけない立場なのだと言い聞かせていました。わたしが家族を苦しませている側だというのに、与えられた環境に感謝することもできないなんて、なんたる極悪人であることか!
心のなかで、親戚や近所の人たち、世界中の人たちが、わたしのことをこう言いながら後ろ指を指しました。
「そんなになるくらいだったら、最初から結婚なんてしなきゃよかったのに!わかりきってたことでしょうに、そんなこと!自業自得もいいところ!あんなのを嫁にもらっちゃって、かわいそうなのは娘さんやお姑さん、旦那さんのほうなのに!ホラ見てあの被害者づら!」
なんていうか、とにかく、わたしは、友達とランチに行って日頃のグチを聞いてもらってストレスを発散する、ということが、まったくできないタイプなのでした(今も)。そもそも友達というものがひとりもいなくても、まったく平気で、友達が欲しいと思ったことが、ただの一度もありませんでした。
それよりなにより、そもそもわたしは「ストレス」というものがなにかを知らないまま生き続けていました。これは最近になって改めて実感したことです。
子供時代のわたしにとって、それを感じないように、知らないところで一緒に解消してくれていたのが、わたしの妹でした。一緒にお菓子を作ったり、空き缶を拾い集めて空き缶の家を作ったりして遊びました。ありがたくも漫画だけは買ってもらえていたので、「あさりちゃん」という漫画の本を一緒に読みながら、「わたしはママとタタミ」「妹はあさりちゃんとパパ」などと役割を決め、セリフを声に出しながら読み進める、という遊びを夢中でやっていました。
学生時代もその後も、普通に友達はいて、友達がいなかった時期など一度もありませんでした。しかし、休みの日に友達と遊ぶとか、友達と買い物に出かけるとか、友達と長電話する、ということがまったく理解できませんでした。
異性に対する関心というものがゼロだったため、中学時代のクラスメイトから不思議がられていたことをよく覚えています。わたしはわたしで、だれだれがカッコイイとかできゃーきゃー楽しそうにしてる人たちのほうこそ、摩訶不思議に思えてなりませんでした。そんな、しちめんどくさそうなことはさておき、漫画やイラストばかり描いていました。
異性と付き合いはじめたのは、大学に入ってからでした。当時つきあっていた男は、妹いわく、極悪人だったそうです。最近になって妹が教えてくれ、はじめて知りました。いまのいままで、気づきもしませんでした。
二人目の極悪人、あのヒモ男に捨てられたのをきっかけに地元を離れて以来…、いや、それよりももっと前から、大学を卒業して以来、友達は一人も作りませんでした。「職場の同僚」や「ママ友」は友達ではないので、カウントに入りません。友達ゼロ歴は二十五年以上です。ものすごくラクです。わたしは主人と子供と妹と父にしか気を許すことができません。
高級ホテルの豪華なビュッフェなんて、ちっとも望んでません。たまには中華、パスタもいいね、とか、そんなのはわたしの口には合いません。幕の内だとか日替わり弁当なんてものを、手に取りたいとも思いません。
白ごはんに具のない味噌汁、そのふたつさえあれば大満足です。
わたしにとっての友達は、いつでも、そして今現在でも「とことん打ち込める熱中できる趣味」でした。それさえあれば、満足でした。逆に言えば、それがないと、わたしは満足できませんでした。
例えば「畳の目をひたすら数える」という作業がわたしにとってのそれならば、延々とそれをやっていることが、わたしにとっての友達であり、わたしにとっての生甲斐でした。他人から「あんなことのいったいなにが楽しいんだろう」と白い目でみられようが、一向に構いません。「畳の目をひたすら数え」てさえいれば、わたしは心の底からの喜びを感じ「生きている」と感じることができるからです。そしてその作業は必ずひとりで行うべきものでした。わたしにとって、それ自体が「瞑想」なのです。
🐔はて、ストレスとは
