【ミステリ小説】セイレーンの謳う夏(4)
(あらすじ)民宿兼ダイビングショップ『はまゆり』でバイトする(顔のない)ぼくは、お客さんが不思議な生き物と遭遇したことを知る。
『はまゆり』美人姉妹の妹、夢愛(ゆめ)さんは鋭い推理力も持ち主。ぼくはそんな夢愛さんが、駅前で男と言い争うのを目撃する。
八月の最終金曜日午前――
翌日の金曜日は、龍ヶ崎で行われるダイバーズ・フェスティバル準備のためぼくらは、「遊泳監視」、「水中ゴミ拾い」、「駐車場の整理」のどれかを担当することになる。
物語は、3つに別れたぼくの視点で語られる。
1/3 青 「遊泳監視」を担当したぼくは、龍ヶ﨑突堤に駐まっている不審な車を調べる
やれやれ。龍ヶ崎は北に向かって半円を描くようなビーチで、『はまゆり』の前にある西の突堤と、定期船が着岸する東の桟橋が両側から爪のように飛び出している。東の桟橋の陸側には、観光客用の駐車場がある。さらに東から海岸に迫る山波のたもとに細い突堤が伸びているが、この突堤へはビーチから直接歩いて行くことができない。
問題の車が入り込んだのは、この東の突堤の先だ。ぼくは監視塔を下りると、一端陸側に向かって上り坂を歩き始めた。
歩き始めてすぐに後悔した。
自転車かミニバイクを借りればよかった。さっき飲んだスポーツドリンクが、一瞬で汗になって体を濡らす。
腰に巻いたウエストバッグからコインを取り出すと、道端の自販機から飲み物を買った。財布を戻すとき、携帯プレーヤをバッグ入れっぱなしにしていたことに気づいた。
昨日、ダイビングで宿泊している三人娘の三人目さんから預かったものだ。
音が歪んでいるので直して欲しい、と言われた。ぼくが理系の大学生と知って、過剰な期待を抱かれたようだ。
しまった。返すのを忘れていた。
正確に言えば預かったことすら忘れていたので、修理どころか、状態の確認すらしていない。
プレーヤを起動してみる。
小型のMP3プレーヤに直接イヤホンが付いており、防水加工されている。バッテリはまだ生きていて、音楽が再生された。
歩きながら聴くと、YOFUKASHIや木曜日のジョバンニなどのポップな曲に混じって、ヒーリングサウンドのような環境音楽が混じっている。
ざっと聴いた限りでは、別に音の歪みなどはなかった。水の中で聴かなければわからないかもしれない。
一応、音を確認して義務を果たしたような気になった。
Tシャツの汗を搾りながら歩く。
時刻は十時前で、すでに太陽はこの夏最後の力を振り絞っていた。東の﨑に行くためには、一端急勾配の上り坂になった山道に分け入る必要がある。
防風林を兼ねた松林のなかをうねうねと曲がる道に入ると、セミの声が大きく波の音をかき消して、すぐ下が海であることがわからなくなる。
――タスケテ。
空耳のような微かな声。どこかで聴いたことのある、懐かしいような響き。
――お願い、助けて。
熱中症で幻聴が起こるのだろうか。
それとも、やはり携帯プレーヤになにか異常があるのか? プレーヤをオフにして、頭からペットボトルのミネラルウォーターを被った。
声はそれきりしなくなった。
サブリミナルのようなエコーが被さっているのではないか? と疑問がきざした。
どうして、三人目さんの携帯プレーヤにこんな音が混ざっているのだろう。
考えながら日差しを避けて建物や木々の影を選ぶようにして歩く。防風林からはセミの声がシャーシャーと聴こえてきた。
昔は茶色のアブラゼミが夏の主役だったらしいが、今や透明な翅のクマゼミに取って代わられている。
海の中ではサンゴの北限緯度が上がり、熱帯の魚をこのあたりで見ることもある。
地球規模の気候変動か、人の営みによる温暖化か。
道が北に曲がり、今度は急な下り勾配になる。
防風林の間から血痕のように赤い沁みが見え、それは地球が流している血痕のようにも感じられた。
十分くらい歩くと、赤い沁みは車の形をとった。
