【ファンタジー小説】天上の花(後編)
(前編のあらすじ)“王の目”ナスカ・ホーソンは命を受けて、天上都市ラクールへ赴いた。
ラクールは「精素」が薄い山頂にあるにも係わらず、ラクリヤという植物を栽培することによって精素を補うことで生きることを可能にしていた。
ナスカの使命は、ラクールの栽培官が秘匿するラクリヤの栽培法を探ることだった。
3 オフィリア
拘束こそされなかったが、ナスカとロアは虜囚のように、兵士に従って谷を登る道を歩かされた。
ロアの歩調は変わらなかったが、ナスカはうすい空気の下あえぎながら足を引きずった。
ラクールの兵が軽装なのは、このように起伏に富んだ地勢での機動力を維持するためなのだ、とナスカは知った。
崖から落下するのはあっという間だったが、登りは困難を極めた。
高地馬に乗ったハイラムは、非情な目つきでふたりを見下ろしながら先導する。
ナスカたちが収容されたのは、崖の途中にある台地の上に張った大きめの天幕で、ハイラムらはここに駐屯しているらしい。
谷間を見下ろす景観のよい場所だが、むしろ谷から吹き上げる瘴気によって陰惨な気に満ちている。
知性が宿る夜ならば、ネヴァ・モアはこう言ったかもしれない。「この場所には死霊が満ちている」
天幕は数張りあったが、ナスカとロアはもっとも大きなハイラムの天幕に連行された。
ハイラムはふたりを立たせたまま、自分は床几に掛けて切子硝子に注いだ飲み物を旨そうに干すと、しばらくの間ふたりを無視して書類に目を落としていたが、不意に顔を上げると問い質した。
「さて、見慣れない顔だがいずこから来たのかな?」
“王の目”は、あらかじめ準備していた偽の素性を答える。
最後まで言い終えないうちに、ハイラムが両脇の兵士に目配せすると、ナスカはいきなり棍棒でわき腹を突かれた。
「この聖なる花の谷が、異教の者によって汚されてしまったではありませんか。
交易商人がここへ入るのは、禁忌だと知らなかったのですか?」
ナスカは腹を抑えて、くず折れる。
肩にいたネヴァ・モアがバランスを失って羽ばたいた。
さらにハイラムが言い募る前に、ロアが早口で山岳民の言葉でなにかを答えた。
ハイラムはもっともらしくふん、ふん、とうなずく。
「なるほど、なるほど。君たちが谷を汚したのは不幸な事故の結果だと。しかしその事故の責めは誰にあるのかな」
口を開こうとしたナスカを制して、ロアが進み出て何かを彼に手渡した。ちらりと見ると、交易品の中でも高価な金細工のようだ。
ハイラムはそれを一瞥し、あらぬ方を見やりながら、
「確かに話を聞く限り、その事故の責めは相手側にあるようだ」
ナスカの前までゆっくりと歩いてきて、「禁忌を破った罪は見逃そう。しかしここより先、ラクールに入市させることはできぬ」
「待ってくれ」ナスカは慌てて言った。「これ以後、二度と聖域に入らないと誓う。だから……」
ふと見ると、ハイラムは彼の言う事など耳に入らない様子で、ナスカの胸のあたりをじっと見つめている。
背の低い彼の視線は、その真正面に胸かざりを捕らえていた。「これをどこで?」
ハイラムは、谷で見た娘が落とした銀細工の胸かざりを差した。ナスカは娘のことは伏せて、ただ拾ったのだと答えた。
「ふ……む」
ハイラムはぐるぐるとその場を歩き回りながら、しばらく考え込んでいたが、「いいだろう。ラクールへの入市を許可しましょう」
