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【歴史夜話#2】一休さんが戦国時代を創った、のかもという話

戦国時代の開祖、北条早雲

 戦国下克上の先駆けとなった北条早雲。
 彼の名は、聞いたことがあるくらいで、意外と事績は知られていないかもしれない。早雲は庵号で、早雲庵(主)伊勢宗瑞(そうずい)という。
 自身が北条姓を名乗ったことはない。

 最盛期には関八州、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野南半・下野西半、駿河・常陸の一部を治めた(後)北条氏の祖である。
 
 私らの時代は、北条早雲に該当する人物として伊勢新九郎長氏(ながうじ)と習ったが、現在は伊勢新九郎盛時とされる。
 長氏だと88歳と当時としては長命で、盛時でも64歳が没年。

 源氏政権の北条氏とは縁も縁もなくて、聞こえがいいから早雲の子の氏綱からこの姓を採用した。
 下克上、つまり実力主義の開祖でもあったのだが、秩序を大事にする日本人にはウケが悪く、乱世の梟雄のイメージだから大河ドラマ向きではない。

 むかしは素浪人から身ひとつで国を奪ったと言われたが、京で足利幕府の申次(もうしつぎ)という、秘書的な役職についていた官僚であったらしい。  

一休さんと新九郎

 北条早雲が新九郎盛時なら、28歳で足利義尚の秘書官としてデビューする前に、大徳寺で修行をしている。
 大徳寺は京都にある禅宗寺院で、仏殿や法堂(はっとう)など中心伽藍のほか、塔頭も20か寺を超える。

 応仁元年(1467)に始まった「応仁の乱」で大徳寺は炎上した。
 再建のため、文明6年(1474)第48世の住持として立ち上がったのが、一休さんで81歳のときのこと。
 新九郎が大徳寺で修行した頃と重なる。

 むろん伊勢新九郎と直接の接点があった、と示す資料などない。
 しかし直接あるいは間接的にでも、その思想に薫陶を受けたであろうと勝手に思っている。

 大徳寺で修行したものは、名まえに「宗」の一字をもらい受ける。
 なので新九郎は伊勢「宗」瑞。
 一休さんは、一休「宗」純だ。

 一休さんは、アニメでぽくぽくやってる頓智小僧の印象が強いだろう。
 その出自は、後小松天皇のご落胤と伝えられる。
 70歳を過ぎてから愛人・森女(しんにょ)をそばに置き、大徳寺へと通う生活を続けたという艶福家。

 また、お正月に杖の頭に骸骨をしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり めでたくもなし」という句は有名だ。

 こうした奇矯な行動は、中国臨済宗の僧、唐代の禅者に通じ、禅宗の教義における風狂の精神を表したもの。
 またこうした行動を通して、仏教の権威や形骸化を批判・風刺したとされる。
 早雲がのちに乗り込んだ関東では、堀越公方の足利政知や古河公方(こがくぼう)足利成氏など、実態としての統治能力のない古い権威がはびこっていた。

 地方武士が旗揚げするときは、鎌倉政権が源頼朝を担いだように、中央の名家の血筋を頭にして押し立てた。
 早雲こと伊勢新九郎は、京で幕府の申次をしていたため、人間としての彼らの実態に通じており、無意味な尊崇の念やコンプレックスに左右されることがなかった。

 このあたり、一休さんの教えに通じるものがある。

 余談ながら、テレビアニメの「一休さん」の用心棒的存在である蜷川新右衛門のモデルとなった蜷川親当(智蘊)は、いにしえのK-1ファイター「武蔵」選手の祖先だと当時言われていましたね。

早雲の逸話

 応仁の乱が始まると、駿河国守護の今川義忠が上洛して東軍に加わった。
 新九郎がその申次を勤めた縁で、彼の妹もしくは姉が今川義忠に嫁ぐことになる。
 義忠は今川義元の祖父にあたる。
 義元は今でこそ、信長や松潤の引き立て役としてしか認識されていないが、当時は「海道一の弓取り」と呼ばれた。その基礎は、早雲の妹が産んだ今川氏親(うじちか)が築いたものだ。

 文明8年(1467年)に今川義忠が討ち死にしたため、後継者争いが起こる。
 新九郎は駿河へ赴いて、妹(姉)の子でまだ幼い龍王丸(氏親)のため、調停を行う。

 最終的には、新九郎が対立する小鹿孫五郎を討つ形で、お家騒動は決着する。
 駿河へ向かう船道中、新九郎は大道寺・多目・荒木・山中・荒川・在竹という六人の侍、新九郎をいれて七人の侍で杯を交わし、「この中の誰かが大名になったら、他の者は協力して盛り立てていこう!」
 実際、北条の家臣団にはこの姓の家臣たちがいる。

 早雲は一代で伊豆、小田原を傘下に治めた。
 伊勢氏は、武家の礼法を指南するマナー講師の一族である。
 千湖姫に叱られる歌詠み会で、女官を罵倒して泣かせ、炎上したことでも有名。

 このような文官だった新九郎がなぜ戦略に長けていたのか?
 彼は中国の兵法書である「三略」の出張講義を受けたとき、冒頭の「主将の法は、務めて英雄の心を覧る」という一句を聞いただけで、そんなん知っとるわ!と言ったとされる。
 新九郎が若い頃修行した大徳寺は禅寺だが、当時の先進国であった中国の兵法書も教材として読み解いていたようだ。

 下克上つまり下が上に克つ、というのは秩序を乱して反逆するのではなく、旧権威を廃して実務に長けた者が国を治める、という一休さんの思想に近しいものを感じるのだが。。。

北条氏と風魔忍者

 北条早雲とその周辺は、知れば知るほど面白いエピソードに満ちているのだが、NHKとの相性が悪くて大河やほかの時代劇に取り上げられることがない。

 のちに徳川の世になっため、忍者は伊賀、甲賀が主流となり、北条家が駆使した乱波(らっぱ)集団は、「風魔」という禍々しい名で呼ばれるようになった。
 その頭領である風魔の小太郎は、戦った武田軍の記載では「身の丈7尺2寸(約218cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という異様な風貌で描かれている。
 ペルシア系渡来人とも言われたほど。

 風魔のモデルは、「風間(かさま・かざま)出羽守」とも言われ、実在していたようだ。
 北条氏が広大な関東一円を治めることができたのは、拠点に築いた支城のネットワークが有効に機能したため。

 その通信機能を担ったのが狼煙であり、ちょっと大陸の風を感じさせる。
 狼の糞を乾燥させて燃やせば煙が直上したため、「狼煙」の文字が当てられるが、実際は煙硝を用いたロケット花火的なものだったようだ。
 
 狼煙を操る技能集団「狼煙士(のろし)」の若者を主人公に小説をモノしたい、と長年思っていたのだが、ついに日の目を見ることはなかった。これは私事ですけどね。

#歴史 #北条早雲 #一休さん #風魔 #忍者 #下克上 #戦国時代


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