ずっとわたしは「ストレス」というものが、どういうものなのかが、まったく分かりませんでした。テレビに出てる人とか周りの人が「ストレスがたまっちゃって…」と言うたび「はて、ストレスとは」といった具合でした。「ストレス」という言葉の意味はもちろん知っている。知っているが、それが「たまる」というのは、いったいどのような状態なのだろう?と首をひねっていました。
「ストレス」というものがどういうものかを、人生で初めて感じたのは、まぎれもなく「ママ友」生活を始めてからでした。こう思ったのを今でも覚えています。なんなら、感動すら覚えました。
「おお、これが、俗にいうストレス、というやつか…」
そして更に感じたのが、同居がスタートしてからというもの、心のどこかで感じていた、どこか居心地の悪いような、あの感覚。それに、ついに名前を付けることができた、ということです。そう感じてしまってはいけないがために、心の奥底に隠してしまっていた本音みたいなものです。
「わたしの家は確かにここで、わたしの家は、まぎれもなく、ここなのである!」
そうハッキリと思っていなければならないはずでしたが、
「わたしの家は確かにここではあるが、わたしは、わたしの家を、ここであるとは、とうてい、思えない」
そのような、なんだかもやもやとしたものに対し、
「そのような恩知らずなことなど、なんたることか!いいか、そのようなこと、みじんたりとも、誰にも感づかれてはならぬ!そんなけしからぬことを少しでも感じるなど、もってのほか!」
と、ムチを与え続けました。その、
「感づかれてはならぬ!」
と自分自身に制していたもの、それこそが
「ストレス」
というシロモノであったということを、わたしはかなり後になって、ママ友づきあいが始まって、しばらくして、やっとこさ気づいた、というわけでした。
「うちは核家族だし、なにをするにも全部が自分時間だから」
そのママ友の言葉に、衝撃を受けました。それまでずっと、不器用ながらも自分なりに「長男の嫁」という役割を演じていて、なんなら誇りにさえ思っていたほどだというのに、それが、いとも簡単に、あっという間に、ふーっと吹かれて消し去られたようでした。役割を「演じて」いたのだということを目の前に突き付けられた思いがし、自分自身が、急に情けなくなりました。
当時のわたしは、自分の家の環境のことを、ものすごく自慢に思っていたものです。なので、ママ友の前で胸を張り、笑顔で「うち、同居なんですよ~✨」と伝えたときの返しの言葉が、ものすごく、わたしのすべてをつらぬきました。一気に、わたしの自信はガラガラと崩れ去りました。
「えぇー、…でもぉ…良いと思いますよぉ?…同居ぉ…」
わたしのことをなぐさめるような、あわれむような表情と言い方でした。そのママ友はとても良い方で、決して他人を見下したりイヤミを言うような方ではありませんでした。にこにこ顔で、新婚旅行は海外のどこだかにオーロラを見に行った、と嬉しそうに教えてくれました。それを聞いてるわたしはというと、新婚旅行も結婚式も挙げていませんでした。
わたしは、この言葉を耳にするまで、自分自身のことをとても誇りに思っていました。同様に、わたしの家庭のことも、世界で一番すてきな家庭なのだと感じていました。生まれ変わっても、この家族として生きていたい、だから、この地に導かれたのである✨とまで思っていたほどでした。
同居が「悪い」だなんて一言も言っていないどころか、思いすらしてない、匂わせもしてないのに、どうして「良い」と「思います」なんだろう?
結婚式とか新婚旅行とか、興味無いし、むしろ、そんなのやろうとか主人側から提案されたとしても、わたしは断固拒否してるであろうほどだというのに。わたしもやりたかったなんてまったく思わないのに、それは、まごうことなき本心なのに、なんで今わたしはこんなに、わたしと目の前のママ友を
「世間的に見て、果たしてどちらが幸せな嫁だと評価されるのか、さあどっち!?」
などと、比較しているんだろう?