ナスカの六つ足は部下に引いて来させるので待つように、と言い捨てて二人を下がらせた。
ラクールの市門は、これまでにナスカが見た辺境市のなかでももっとも簡素なものだった。
ラクール市はこれまでに他国の侵略を受けたことがなく、防衛上の意味合いが全くないためだ。この市門を越えると、エレドニアの山頂を中心に二万人程度の市民を擁するラクール市である。
その夜ナスカは商館に部屋を取って、ロアとふたり掛かりで一番大きな背嚢を運び込んだ。
「さて……」商館の中にある一室は、一対の寝台以外に何もなく灯火の代わりに壁に塗られた光り苔が、ほのかに部屋を照らしている。
商人相手の安宿らしく、窓際に置かれた水差しは空になっていた。
「さあ、出てくるんだ」ナスカは背嚢に向かって話し掛けた。
誰かが見たら、狂ったと思うかもしれない。
ナスカがネヴァ・モアに合図すると、鴉は籐でできた背嚢の前でひと声鳴き、嘴をすき間に突っ込んだ。
「出てこないと、この凶暴な鳥が目をつつくぞ」
その声に答えるかのように背嚢が開き、細身の体が飛び出してきた。
中から出てきたのは、花の谷で見た髪の長い娘だった。
光り苔と月光のかすかな明りの中でも、その肌が抜けるように白いのがわかる。
山岳民の衣装であるゆるやかな長衣を着ているが、この娘はどの民族でもないように思えた。
ナスカがこれまで見た山岳の民は皆、陽に焼けて褐色の肌をしていたが、娘の肌は雪花石膏のように白くなめらかなのだ。
その顔だちは帝国にもまれなほど整っているが、今はおびえた目をして小動物のように縮こまっている。
「そんなに畏れなくてもいい」
ナスカは安心させるように話し掛けたが、娘は固まったように動かない。「どうして、おれの荷物に隠れていた?」訊きながら、ナスカはふと思い当たる。「言葉がわからないのか?」
娘は相変わらずナスカを見つめたまま、口を開こうとしない。
「君の名前は?」ゆっくりと、ひと区切りごと噛み砕くように話し掛ける。「名前だよ。な・ま・え」
「……」
歳はいくつぐらいなのだろう。
少女のようにも見えるし、成熟した女の色も感じる。その青い瞳は吸い込まれるように、澄んでいる。
「ナ・ス・カ。わかるか?」ナスカは自分を指して言った。
「ナ・ス・カ」娘が彼を見ながら、初めて言葉を発した。
「そう。ナスカ」
ナスカは次に娘を指差した。聡い娘のようだ。その意図を察し、
「……リ・ア」伝説の娘の名を口にした。ナスカは一瞬どきりとする。
「リーア?」
娘は首を振った。「オフィリア」
オフィリアか。ナスカはそう言うと、ロアに「話してみてくれ」
ロアが山岳民族の言葉で話し掛けたが、やはり娘は応答しない。
「通じないようです」
「山岳民ではないのかな」
「山の民は多くの小部族に分かれていますから、私が知らない言語を使う民もいます」
ナスカが玉蜀黍のパンを差し出すと、娘は引ったくるように奪い取ってがつがつと頬張った。
「ネズミを捕まえたときのネヴァ・モアのようだな」ナスカは笑った。「これは、オフィリアのものか?」
銀の胸飾りを差し出す。娘は黙ってそれを受け取った。
「この模様はなにを示すのだ?」
中央の玉に記される意匠を差してみたが、娘は意味がわからないのか、ただじっと見返すのみだった。
「この部屋を使うがいい」
ナスカはそう言い置いて部屋を出た。肩に止まったネヴァ・モアが、めずらしく困惑したような声音で言った。
