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【ファンタジー小説】聖花(5(完))

5 聖殿

 目が覚めたとき、ナスカは四肢を投げ出すように地面の上に倒れていた。はるか高く、まぶしい天井が目に入る。
 ゆっくりと体を起こすと、あたりを見回す。
 暑い。
 天井が高く広い室内は瘴気、いやラクリヤの濃い香りで、埋め尽くされている。

 ――目覚めたかな。”王の耳”よ。

 女の声が、頭の中に直接語りかけてきた。
「心話術か。市長殿だな」何度も感じた視線の主。真紅の女が今、語りかけてくるのを、旧友の言葉のように聞いているのが不思議だった。

 ここはどこだ? 

 広々としたホールの中。
 明るく暖かいために、室内の水分が残らず蒸気になったかのように、じめじめと不快な感覚だ。天井に硝子が張ってある巨大な建物は、帝国の主神殿ほどではないが辺境では見たことのない規模だった。

 思い当たる建物はひとつだけ。
 ラクールの聖殿。その中にいるのだ。
 湿気以外にもナスカの神経をさいなむ不快な感覚の元が、部屋の中央にあった。

 ラクリヤの葉球。最初遠近感がわからなかったため、それが並外れて巨大なことに気づかなかった。見上げるように高く成長したラクリヤの最終形態。葉球、葉幹と同様その葉の先端から、甘い香りが漂ってくる。
 ラクリヤは温室の中、霧のように精素を作り出している。

 ナスカは甘い香りに誘われ、葉球に向かって一歩踏み出した。その途端ぬかるみに足を取られて転倒する。ラクリヤに近づくにつれ、地面がぬかるんだ泥状になっていた。
 まるで粘土のようだ。ナスカはそのにおいを嗅ぐ。
 まちがいない!
 ラクール市民に給付される肥料は、この土を固めたものだ。この巨大なラクリヤが、この市域すべてのラクリヤの母株なのだろう。

 ――王の耳よ。冥土への土産に、ラクリヤの秘事を教えてやろう。

「待ってくれ」ナスカは思わず懇願口調になる。「ラクリヤの栽培法を探っているとしても、帝国はラクール市に対して何ら侵略的意図をもってはいない。ラクリヤは、帝国領内の山岳部への入植に使いたいのだ」

 ――信じているのか、そのような話を。
 帝国の科学士は、ラクリヤの葉から麻薬成分を抽出した。帝国はこの麻薬を新たなる支配の道具とするつもりなのだ。そしてその刃がラクールへも向けられるのは、間違いのないことだ。

 ナスカは、オルクウムのミイラの顔を思い浮かべた。あの老獪な狐ならば、自分の配下すらも欺くだろう。
 そのとき、”王の耳”はラクリヤの香りと異なる、異臭に気づいた。ラクリヤの表面に、黒いしみのような陰がある。
「ソロス!」

 ――秘事を洩らしてしまった者は、裁かれねばならぬ。
 老栽培官の体は、粘着質の半透明な液体に包まれて、葉の表面で溶けかけていた。とろりとした肉汁が地面に滴り落ちて、根から吸収される。

 我が子どもたちよ。
 突如として、植物の思考がナスカの心に飛び込んでくる。

 そう。母なる巨大なラクリヤ株は、ある種の鳥類がそうするように、半ば消化したえさを吐き戻して与えるかのごとく、人の手を介して肥料とした食事を、子株に与えるのだ。
 お前に安らぎをあたえてやろう。さあ、おいで。

 ナスカは手招きするような声に誘われて、ふらふらと足を踏み出す。
 一歩、また一歩。

 ラクリヤに支配された意識の中に、つかの間白い光がともる。幾多の危険をくぐり抜けてきた経験がもたらす反射動作で、ナスカはナイフを自分の腿につき立てた。血が流れ、激痛が正気を呼び戻した。
 額から汗がしたたり落ちる。ナスカは、ゆっくりと後ずさった。

 首を巡らせて扉を探すと、それは背後にあった。
 しかし押しても引いてもびくともしない。体をぶつけても、空しくはじかれるだけだ。
 水はいったいどこから入ってくるのだろう?
 ラクリヤをはさんで反対側に、醜悪なキメラの像がある。水はその口から吐き出されていた。

 ナスカは、ゆっくりと時間をかけてそこまで歩いた。
 集中力が途切れると、花に意識を支配されてしまう。
 像の近くまで行くと、注意深く全体を調べる。”王の耳”はラクールの祖たる魔法士である、ルールド一派の建築様式を思い出していた。異端の儀式を執り行うことが多かった彼らは、その神殿に秘密の脱出路を常に用意していたはずだ。