この日を境に、わたしは自分のことを他人と比較するようになってしまいました。毎日毎日比較をし、他人が口にした言葉をひとつひとつ、大切に拾い上げては、それはもう慎重にまゆをひそめて虫眼鏡をのぞきこみながら様子をながめ、観察日記を詳細に記録しました。
「この言葉には、このような意味が込められており、それの第一発見者であるわたしに、これこれこのような感情をもたらした。
実にけしからんことではあるが、今後の更なる研究を進めるためにも、厳密に保管しておく必要があると感じたため、ここにこうして手記を残す、〇〇年〇月、夏の夜」
事細かにメモを添えては、この言葉が、わたしに対しどのような評価をなされて発せられたものであるか、という旨のタグを付け、分類しました。復唱したいときには、いつでもぱっと取り出せるよう、心のなかの引き出しに振り分けて保管したものです。
そのような「比較観察」を、わたしは、自分の名前の意味を知るその日まで、熱心に続けていました。一日たりとも欠かしたことはありません。非常に勤勉な比較研究者でしたが、昔はそうではありませんでした。
確かに良くない家庭環境のもと生まれ育ったにせよ、わたしは自分が置かれた状況について、友達と比較して劣等感を抱いたりすることはあまり無かったように記憶しています。わたしには、生まれ育った環境を共有してくれる妹がいてくれたからです。小学生の頃には、たったひとりの読者である妹のために、月刊雑誌などを手作りしていました。
わたしのなかでの妹のイメージは、昔も今も、変わりません。ぴよぴよとかわいらしく鳴きながらわたしのあとをついてきて、かたときも離れない。わたしにとっての天使は妹です。そしてまた、義理の娘も、わたしの二番目の天使となりました。義理の娘がわたしの頭をなでながら「お母さんがいるってこういうことなんだね」と言うのを聞いたときは涙を必死でこらえました。この想いに全身全霊で応えなければならないと誓いました。
同居の初日から最後の日に至るまで、わたしはこんなことを一日も欠かすことなく続けていました。自分たちの部屋から出るときは、ドアの扉を少しだけ開けてのぞき、廊下に誰もいないのを確認したら、部屋の外に出て、なるべく足音を立てないようにさささと廊下を移動する、という、謎の動きです。そのせいで、右足の裏に魚の目ができ、いまだに取れません。
お姑さんは、とても優しいし、義理の娘は天使のようだし、主人はとても頼りがいのある家族思いの人です。なにも問題がありません。
わたしが、欠陥品なのです。
🦆外国語という素晴らしい人生の友
そのあとあーだこーだとうだうだやりつつ、そのうち、外国語という素晴らしい人生の友とも呼べる、生涯をかけて打ち込めるものがついに見つかり、夢中になり、英語と韓国語を話せるようになり、晴れて立ち直ることができました。
趣味に打ち込み家事も仕事も両立できる立派なフルタイム勤務主婦へと変身、やっと過去の失敗を帳消しにできた、やっと理想の自分になれたと喜んだのもつかの間、あっという間に断食狂へと化しました。
連休は、まる三日間なにも食べず水はほんの少しだけ、一日一食(しかもパプリカ半分のみ!)でフル勤務したあと三時間くらい歩き続け、ヨガに自然食にと励みました。その時点ですでに40キロだったというのに39キロ!39キロ!39キロ!と毎日毎日切望し続けました。
その仕事は、まったくわたしには向いてないと、自分で思いながら続けていました。わたしは感覚でしか動けないので、他のヒトのように効率よく作業を進めるということが、なかなかできませんでした。
いまの自分にも、まったくもって意味がわかりませんが
「せめて39キロにならなければ」
と真剣に思い込んでいました。それにより、自分の欠点を帳消しにしようとしていたようです。
完全にトチ狂った自分を「トチ狂ってる」と自覚しながらもトチにトチ狂い続けた挙句、わたしはわたし自身のことをこう思っていました。
「この家を不幸に陥れた鬼嫁」
だって近所のおばさんとか親戚から、こう言われたから。
「あら~、あなた、それはもう、この家に感謝しないといけないねぇ」
「義理の娘さんには優しくしてあげないといけないぞ」