「あの娘からは、災いのにおいがするぞ」
ほのかな明りの中で女を抱きながら、ナスカはオフィリアの横顔を想い出していた。
「誰か別の人を思っている顔ね。故郷に残してきた奥様かしら」
商人を装った“王の目”は首を振った。
妻帯していないとは言わなかった。
女は娼妓ではない。
商館のはす向かいにある酒場で、テーブルを拭きながら話し掛けて来たのだ。
「その鳥もお酒を飲むの?」
ラクール市が帝国を追われた魔法士を祖とする、との言い伝えどおり、女はナスカにもわかる言葉を使った。
店がはねてから女の部屋に行き、体を重ねると相手が思ったより若いことに気づいた。
店でも女の部屋でも、明りは壁に塗られた光り苔と月光だけ。
ラクールで火を使って良いのは、定められたわずかな時間のみだ。火は精素を消費する。
貴重なラクリヤの恵みである精素を無為に使うことは許されない。
互いに裸のまま横たわっていると、ナスカはずっと悩まされてきた高地酔いの頭痛がだいぶよくなっていることがわかった。
女を抱いているときは、ラクリヤのにおいさえも忘れる事ができた。
―交尾の間、部屋をはずしていよう。
気をきかしてくれたネヴァ・モアには悪いが、もうしばらく余韻にひたっていたい気分だった。
ラクールはどう? と聞かれ、この香りがひどいと答える。
女はくすりと笑い、他所から来た人は皆そう言う、とつぶやいた。
「でも私たちは、ラクリヤなしでは呼吸することもできない。ラクリヤの恵みなしでは生きていけない」
そのにおいはこの地を包み込み、完全にその臓腑に納めている。しかしこれは安全の証なのだ。
ラクリヤが生み出す精素が満ちている証拠なのだから。
聖花崇拝は単なる信仰ではない。生きるための必然の手段なのだった。「聖花信仰とはなんなのだ?」
「定めとして栽培区を守ること」女が答えた。「栽培区は市民ひとりひとりに割り当てられている。そこにはラクリヤを植え、それだけを育てるの。
もし与えられた栽培区のラクリヤを枯らしたり火事を起こしたりしたら、花刑法廷で罪に問われる」
女は当たり前のように言った。「ここでは、ラクリヤの一葉は血の一滴なのよ」
「だれにでも簡単に育てられるものなのか?」
女は寝台の引き出しから、親指の先くらいの土の塊を出して見せた。なんとなく、天界への桟道で見た鉱虫を思い出させる。
「これがラクリヤの肥料よ」
“王の目”は、肥料の塊をまじまじと見つめた。
鼻を寄せると、かすかに嫌なにおいがする。このにおいには覚えがある。ナスカが記憶をたどっていると、
「毎年収穫祭の翌日に、栽培官からこれが給付される。良き市民はこれをラクリヤに与えて雑草を抜き、水を差し上げるのよ」
女はナスカの手から、肥料を奪い取る。
「もしこれを無くしたりしたら、“荒れ野”に追放されるわ」
エレドニアの北側に広がる、生息不能域の名を口にした。
そこは高い山の陰にあたり、ラクリヤが植わっていない一帯だ。その名を口にする時、女の口調には嫌悪が現れていた。
どうやら良きラクール市民にとって、忌むべき言葉らしい。
「荒れ野へ追放されるくらいなら、花刑法廷にかけられたほうがましね」
ナスカは、女から肥料を盗むことを諦めた。
ふと思いついて、ナスカは女の裸の背中にオフィリアが身に着けていた胸飾りの文様を描いた。
「これが何かわかる?」
太陽とラクリヤ。ソロス家の紋章ね。女は即座に答えた。
ソロス?
