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「趣味」で上等

どうもどうも。実はいま別の記事を書いているんですが、長いこと間隔を開けてしまっているので、「更新しないと」という気持ちよりも「更新したい」という欲望のほうが勝ってしまっています。

もうそろそろ「健康のこと」はいいかな、と思いながら、「ぼくも読者の方も何よりも大切にしないといけないこと」なので、いま、「文学者が真剣に健康について考えるシリーズ」の総決算として、

「文学者がやる、運動しないセルフケア」

というおかしな内容のものを「有料記事」で書いています。

実は最近、僕、解剖学にまで興味がめばえていて、「どこを動かすとどの筋肉が伸びる、あるいは動かさないと逆に硬くなる」みたいなことまで知識として興味深く身につけています。

理学療法士さんと管理栄養士さんに、相談員さん看護師さん、その他に主治医と、他の病気の治療を担当しているお医者さんが3人もついて、やっと僅かな時間、「健康」な状態をキープできるというありさまなので、まあなかなか、「精神障害2級」は伊達じゃないな、と思いますが…。

多分、いま何個かは個別に、関わりのある人にもちょびっと教えてるけど、まさかぼくが「健康」のために、「銭湯にいってから寝るまで」を周到に計算して、調子の悪いときは一日最低1時間30分の全身調整をしている、という事実にはびっくりする人もいるかも。

徹底してます。ストイックです。

でもそれでも、もう数十年も姿勢が悪かったので、骨が固まっちゃってるし、まあメンタルももともとその「凝り」と連動して悪いので、ちょっと動かせば治る、というわけではないんだけど、そんな状態でも「健康な人」と同じように、ささやかな楽しみですが「本を読んだり考えたりする時間をもつこと」ができるようになりました。

多分、ぼく、残りの人生で「絶対仕事なんてしないし、できないかも」と断言できます。

「仕事」なんてしてる場合か、とさえ思う。

「仕事」よりも「情報を収集して文章を書く時間」のほうがはるかに自分には価値があると自信を持って断言できるので。

短歌書いてましたけど、散文もかけるし、社会に対する文学的な考察のほうがむしろ「本業」です。

健康記事。これはあくまで人生の「基本」ですよね。むしろここからがぼくの本領なので、20年くらい「健康な時間」を平均してキープできれば、いくらでも人の役に立つ文章が書けるだろう、という認識はずっと持ってます。

ほんとに書くこと考えること思いつくこと、いっぱいあるんです(決して躁状態ではないです)。

だから、本当は体が許せば一日じゅうパソコンにへばりついたり読書したり、興味のむくままになにか書いたり考えたりすること「だけ」で人生を終わらせたいくらい。

でも、多くの人は知らないけど、「知っておいてほしいこと」や、ぼくはある意味手遅れではあるけれど、「他の人にはこうなってほしくない」現実を伝えなければ、という義務感があるのです。

わずかな日中の健康な時間を確保するために「食事・体の調整・さらに服薬・そして睡眠の補助」までしなきゃいけない。みんなが当たり前に持ってるものを得るために、ぼくは寝る時間を含めて、6割くらいを「健康」に振り分けないと、「健康」にならないんです。

             ※

閑話休題。

この前たまたまサカナクションの山口一郎さんが、「うつ」になってしまって、NHKで治療の様子が密着番組で放送されていました。さすがに結構「あ、これはきつそう」という症状の様子も丸ごと放送されてたので、見ているこちらも思い出して、辛かったです。

ちょっと調べたりリンクを貼ったりするのが憚られて、そのまま「いいこと言ってたんだよな」というのも書き留められずに終わって、配信期間が終了してしまいました。

「サカナクション」は私が尊敬するアーティストの一組です。その飽くなき音楽への「こだわり」。僕もジャンルは違うけど、心を痛めつつ、山口さんが鬱になったという事実よりも、山口さんの「音楽」に対する考え方のひたむきさのほうに心を打たれました。

ちょっと調べたら、(あれ、Xがまた検索に乗るようになってる?)
まさに山口さんは、こう仰っておられました。

意を決して「山口一郎"うつ"と生きる」を観る。鬱状態経験者としては「音楽って僕にとって仕事じゃない」「仕事だったら簡単に辞めている、仕事じゃないから厄介」「ライトな言い方をすると『趣味』、重い言い方をすると『人生』」「音楽しかないんですよね、自分に」といった数々の言葉が胸に刺さる。

@solascape(Xより)  2024年5月11日

僕も、文学をやっていて、「これは仕事にはならない、だから厄介なんだよな」、と以前から考えていました。山口さんの言語化能力に「その通り!」って感じで、深く共感しました。

たしかに一部の人にとっては言葉は「仕事=生活の手段」として機能しているかも知れません。しかし、若かりし頃、「書くことが好きだから書くことを”仕事”にしたい」と思ったぼくに待っていたのは、

「自分の言葉を信用して集まってくれた人をほぼ騙しながら、会社からお金をもらって働きつづけていた」

という悲惨な現実でした。
短歌というジャンルにもこういう「お金を稼ぐ」手段としてのみ、短歌が流通してしまうことに対する危惧はずっとありました。

ぼくは言葉が仕事だったらとっくに辞めていたし、そもそも「仕事」なら辞めるという選択肢が考えつくんです。ところが、「辞めよう」と思っても療養中も何をしてても「頭の中に浮かんでくる考え」ってどっかで「作品のこと」だったり、「文学のこと」だったりする自分…。

もう嘘はつかないです。文学は心のなかに深くこびりついてて、取れません。

ぼくは、いろいろな言い方ありますが、自分の言葉を「自分の収入のあてにしたくない」です。ことばはぼくの人生そのもの。ぼくのものの見方、さらに言うと、語り方、喋り方まで表現できるとてもかけがえのないものです。

それは1記事数万円という対価を前提二、やりとりできるようなものではないです。

もちろん、対価が後からついてくると嬉しいですけど、「仕事」になってしまうと、ほんとうに大事なことが言えなくなる。言葉って日常と地続きなので、日常を誤魔化して美化することでもらえるような「お金」なら、ぼくはそもそも要らないです。

まさに書きたいことをありのまま、自分の技術や知識を総動員して、あらゆる政治や社会、そして文化、それを書き表すために、言葉を使うことを精一杯頑張りたいなと思いました。

なんかかっこつけてるように聞こえるけど、仕事ならほんとに代わりがいるし、お金が発生するなら、お金が出ないのを理由に簡単に「辞められる」んです。

でも、文学は私の人生であり、趣味だから、「趣味の時間を確保するために15時間健康になるためにがんばって」って言われても、やっと3時間本が読めるなら、平気で「3時間でも健康ほしい」と思ってしまうんですよ。

「お金なんか出ないよ、生活できないよ」って言われても、食費なんていくらでも削れるから、お金なくても「前から気になってた本」は安いところを比較してやっぱり買うもん。

そのくらいぼくは「書きたい気持ち」が本物でした。

お金が発生したら、私は文章を書いているでしょう。
でもお金にならなくても、やっぱり書いているんじゃないかな…。

切実な願いです。

決して誰にも真似できない、豊かな「こだわり」や「趣味」を活かす時間が、全ての人に平等に与えられますように。

「文学とは何か」まで話を広げると、もう大変なので今日はこの辺で。
またまたでーす。

使用写真素材 by StockSnap via Pixabay
(最終更新日時:2024/05/19 20:26)

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