て。だから、わたしは感謝を「しないといけない」立場の人間なんだ。
それらの、周囲の人から言われた言葉を、大切に大切に胸の奥へとしまい込み、時折取り出してはじっくりと思いを巡らせ、また大事にそっとしまい込みました。
毎朝午前三時に起きて洗濯に掃除に夕食の準備にヨガやって朝五時に出勤して、なにも食べずに九時間働いて、仕事が終わったらなにも食べずに三時間を歩きに歩いて、なにも食べずに寝て、また起きて、の繰り返し。
「わたしはいったい、なんのためにお金を稼いでいるんだろう?」
「稼いだお金を好きなことに使おうにも、将来が心配で使いたくても使えない、そもそも、好きなことにお金を使うということでわたしは満足できない。それはわたしのスタイルじゃない。ものをあまり買いたくない。サービスを買うこともしたくない。それらはわたしにとって意味が無い。ものじゃなくて、わたしは心の豊かさが欲しいんだ。よく分からないが、今はとりあえず貯めなきゃ!貯めなきゃ!」
結婚できてやっと一人前の立派なヒトになれたと思ったのに、どうしてだろう?わたしのことを迎え入れてくれた人たちに対して、心から一ミリも感謝ができないなんて、わたしはなんて最低のひどい人間なんだろう。
高校のとき、進学のはからいをしてくれた先生から、めちゃくちゃに叱られたとき、こう怒鳴られたっけ。
「働かざるもの、食うべからず!!!」
あのときも周囲の期待に応えられなかったから、やっぱりこうして大人になった後でも、何倍にもなって仕打ちとなって返ってきてしまった。
国立大学の推薦には落ちたけど、それでも運よく私立に行かせてもらえたというのに、教師になりなさいと言われたのに、教師にならず、恩返しのひとつもできず、卒業はできたものの、なににもなれず、ただただ大金をムダにした、ただそれだけ。
終始がこんなんだったから、こんなことを言われてしまうような人間になってしまったんだ。
「お前は私の顔に泥を塗った」
「お前は親戚中から、笑いものにされている」
でも仕方が無い、言われるようなことばかりしてきた自分がすべて悪いんだ。
「生まれ変わったら絶対に橋の下に捨てられた赤ん坊に生まれ変わって、さびれた教会の修道女として一生を神に捧げて生きるのだ」
などと決意しながら、もがきにもがき続けて、そうして今に至ります。自分の名前が、実は「神の子」であるという意味が込められていたということに、やっと気づくことができた今の自分に。
🐟ある日とつぜん、数霊がわたしのもとを訪ねてくれました
妹と再び昔のように、いや、昔とは比べものにならないくらい、たくさんの情報交換を続けるうちに、ある日とつぜん、数霊がわたしのもとを訪ねてくれました。毎日毎日、何度も何度もメッセージを伝えてきてくれました。
正直、これは現実じゃない、ありえない、奇跡としか言いようがない、どうしたんだろう、わたしはどこに迷い込んじゃったんだろう、不思議にもほどがある、としか思えないようなドでかいことが三回くらい起きました。
それらは例えば、レシートのお釣りがたまたま〇〇円だったから、とか、ふと目にした時計の表示が〇〇:〇〇だったから、同じゾロ目を何度も見たとか、きまって〇時に目を覚ますようになっただとか、夢で見たことが本当に起きたとか、ネコの絵をしょっちゅう目にするとか、感謝してたら宝くじ当たっただとか、そのような単純なことではありません。
もちろん、それらもたしかに起きることは起きたのですが、もし、それらが起こっただけなら、わたしも目覚めることはできていなかったに違いありません。
もう毎晩毎晩ひとりで真夜中どんどこ大騒ぎ、昼にはまるで不思議の国のアリスの世界に入り込んでしまったかのよう、夢のような日々でした。エンジェルナンバーだとか数霊だとか神様の暗示だとか、引き寄せだの、すべては繋がってるだの、波動だの内なる声だの直感だのワンネスだのって、ホントだったんだ!!!すごいすごい!!!
ヒトのカラダとか動物とか草木とか自然のものだけじゃない、パソコンとか時計とか電化製品みたいな人工物だって、わたしたちとまったく同じなんだ!
自然のものも、人工のものも、すべてが美しいんだ!宇宙は外に広がるけど、内にある。内観せよ!