 ナスカがあちこち触るうち、ラピスでできた青い像の目が動いた。
 それを押すと、背後の壁の一部がゆっくりと後退し、黒い穴がぽっかりと開いた。煉獄に通じるかのような暗い暗い穴の中へ、ナスカはためらわずに飛び込んだ。

 その日の朝、ロアは六つ足をいつでも動かせるように準備していたが、肝心のナスカがいつまで経っても起きてこない。
 心配になって部屋に入ると、主人の姿が消えていた。

 昼の間はネヴァ・モアも頼りにならない。仕方なく、部屋で主人の帰りを待つことにした。
 待つ時間は苦にならなかった。
 亜人類として生を受けた自分の一生は、いつも誰かの決断に身をゆだねる隷属の時間の連続であり、誰かの命令を待つ時間ばかりだった。

 ロアはこの天上都市で出会った娘を思った。あの娘も自分と同じだ。
 何かに隷属し、しかしそれに対して果敢に立ち向かおうとしている。なんとか助けてやれればいいのだが。

 夕闇が迫るころになり、今日はもう主人が帰ってくることはないのか、と諦めかけたころ扉が乱暴に開いて、泥まみれになったナスカが飛び込んできた。
 ロアはなにが起きたのか尋ねず、黙々と足の傷を手当した。

「すぐにもずらかろう。天界への桟道の入り口で、ネヴァ・モアとともに待っていてくれ」
 あなたはどうするのか? ロアは目で尋ねる。
「おれか?」ナスカは照れたように笑った。「忘れ物を取りに行ってから、合流する」
「きっと、そう言うだろうと思っていました」
 ロアが自分の思いを率直に口にするのを聞いて、ナスカは少し驚いた顔をした。

 青白い月の光りが、窓から差し込んでいる。
 オフィリアはほのかな明かりに浮かび上がる庭園の風景を、二階の窓ごしに見ながら、潰えた望みを思った。
 いつものくせで手を髪にやり、そこにあった艶やかな長い髪がなくなっていることに気づくと、またしてもナスカに対する怒りがこみ上げてくる。
 あの日和見の商人。信じたのが間違いだった。

 昼の間、家の中が騒がしかったが、今は逆に静寂が支配している。
 上級栽培官の館では異変が起きていたが、それが何なのかわからなかった。オフィリアは自分自身を抱きしめるかのように腕を体に回すと、身震いした。
 闇の精霊が騒いでいる。ラクリヤの香がふだんとちがう。
 なかば幽閉された身では、じれったく思いながらも耐えることしかできなかった。

 そのとき密やかなノックの音がして、どきりとした。食事が運ばれる時以外閉ざされているはずの扉が、そっと開く。
 扉のそばに足を運ぶと、不意に手が伸びてきて口をふさがれた。
「静かに」
 男が小声でそう言うと、手を放した。
 オフィリアは薄明かりの中、相手の男の顔を認めると思い切り平手打ちをくらわせた。

「この大嘘つき!」
 ナスカは頬をさすりながら、
「静かに、って言っただろうに」
「何でのこのこ来たのよ!!」
「お姫様を助けに来たに、決まっているだろう」
「あんたなんか、二度と信じるもんか!!!」
「信じろ。敵を油断させておいて、実はあとから助け出すつもりだったんだ」
 オフィリアはナスカの目をじっと見つめ、「嘘つき」とつぶやいた。

 栽培官ソロスの館は、帝国の高官たちの邸と比べるとさすがに見劣りがするものの、この高山にどのようにして資材を運び込んだのか、と思わせるほど贅を凝らしたつくりだった。
 この山上にこれほどの館を建てるには、どれほどの労力が費やされたのだろう。しかし今、館の中には人の気がない。
 主を失った館は、わずかな数の忠義な使用人を除いて四散したらしい。
「いったい、どうしたのかしら?」
 人気のないホールを抜けながら、オフィリアが言った。

 ラクールで一、二を争う贅沢な居館といえども、灯火の制限を受けていることでは他と同じで、内部は薄暗かった。
 対立しているらしいとは言え、父が見舞われた不幸を言うべきかナスカが迷っていると、離れのほうからうなり声が迫ってきた。