ラクール市の上級栽培官よ。
ナスカはその時、肥料のにおいが何だったか思い出した。
それはこれまでの任務で何度かかいだことのある、戦場のにおいだった。
ナスカはラクール入り以降、誰かの視線を常に感じている。翌朝、女の部屋から商館に戻る時にもそれを感じた。
街路の向こうでは、ハイラムの配下が監視をしている。
ナスカが感じる視線は、監視者のものとは全く違っていた。このようなことは、これまでになかった。
“王の目”の力に勝る、ラクールの魔法士のしわざなのかもしれなかった。
商館の一階では、すでに起きて六つ足の世話をしているロアのかたわらで、オフィリアが興味深そうにそのしぐさを見ていた。
まだ幼さの残る表情とは裏腹に、その瞳は大人の知恵をたたえている。
ふたりはなにかを話し合っている。
ナスカは歩み寄ると、ロアに問い掛けた。
「この娘の話す言葉がわかったのか?」
いいえ。ロアが首を振る。
「ふたりで話しているように見えたぞ」
「お互いに自分の言葉で話していました。細部はわかりませんが、なにを言っているのかは理解できるようになります」
そんなものかな。ナスカはつぶやいた。
朝食をとるため、ナスカは娘を部屋へ誘った。彼はずっと悩まされていた頭痛が、きれいに去っていることに気づいた。
部屋の扉を開けた娘に、ナスカは後ろからそっと声を掛けた。
「右の肩に毒虫がとまっているぞ!」
娘ははっとして、右肩に目を向ける。その瞬間、罠に掛けられたことを知り、真っ赤になった。
「どうやら、帝国の言葉がわかるようだな」
ゆっくりと振り向くと、端正な顔が怒りにゆがんだ。
「このペテン師。大嘘つき!」
「嘘つきは、おまえのほうだろう」苦笑しながら「なぜ言葉がわからないふりをした?」
娘は寝台のうえに座り込むと、頭を抱えた。
「だって、いろいろ聞かれるでしょう!」
ナスカはやや呆れながら、尋ねた。
「もちろん聞くさ。いったいなにが望みだ?」
「ラクールを出たいの。あんた帝国の商人でしょう? お願いだから私を帝国に連れて行って」
「なぜそうまでしてラクールを出たがる? 自分が育った故郷だろうに」
オフィリアは目を伏せた。「よその世界を見たいだけ」
「君はラクリヤの栽培法を知っているか?」
娘が上級栽培官の家柄ならば、期待できるとナスカは思った。
しかし彼女はゆっくりと首を振った。
窓の外になにかが当たる音がして、娘がびくっと反応する。見るとネヴァ・モアが飛び立つところだった。
「追われているのか?」
「かくまって欲しいの。そして帝国に連れて行って」
「なにをした?」
オフィリアは下を向いて口をつぐむ。「お礼はできないけど、これを売ればいくらかのお金になるわ」
胸飾りをはずして渡そうとする。
「本気か?」
娘は頷いた。
ナスカは太腿に留めてあったナイフを取り出して、娘に刃を向けた。「誓えるか?」
オフィリアは、突然差し出された白刃の輝きにおびえた表情を浮かべつつも、じっと彼の目を見てうなずいた。
娘の決心を見て取ると、ナスカは彼女の長い黒髪をつかみ、無造作に切り取った。
「追われているのならば、外見を変える必要がある」
オフィリアは切り取られた髪をひと筋手にとった。瞳に涙が浮かんでいる。
ナスカは思った。リーアの涙は、自分になにをもたらすのだろう、と。
4 ソロス
市場の雑踏はどの辺境市も変わらないが、ラクールのそれは素朴なものだった。
粗末な屋根がついている並びはましなほうで、大部分は直接地面に莚を敷き、そこで壷に入った農作物をやり取りしている。
なかには子供くらいの大きさの壷いっぱいに、玉蜀黍やレンバスを入れて商っているものもいた。
尾けられているー
ナスカは雑踏の中を歩きながら、連れの手を取った。「後ろを見るな」
足を早めて大通りを過ぎると、細い路地に飛び込む。