愛とお金、どっちがだいじ?それはもちろん、愛でしょう!お金、て返事するのは、愛がなんたるものかに気づいていない、それだけなのです。
しかしながら、お金が無いと生きていけない、だいじな「もの」なので、お金を欲しいとおもう自分を、まるで汚れた生きものなどと捉えなくてもよいのです。
知識としてたしかにそれらはわかってたけど、なーんだ、わたし、ぜんぜんわかっていなかった!わかってた「つもり」だったんだ!でも本当にありがたいことに、そのことに、今のわたしは、わかることができるようになっている!!!
そりゃもう、目からウロコの日々、ぼろぼろ落ちまくり。
それらを体験するうちに、こういう考えるようになってきました。どうして毎日、数霊が数えれないくらい押し寄せてくるんだろう、なんでだろう、なんでだろう。考えて、考えて、一生懸命考えて、そして今日ついに答えにたどりつきました。
数霊には本当に意味があることも身をもって知りました。別の意味をもって訪れてくれていたことも今日やっと気づくことができました。数字に秘められた意味というのは、ほんとに意味がありました。そしてまた、その数字の持つ意味なんて、ほんとは意味がないことにも気づきました。片方だけに気づいているうちは、見た目にとらわれているうちは、ほんとのことは得られていなかったでしょう。
毎日毎日泣きっぱなしだったので、ものもらいもできて、でも、そのものもらいの意味が分かったとたん、魔法のようにすぐに治ってくれて、このものもらいのために、今まで自分は、あの、子供が小学生だった頃に買った眼帯を「いつか使うかもしれない」と取っておいたんだなぁ、と思いました。
あまりにも感動に感動のあまり泣いてばかりだから、さすがに感情的になりすぎだよねぇ、と妹に言ったら、それも大切なプロセスなのだ、と教えてくれました。さすがエハラー、と改めて尊敬しなおしました。
わたしが読んだスピリチュアルな本を書いた方々は、Kenjiさん、はせくらみゆきさん、ジュリアン・シャムルワさん、ミナミAアシュタールさん、などです。他にもいらっしゃるけど、主にこれらの方々です。いろいろと手出しするのが苦手でフットワークが重い性分なので、あまりたくさん読みません。
妹は立派なエハラーで、感謝のエキスパートです。
びっくりするけど、すべてつながっていて、どのひとも違うことを言ってるように思えるけど、実は同じことを言ってました。まったく違う分野だけど、驚くくらいに同じでした。
つまるところ、ワンネスは誰にでも起こること、ワンネスできたからといって、そのワンネスがどうやって起こるかとかを人に説明しようとしてもひとくちでは語れないこと、ワンネスを体験するまでのプロセスはひとそれぞれだから、他の人が編み出した方法は自分には効果がないこと、マネしようにもできないこと、波長が完全に一致していればマネしてできる場合もあること、ワンネスは誇るようなものではないこと、ワンネスは毎日起こっている、ただそれに気づけてないだけ、ということに気づきました。
ワンネス、と一言で言っても、そんなこと言っても、たとえば
「人類みな兄弟」
「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」
「わたしたちは運命共同体」
といったような、よく言いがちな、見た目の美しい言葉にしかすぎないようなそれらの言葉と同じことを指してるんでしょ、ワンネスっていう言葉だって、どうせ。
だから、誰にでもワンネスは訪れる、とか、いかにも壮大なキラキラと夢を見させるようなことを言ってるんでしょ、としか思えませんでした。
で、結局のところ、そのワンネスとやらの正体が、
「幸せは身近なところに潜んでいた」
だの
「世界には自分よりもっとツラい思いをしているひとたちがたくさんいるということに気づくことができました」
だの
自分を心の底からガッカリさせるような、なんの希望も持たせてなどくれないような、そんな日常を最期まで続けるしかない。自分の人生なーんにも変わってない、気づいたら、元の人生に逆戻りしちゃってる、ていう結末なんでしょ。
ほうらね、奇跡なんてウソじゃん、ワンネスとかウソ、金持ちばかりが得をして貧乏人ばかりが損してばかりの弱肉強食のピラミッド構造社会、立ち回りの上手いヒトばっかり良い目を見て、不器用なヒトばっかりイヤな目にあう。
なーんにも変わっちゃいない、わたしが大嫌いな世界に、あっとゆーまに逆戻り!!!人生なんて〇〇くらえ!