 私兵が去った今、オフィリアを連れ出すのは簡単だろう、という甘い考えを改めなければならないと、ナスカは悟った。

ケルベロス!」半人半獣の守護兵が、半ば本能に刷り込まれた習性に従って、侵入者を攻撃するために牙を剥いていた。

「こっちだ」ナスカはオフィリアの手を引くと、裏手に向かって駆け出した。
 夜が明けるにはまだ時間がある。ネヴァ・モアの助けも当てにはできなかった。ナスカは発光弾を番犬に投げつけた。
 火を目にする事が少ない環境で生活している獣に対し、強い光は目くらましの効果があった。

 薄い精素の中、ふたりは必死に走った。裏庭を抜け、ラクリヤの森を突っ切る。疲れを知らぬ追っ手は、発火弾には一時的にひるんだものの飽きずに後を追跡してくるようだ。

 いったい、どれくらい走り続けたのだろう。
 いつしかふたりの前には、荒涼とした岩ばかりが広がる不毛の台地が開けていた。月明かりも届かない山の影に、不気味な彫刻のような岩盤がその姿をさらしている。

「荒れ野だわ」
 オフィリアが嫌悪をこめた声音で言った。ラクリヤが植わっていない、忌むべき生息不能域。「ここから先へは行けない!」

 ナスカは、彼女の声を無視して足を踏み出した。下から吹き上げる風が、ラクリヤのにおいを吹き払っている。
「ケルベロスを振り切るには、ここを進むしかない。ここを突っ切って山腹を回り込むように迂回すれば、天界への桟道にたどり着くことができる」
「正気なの? 荒れ野を渡るなんてできないわ」

「大丈夫だ。おれを信じろ」
 ラクリヤのにおいに取って替わって、かすかな硫黄のにおいが鼻をつく。精素がなく、生き物の気配がしない死の高地。
 オフィリアは、おそるおそる歩を進める。ナスカが彼女の手を取り、励ました。
「心配するな。大丈夫だから」
 オフィリアがあえぎ、額に汗を浮かべながら声を絞り出す。
「だめ。息ができない」

 ナスカは、彼女の手を握る指に力を込めた。オフィリアの顔からは血の気が引き、力なくその場に倒れ込む。
「帝国には進んだ魔法技術がある。すぐに直してやる」ナスカはひざまずくと彼女の額に手を当て、口の中で呪文を転がした。
「ゆっくり、ゆっくりと呼吸するんだ。息を吐くことだけに集中して」

 ヒュー、ヒューという荒い呼吸音とともに、オフィリアの胸が大きく上下する。ナスカは彼女の背中をさすってやる。やがてオフィリアの顔に、少しずつ血の気がもどってきた。

「少し楽になってきた。本当に魔法を使えるの?」
 彼女は硬い地面の上に横たわると、静かに目を閉じた。
「私の本当の父親は、下級栽培官でソロスの配下だったの」
「養女だったのか」
「聖なる花の子は、次期市長の候補となるべく特殊な教育を受ける。ソロスは次の市長候補を、自分の親族で抑えておきたかったのよ。
 父は罠にはまって無実の罪に落とされたの。私が養女になれば、罪を赦される約束だったわ。でもソロスはそれを破って、父を花刑法定に処した」

「あの日……」
 初めてオフィリアを花の谷で見た日。彼女は本当の父親が処刑される瞬間を目の当たりにしたのだ。
「だから決めたのよ。この市を出て行こうと」

 そのソロスも、今やラクリヤの生贄となった。
「母親は?」
「母のことは知らない。物心ついたときには、もういなかった。父も母のことはなにも言わなかったので、いつしか聞いてはいけないことだと思うようになっていたの」

 あたりを乳白色の光が包みつつある。山の陰から垣間見える雲海の下が赤く染まり、橙色に縁取られていく。いつのまにか夜が明けつつあった。
 その時、ナスカは朝焼けの光を背景に、誰かが立っていることに気づいた。

 真紅の花を思わせる女。「ルクレツィア殿!」

 ラクール市長にして、当代最高の魔法士。ルクレツィアは白い長衣に身を包んで、化石のように身じろぎもせずそこに佇んでいる。ナスカは彼女のことを高齢だと思い込んでいたが、今間近に見る女市長は、老いているようには見えなかった。

「聖花を汚したものを、黙って見逃すわけにはいかぬ」
 ナスカの視界を、突然紅い闇が襲った。肺腑を黒い手につかまれ、その場に昏倒する。目がかすみ、どちらが上なのかもわからない。
「……」
 肺の中の空気が失われ、声が出せない。”王の耳”は必死で言葉をたぐり寄せた。

「ま、待ってくれ。
 帝国はもはやラクリヤを望まぬ。あなたもその理由を知っていよう」地をはいずりながら、必死で懇願する。「おれをこの場で殺しても、帝国は次の密偵を送ってくるぞ」