東端の付け根は臨時の駐車場になっていて、正規の駐車場が満杯になったあとに来たお客さんはこちらに誘導されるらしいが、今はまだ空きが目立つ。
こちらに駐車させられたお客さんは、海水浴場まで結構な距離を歩かされるようだ。
「もーやん!」
ぼくは駐車場の入り口で、パラソルの下のパイプ椅子に掛けた、『カモメ荘』のひょろ長いバイト君に声を掛けた。
迷彩柄のバミューダパンツから細長い脚が伸びている。
ぼくと同じS大の一回生だが文学部、浪人留年数年のつわものでもちろん歳上。
将来の夢は吟遊詩人という変り種だ。通称もーやんの由来は聞いたことがないが、皆そう呼んでいる。
2/3赤 「水中ゴミ拾い」を担当したぼくは、自分の病気である「相貌失認」について思いを馳せる
夢愛さんが愛して止まないデュパンのような行動観察が、他人の識別に有効だと知ったのは、不登校のときに図書館で読んだポーやドイルの小説によってである。
高学年になっても顔を覚えていないので挨拶ができないため、上下関係のあるクラブ活動には参加できなかった。
無愛想で素っ気ないやつ、と思われたほうが楽だということも悟った。
面白いことに、ぼくの場合みんなから無視されたり村八分状態にされるような、この年頃の子どもにとって辛いことが、むしろ楽だった。
行動観察によって、他人を識別したり感情を推し量ったりすることができ、日常生活には不自由しなくなったが、それでもたまにトンチンカンなことが起こる。
例えば何かの事情で服を着替えた人が目の前を通り過ぎても、直近に出逢ったひとだと認識できないことがある。
ぼくが何かの事件の目撃者になったら、推理小説に出てくるような不可解な人間消失現象が起きるかもしれない。
人の顔を見るのが苦手だったぼくが、初めて面と向き合うことができたのが、秋月さんの水中写真の魚たちだった。
「顔」という感覚器の集合体の原初的形態は、進化的には魚類から顕著に表れるのだから、ぼくは一から顔学を学んでいると言って良い。
と、自分の水中写真家へのあこがれを正当化している。
ふと、耳の辺りに違和感を覚え、気がついた。
昨日、三人娘の三人目さんから預かった、音が歪んでいるという水中携帯プレーヤを付けていたのだった。
手探りでスイッチを入れると、思ったより明瞭な音質で楽曲が聴こえてきた。
水中だと疎密波である音はよく伝わる。そのため、ダイブ中の合図として自分のボンベを金属でカンカンと叩いたりすると、遠くまでよく音が聞こえる。
携帯プレーヤの楽曲は、いかにも女子好みのポップな曲に混じってヒーリングサウンドのようなインストラメンタルが挟んであり、雑多な選曲だった。
ぼくが聴く限りでは、特におかしなところはなく、音が歪んでいるようにも感じない。
エアを確認すると、残圧が1/2を切っている。ぼくは慌てて本来のゴミ探しに専念することにした。
ふつうに潜っていると、スナック袋の残骸であったりペットボトルの切れ端だったり、釣り具の切れ端だったり何かしらゴミが目に付くものだが、いざそれ目当てに探すと意外に見つからない。
マーフィーの法則だ。
浅瀬のホンダワラやカジメの中を探しているときに、プレーヤの曲が単調なリズムを繰り返すヒーリングサウンドになった。
水温も暖かく、南国のジャイアントケルプの森に迷い込んだような錯覚にとらわれる。楽しくなってもいいはずなのに、なんだか不吉なエピソードが頭をよぎる。
遭難者を水中捜索する話。
当然ぼくなんか及びも付かないベテランダイバーである秋月さんや御子柴さんが、要請されて参加するらしい。
みな自分の受け持ち区域にいないでくれ、と願いながら潜る、という。
ちょっと前に見たホラー動画には、こんな視野の狭い海中で、死者と遭遇するシーンが描かれていた。
――タスケテ。
空耳か? だれかの声がしたように思った。
――タスケテ。オネガイ。
なんだ、これは?