同行している連れはフードを目深にかぶり、顔を隠すようにしていた。複数の足音があとを追って路地になだれ込む。
ナスカは連れの手を引いて、おもむろに走り出した。
「こっちだ」路地から路地へと渡るうちに、足音は遠ざかっていった。「どうやら振り切る事ができたようだな」
袋小路になった路地裏で、息を整える。精素の薄いラクールで走ると、ナスカはすぐに息が上がった。
「残念だが、そうはいきません」
振り返ると、数人の兵を従えたハイラムがいた。背の高い兵に囲まれた彼は子どものように見えたが、その口調は邪心に富んでいる。
「ラクールの路地裏まで知り尽くしている我々を、振り切ろうと考えるのはいささか無謀ですな。
あなたを泳がせておけば、いつかあの娘と接触すると読んだ私の勝ちです」
そう言うとつかつかと歩み寄り、手を伸ばしてナスカの連れのフードをはぎ取った。
フードの下から、短い黒髪が現れる。ハイラムは驚いたように、その顔をまじまじと見つめた。
「手伝いのために雇った地元の子だ。なにか問題あるかね?」
ナスカは連れの男の子の、浅黒い顔を示しながら言った。
「行っていい」ハイラムは吐き出すように答えた。
ロアは市場のはずれに莚を敷き、じかに品物を並べて取引していた。ラクールの仲買人と交易商とのやり取りは、物々交換が基本だ。
ナスカが利益を無視した交換レートを設けていることと、ロアの如才なさによって取引は繁盛していた。
ロアの傍らでは短い黒髪に煤を顔に塗って、男の子のように見えるオフィリアがかいがいしく手伝いをしている。
ネヴァ・モアが近くの木の上から、ネズミが商品をかじったりしないよう監視していた。
ナスカは囮を努めた男の子に駄賃を払って帰すと、ロアのもとへ歩み寄った。
「上手くいった」ナスカは客足が途絶えた時を見計らって、話し掛けた。「当分の間、ハイラムが仕掛けてくることはないだろう」
オフィリアは莚の上にひざを抱えて座り、ほっとした表情を浮かべた。「あの男、ラクールの市兵を動かしているけど、実はソロスの私兵なのよ」
「もう言ってくれてもいいだろう。ソロス家とはどのような関係なのだ」当代の家長であるソロモン・ソロスは上級栽培官であり、市長に次ぐ地位にあると聞いていた。
「父よ」
予想した答えに、ナスカはうなずく。
「上級栽培官の娘が、なぜ兵に追われる? なぜラクールを出ようと思った。喧嘩でもしたか?」
オフィリアの思いつめた表情から、そのような簡単な事情ではないことはわかる。
「おねがい、私を逃がして!」
その懇願に何か言葉を返そうとしたとき、ナスカはその視線に気づいた。
雑踏の中から、こちらを視つめる者がいる。
白い長衣をまとった女。
それは大勢の人々の中で、とりわけ目立つ存在ではなかった。しかし、“王の目”にはわかった。
真紅の女。
その女の装飾には、赤は一点も使われていない。しかも、ちらりとのぞいている女の肌は抜けるように白かった。
だがそれにもかかわらず、その女を見たときナスカの脳裏に浮かんだのは、見たこともないラクリヤの真っ赤な花だった。
ラクールの女市長ルクレツィアか?
なるほどハイラムなどとは格がちがう。とうていごまかせる相手ではない、とナスカは思った。
女は、ゆっくりとこちらに向かって歩を進めてくる。
オフィリアも気づいたようだ。おびえた目をそちらに向けている。
「ネヴァ・モア!」
近づいてくる女から目を離さず、ナスカは大鴉を呼んだ。
クァ―
呼びかけに答えて、ネヴァ・モアが舞い降りる。
鴉がとまっていた木の影が、ナスカとオフィリアの上に静かに伸びてきた。
オフィリアが悲鳴を上げた。
女の手が間近に迫りまさに届こうとした瞬間、ふたりの体は影の中に沈んでいった。闇があたりを覆い、女の爪が空を切った。
冷たい水の中に飛び込んだときのように、ナスカは必死でもがきながら闇の羨道を抜け、光りに向かって腕を掻いた。