本音を言うと、そんなことを思ってました。
🐤あの日突然エンジェルナンバーを受け取ってから、ガラリと魔法のように変わってしまいました
あの日突然エンジェルナンバーを受け取ってから、ガラリと魔法のように変わってしまいました。それはありがたいことに、あれよあれよという間に、不満だらけだったわたしの日常生活に奇跡を起こし、鳥肌が立つほどの驚きの連続を身をもって体験し、それらを経たことにより、あの日ワンネスが訪れたのです。
宇宙人に会えたひとだけがワンネスを体験できるとか、右脳からの声が聞こえたひとだけがどうだとか、そういうものではまったくないことも、わかりました。
「ワンネスの扉」という本を書いたジュリアンさんというフランス人の方が記していた「膝から崩れ落ちるほどの感動」というのは、本当でした。
そして、それを、こんな日本から一歩も出たことがないような、なんのへんてつもない、ただのフツーの、フツーどころか、フツーのひとがフツーにできていることすら、フツーにできないくらいの、あなたがわたしがしてきたことのすべてを知ってしまったら軽蔑しかねないほどの身勝手なことばかりしてきた中年主婦が、気づいたら、「膝から崩れ落ちるほどの感動」というものを、ほんとうに体験できていました!!!
「道端の石ころとお話とか、メルヘンか!」なーんて、ついこないだまで思ってたわたしが、気づいたら自分の手にすら語りかけている、タオルに話しかけてる、パソコンに話しかけている、自転車のサドルに話しかけている、外から聞こえるキジさんの鳴き声に返事をしている!
あの日、ひーさんに踏んづけられてしまったひよこのピー助の足が、ひーさんが手をかざしたら、不思議と治り、すぐにまたぴよぴよとあとをついてきてくれたことも、不思議でもなんでもない、魔法でもなんでもないことだったんだ!
そのときのひよこのピー助が、昔飼っていたブチネコのゴキが、キジネコのシャトラが、ブルーのベタ(魚)が、数十年後のどん底のわたしのところに来てくれたんです。わたしのことを救うために。なんでわたしにはネコなんだろう、なんでわたしにはクマなんだろう、それらもすべてが腑に落ちました。
ぜんぶ、ぜーんぶ、引き寄せでした!だからわたしはアイヌ語をひとりで学び始めたんだ!
すべてが偶然ではなく必然であり、また、偶然というのも必要なことでした。いらないものなどなにもなく、すべてが必要なものであり、不思議なことに、それらのすべてがまた、不必要なものでもありました。なんで矛盾しているのかも、わかりました。
「よかった、間に合って、本当によかった」という心からの安堵を、わたしはなぜだか、なんの根拠も無いというのに、エンジェルナンバーを宇宙から受け取って以来、ずっと感じていました。いったいなにに間に合ったのかが分からなくて、はて、と思ってましたが、今日やっと分かったような気がします。
残念ながら、じーちゃんばーちゃん、気づくことが遅くなってしまいました。本当にごめんなさい。本当にありがとうございました。できれば早くに気づきたかったけど、できませんでした。それでも、わたしを許してくれていますか?本当にありがとうございました。おかげで、わたしの妹、父、母に間に合うことができました。
今度こそは失敗しないようにと、必死で他人を遠ざけ続けてきましたが、違いました。わたしがわたしを遠ざけていたから、失敗してばかりだったのです。そして、それらの数々の失敗ですら、わたしには必要だからこそ、起こるべくして起こったことだったのです。すべてが引き寄せだったのです。
それまで当たり前のようにあった、自分が嫌いだったはずのすべてに愛を感じるようになれたことに、心の底から感謝の気持ちでいっぱいになり、涙ぐんでしまいます。まだまだ途中の段階なので、どうしても涙が出てしまいます。
すべてに意味なんて本当はないのかもしれません。
スピリチュアルなマウント取りと思われてしまうのがイヤで、閲覧者を増やしたいがためだけの記事だとくくられてしまうのがイヤで、自分のチャンネルに誘うためにnoteやってるだけなんじゃん、とか思われてしまうのが本当にイヤすぎて、このようなことを書くのは避けてきましたが、地球を救う、自分の使命をまっとうする、ってこういうことなのだと、心から感じているため、それに従って、書きました。
「あなたの幸せを祈らせてください」
「人という文字は支えあって出来ているのです」
それらの言葉も、今の今までわたしは毛嫌いしていましたが、こうして今のわたしは心の底からそれらを思い、サポートを送ったりなどできるようになっていました。サポートなんか送ってる場合じゃなく、100円すら節約しないといけない状況だというのに!!!心の底から「応援したい」という思いから、気づけば送らせていただいていました。
noteはあくまでもわたしの妹を応援するツールにすぎず、それ以外の用途はわたしの魂が望んでいないので、いまのうち、いま残したいと思ったことだけ、残しておます。
幸せって、連鎖するんだ!引き寄せって、ほんとうなんだ!世界中に叫びたい!過去のわたしをみんな、救いたい!