耳には心地よいサウンドが伝わっているというのに。目の前が白くなり、子どもが泣いている。
子どもが泣きながら助けを求めている。
手を伸ばすと、そのこの顔がある場所には、白いお面が浮かんでいる。
――タスケテ。タスケテ。タスケテ。
子どもの泣き声が耳を聾し、無重力のような状態で真っ暗闇のなかにいる。
いったいどちらに進めば良い?
パニックに襲われ、呼吸が荒くなる。いけない。エアがなくなる。
どちらに進めば良い?
泡。泡。
そうだ。秋月さんに教わったことを思い出した。
ナイトダイビングで真っ暗闇の中、どちらが上かわからなっくなったら、泡の進む方向に行け。
その瞬間、ぼくの呼吸は楽になり、あたりに光が戻った。
携帯プレーヤからは、流行のポップサウンドが流れていた。
ひょっとして、楽曲に被せてなんらかのサブリミナル音素が加えられているのかもしれない、と気づいた。
他に雑音のない水中ならば、かなり有効だろう。いったい、なぜこんなものが三人目さんの携帯プレーヤに?
そのとき、またもや幻を見た。
人魚が沖の明るい海面を横切って行ったのだ。
3/3黒 くじ運の悪いぼくは、外れの「駐車場整理」に割り振られ、知り合いのもーやんと共に仕事を始めた
それから三十分くらいして、もーやんが疲れたような足取りで第二駐車場のほうから歩いてきた。
「どしたの?」
確か、もーやんは第二駐車場入り口で料金を徴収する役目だったはずだ。
「いや、それがな」もーやんは少し口ごもったあと、話し始めた。「今朝方、東の﨑に車が入り込んでたやろ」
ぼくは頷いた。
「中で誰か倒れてるって、漁協の事務所に電話があったみたいだね。救護センターの人が来たけど」
そう言えば、その後どうなったのだろう。救護センターの車は行ったきり、この道を帰ってこないので気になってたのだけど。
「車のところに行ってみたけど、中は空っぽでだれもおらへんかった」
運転者がどこへ行ったか、辺りを探してみたがどこにもいなかった、と言う。
自殺を試みた可能性もあるので、もーやんも手伝ってその辺を探したり釣りをしていた人に、それらしい人を見かけなかったか尋ねてまわったらしい。
「結局、どこにもおらんかってな」
「大変だったね」
ふと、彼の腕に似合わないものが付いているのに気づいた。
イルカをモチーフにした銀のアクセサリーと、蒼のアクリルビーズが交互に配置されたブレスレット。
以前、夢愛さんが付けていたものに似ていた。
「そのブレスレット、どうしたの?」
「ああ、これ? 欲しかったらあげるわ」もーやんは腕から外しながら言った。「件の車の側に落ちててん」
ぼくは、そのブレスレットを受け取ってしげしげと眺めてみた。やはり夢愛さんのものだ。
ふと思いついて尋ねた。
「あの車、どんな車種だったっけ?」
「車種はようわからんけどな。赤いスポーツタイプのふたりしか乗れへんやつや。コストパフォーマンスが悪いな」
先週、夢愛さんがN駅のロータリーで言い争っていた男の車だ。
ぼくが考え込んでいると、
「ちょっと貸してや」トランシーバに手を伸ばし、慣れた手つきで送信ボタンを押した。「こちら第二駐車場です」
漁協の事務所に手短に状況を説明し、問題の車を移動させるためのレッカー車の手配を依頼した。
私有地だったら民事不介入で警察が無断駐車のレッカー移動をさせることはないが、漁協が管理している突堤に入っているのでレッカーを手配できたようだ。
「やれやれ、いらん仕事が増えてもうたわ」
もーやんがため息をついた。
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