左手はオフィリアの手をしっかりと掴んでいる。
無限のようにも感じ、また一瞬のことだったか、とも思える時ののちに、ふたりはうす明りの中に踊り出た。
「ここは、どこだろう?」
ネヴァ・モアが「カァ」と応じた。
ラクリヤのにおいがいっそうきつく、鬱蒼と聳え立つ木々の間から光りが漏れていた。
影から影へと闇を伝うネヴァ・モアの能力には、これまでにもいくどか助けられてきた。
しかし、闇が知性を授け、光りが能力を授けるこの力には、裏の面もある。
昼間は鳥類の本能のみに任せて影の中を彷徨うため、どこに行き着くのかを制御できないのだ。逃げた先でより深刻な危機に見舞われたことも、また一度や二度ではない。
「ここは、山頂を取り巻くラクリヤの森よ」
オフィリアが低くくぐもった声で答えた。
「これが、あのラクリヤなのか?」
ナスカは、驚きとともに梢を見上げた。
あの葉球が育ったものとは思えないほど高く伸びた幹が、彼らを見下ろしている。
葉球がたてに伸び、複数絡み合って葉幹を形作っているのだ。
ラクリヤ樹の間を割って、ラクール市の主峰エレドニアの山頂が見えた。
そこには栽培官たちが住まう市庁舎や、作物の種蒔き時期を知るための天文観測所、神託を授かる神殿が立ち並んでいる。
そのなかでも、ひときわ目立つ巨大な白い大理石の建物があった。
「ラクリヤの聖殿よ」聖花のための神事を司るの。オフィリアがぽつりと言った。「人の一生と同じくらい長い歳月の間に一度か二度、ラクリヤは花をつける。真紅の花弁をもつ聖なる花を」
その花が開いた年に生まれた子どもは、聖なる花の息子、娘と呼ばれるの。
オフィリアは、寝台に腰掛けて足をぶらぶらさせながら、そう言った。
ラクリヤの森から商館の部屋へ帰りついたときには、すでに夜のとばりが降りていた。
あの女の視線は、どこかに消えている。
あの女に狙われる限り、安全な場所はこのラクールにはない、とナスカは思った。
「市長も聖なる花の娘だったのよ」
「ルクレツィアも……か」
「聖なる花の子たちは、次の市長の候補として育てられるの」
「オフィリアも聖なる花の娘なのだな?」
ナスカの問いに、娘は答えようとしなかった。
顔の煤は落としているものの、そのしぐさは無邪気な男の子ようだ。
この無垢に見える娘にもまた、希代の力を持つといわれるラクール市長ルクレツィアと同じ能力が開花するのだろうか。
ナスカがなにか言いかけたとき、ノックの音が聞こえた。
扉が開くと、帝国の僧服のようなレンガ色のゆったりとした長衣に見を包んだ、背の高い男が立っていた。
わし鼻とあごの下に白髪混じりの髭を蓄え、老境に差しかかる年代に見えるが、背筋をぴんと伸ばして威厳を保っている。
男の背後に控えていたハイラムとその配下が、部屋になだれ込んできた。「オフィリア様!」
娘は息を呑むと、男とナスカを交互に見つめる。“王の目”は視線をそらせて、一同を招じ入れた。
「裏切ったのね!」
細い拳がナスカの頬に突き刺さり、にぶい音を立てた。ナスカは口の中を切り、血の味を含んだ。
「嘘つき!」
「悪いな。強い者に逆らう気はないんだ」
オフィリアは涙をたたえた眼で、ナスカを睨みつける。
ハイラムがナスカの前に立ち、何かを言いかけるのを男が制した。
「やめなさい」他人に命ずる事に慣れた、張りのある声だった。「その方と話がある。はずしてくれるかね」
ハイラムはうなずき、配下の兵がオフィリアの肩に手を掛けた。
娘は一瞬逆らおうとしたが、無駄を悟ったか大人しく後について部屋を出た。
ふたりきりになると、栽培官ソロスは口を開いた。
「このまま立って話をするかね」
ナスカは一脚しかない椅子を彼に譲り、自分は寝台に掛けた。
「娘を見つけてもらって、感謝する」
ナスカは肩をすくめた。「細かな事情は聞かないことにしよう」