 声に応じて、つかの間攻撃の手が緩む。ナスカは四つんばいになり、あえいだ。精素が肺に満ちて、少しだけ楽になる。
「この荒れ野に単身出向いて来たということは、あなたも知っているのだな。ラクリヤの秘密」
 ルクレツィアは、眉ひとつ動かさない。

 ナスカは、あの聖殿の中でラクリヤに意識を支配されかけたとき、花の考えに似たものが奔流となって頭の中に入り込んでくるのを感じた。

 すべては、ペテンだったのだ。
 擬態
 捕食のため自分を別のものに似せるのが擬態ならば、ラクリヤのそれは究極の擬態だった。
 ラクリヤは、自分が振りまく香りの成分中に、動物の精神を支配する麻薬成分を紛れ込ませて、悪魔のささやきを聴かせるのだ。
 ――あなたには、私が必要なの。あなたが生きていくのには、私が必要なのよ。

 こうして暗示を与えられ続けた動物は、ラクリヤの下僕に成り下がる。
 肉植樹であるラクリヤに獲物をささげ、あげくに自分自身をも差し出すのだ。

 おそらくこの高山植物は、最初のころ高地に住まうわずかな動物を欺いて、細々と暮らしていたのだろう。そこへ彼女にとって幸運なことに、帝国を追われた魔法士の一団が移住してきた。 
 彼女にとって、格好の獲物たち。
 ラクール市を作った人々の祖は、花に欺かれていることに自ら合理的解釈を与えることにより、心の安定を得た。
 つまり高山の希薄な精素を補完するために、この植物が必要なのだ、と。

 人は適応性に富む生き物だ。
 高山の精素が薄い環境に慣れていった人々は、それをラクリヤのおかげだと思い、神格化を深めていった。
 まさに花の思うつぼだ。この危険な植物を、帝国に持ち込むことはできない。

「ラクリヤのからくりを知ってなお、あなたはこの植物を護って生贄を捧げていくのか?」
 その言葉を聞いたルクレツィアは、かっと目を見開いた。
「おまえに何がわかる。聖花はもはやラクールの統治原理なのだ。苛酷な環境に立ち向かわなければならない市民にとって、その心をひとつにまとめる拠り所が必要なのだ」

 それもまた、ひとつの選択肢なのかもしれない。ナスカはうなずいた。
「おれが帝国の上層部を説得しよう。ラクリヤに手を出さぬように、と。それが帝国の利益でもある」
 ルクレツィアはしばし考え込んでいたが、
「よかろう。おまえを解放してやろう。しかし娘はおいてゆけ」オフィリアを見詰めた。「花の娘だ。私の後継者たる候補なのだ」

「ナスカ!」オフィリアが不安気に見つめる。またしても裏切られるのか、という悲しげな視線。
「だめだ!」オフィリアが今にも泣き出しそうな顔で、ナスカを見る。「おれの話だけでは信用されない。この娘の証言が必要だ」

 ナスカは賭けに出ていた。
 苛烈な女市長の貌と、清楚な花の娘の貌。抜けるような白い肌の色、意志の強い瞳、引き締まったあごの線。
”王の耳”は、このふたりに共通するものを見ていた。勝ち目のある賭けだと思った。

「帝国での安全は、このおれが保証しよう。いや、彼女は必ずしあわせにする。それがあなたの真の望みでもあるはずだ」
 果断に富んだ女魔法士の目に、初めて迷いの表情が浮かんだ。一瞬だがナスカは、非情な女市長の瞳の中に母の慈愛を見た気がした。

「行くがいい」その声音には、諦念のようなものすら感じられた。「私の気が変わらぬうちに、その娘を連れて」

 ナスカはオフィリアの手をとると、荒れ野の中に向かって歩き出した。オフィリアが首を傾げる。
「どうして、ラクリヤがなくても平気なのかしら?」
「言っただろう。おれは魔法使いだと」
 不意に娘が顔を向け、じっと彼の目を見つめながら尋ねた。「あなたが、私をしあわせにするの?」

 その言葉の意味するところを悟って、ナスカはわけもなく慌てた。「いや、まあ帝国での後見を引き受ける、といった程度の意味だ」
 ふーん。とうなずいたのち、「嘘つき」
 また殴られるか、と身を引いたナスカの口を甘い唇がふさいだ。

”王の耳”は天上都市ラクールに赴き、聖花伝説のもうひとつの結末を持ち帰った。その結末によれば、
「リーアは、末永くしあわせに暮らしました」となるのだった。           (了)
                     

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