まさかこんな自分になれるだなんて、思ってもみませんでした。ほんと、ヒトがガラリと変わってしまったかのよう。赤ちゃんに戻って、またイチからやり直しているような気分。それも、ムリして修行みたいに滝に打たれながら耐えに耐えてやり直しているんじゃなくて、心の底からの愛を感じながら、心地よい状態で!
一番星だけを見るためにYouTubeチャンネルを始めたというのに、気づけば、あら不思議!!!一番星どころか、数えきれないくらいの、自分が本当に望んでいた、満点の星空を見上げることができていた!!!
そのような感動で胸がいっぱいです。愛こそがすべてって、ほんとうだった!!!
よかった、間に合って、本当によかった!!!
本当にありがとうございました。どうぞ、なるようになりますように。
🐻どうぞ、なるようになりますように
座右の銘:「どうぞ、なるようになりますように」
人生のバイブル:マイクル・クライトン著「スフィア」の英語原書
人生のテーマ曲:Red Velvet「Feel My Rhythm」
心のバイブル
「ワンネスの扉」ジュリアン・シャムルワ
「アシュタール 宇宙の真実 77のディスクロージャー」ミナミAアシュタール
「その名は、バシャール」さとうみつろう, ダリル・アンカ
心の曲
「交響曲第九番」ベートーヴェン
好きな小説家:マイクル・クライトン(初めて出会ったのは17歳のとき)
好きな映画:「透明人間」(2020年)
好きな女優:エリザベス・モス
好きな海外ドラマ:「ブレイキング・バッド」(2008年)
好きなアイドル:Red Velvet、aespa
好きな歌手:ベクヒョン
好きな歌:Red Velvet「풍경화(風景画)」
手放したいと心の底では思っていること:絵を描くこと、文章を書くこと、パソコン作業、インターネット、どこかに所属しルールを守りながら集団生活をすること、ここに書いてあるものすべて、自分を含むすべて
わたしの魂が喜ぶこと:あらゆる外国語の音を聞いてマネして発音しながら、鳥の鳴き声を聞き風を感じ緑を眺め空の美しさに感動し宇宙の壮大さに圧倒しながら、自由でいること
わたしの魂が喜ぶ飲み物:白湯
わたしの魂が喜ぶ食べ物:パプリカ(なまのまま、かじる)
わたしの魂が喜ぶ場所:日本(一歩も出たくない、ずっといたい)
わたしの魂が望む姿:多言語話者、シスター
わたしの魂が望むもの:あらゆる言語
わたしの魂が望むこと:すべての手放し
🐹
地に足のついた職業に就いている、幽体離脱の経験がある、オーラが見える、自動書記が出来る、第三の目が開く、宇宙人と接触した、過去世の記憶がある、不食である、などの記述に対し憧れや羨みなどを抱いていましたが、それらも手放すことができました。ありがとうございます。それらは物質です。
観ていただき本当にありがとうございます✨私の妹(幸せな秋桜😊🌸)のnoteを何かしらの手段で応援していただける事(フォロー、スキ、サポートなど)が私にとっての何よりのサポートです✨私へのサポートは送らず、妹をよろしくお願いします✨あなたの日々が心地よさで満たされますように✨