「なにか礼をしたいのだが……」
「娘は親の庇護のもとに育つのが一番だ。ただ、もしも」ナスカは媚びるような笑みを浮かべた。「あんたが借りを負ったままでいるのが嫌だと言うのならば、ラクリヤの栽培法を教えてもらいたい」
ソロスは驚いた顔をした。
「呆れた申し出だな。いっそこの部屋一杯の黄金を所望されたほうがまだしも現実的だ」首を振りながら、「ラクール最大の秘事を、上級栽培官の私が他国の人間に教えると思うかね?」
「わかっている」ナスカは答えた。「これからおれが言う事に、うなずいてくれればいい。
ラクリヤは食肉樹だな? 肥料は生贄の動物の血肉から作ったものだ」
無表情を保とうとするソロスの顔に浮かんだ、一瞬のゆがみを“王の目”は見逃さなかった。
「充分だ。知りたいことは知った」
何か言いたそうにする老栽培官を、ナスカはにべもなく追い返した。
扉の外で立ち聞きしていたロアを招じ入れ、ナスカは言った。
「明朝引き上げるぞ。目的は達した」
ロアは返事をしない。
「どうした? なにか支障があるのか」
「彼女は?」
「親の元に戻った」
「ここを出たがっていた。連れて行くと約束したのに」普段は無表情な亜人類の顔に、悲しげな陰が宿る。「約を違えるのはいけないことだ」
ナスカは、やや後ろめたそうに言う。「上級栽培官の懐に飛び込むには、あの娘をえさにするしかなかった。
それにソロスだけならまだしも、あの真紅の魔女には勝てない。オフィリア・ソロスのことはもう忘れろ」
「……」ネヴァ・モアはなにも言わず、たたずんでいる。
これ以上議論はなしだ。そう言うとナスカは、荷造りにかかる。
オフィリアが最後に見せた涙を忘れるかのように、酒の力を借りて眠りについた部屋の中へ、夜気に混じって花の香りが忍び込んで来ることに“王の目”は気づかなかった。
5 聖殿
目が覚めたとき、ナスカは四肢を投げ出すように地面の上に倒れていた。はるか高く、まぶしい天井が目に入る。
ゆっくりと体を起こすと、あたりを見回す。
暑い。
天井が高く広い室内は瘴気、いやラクリヤの濃い香りで、埋め尽くされている。
―目覚めたかな。“王の目”よ。
女の声が、頭の中に直接語りかけてきた。
「心話術か。市長殿だな」何度も感じた視線の主。
真紅の女が今、語りかけてくるのを、旧友の言葉のように聞いているのが不思議だった。
ここはどこだ?
広々としたホールの中。
明るく暖かいために、室内の水分が残らず蒸気になったかのように、じめじめと不快な感覚だ。
天井に硝子が張ってある巨大な建物は、帝国の主神殿ほどではないが辺境では見たことのない規模だった。
思い当たる建物はひとつだけ。ラクールの聖殿。その中にいるのだ。
湿気以外にもナスカの神経をさいなむ不快な感覚の元が、部屋の中央にあった。
ラクリヤの葉球。
最初遠近感がわからなかったため、それが並外れて巨大なことに気づかなかった。
見上げるように高く成長したラクリヤの最終形態。葉球、葉幹と同様その葉の先端から、甘い香りが漂ってくる。
ラクリヤは温室の中、霧のように精素を作り出している。
ナスカは甘い香りに誘われ、葉球に向かって一歩踏み出した。その途端ぬかるみに足を取られて転倒する。
ラクリヤに近づくにつれ、地面がぬかるんだ泥状になっていた。
まるで粘土のようだ。ナスカはそのにおいを嗅ぐ。
まちがいない。ラクール市民に給付される肥料は、この土を固めたものだ。
この巨大なラクリヤが、この市域すべてのラクリヤの母株なのだろう。
―王の目よ。冥土への土産に、ラクリヤの秘事を教えてやろう。
「待ってくれ」ナスカは思わず懇願口調になる。「ラクリヤの栽培法を探っているとしても、帝国はラクール市に対して何ら侵略的意図をもってはいない。ラクリヤは、帝国領内の山岳部への入植に使いたいのだ」
―信じているのか、そのような話を。
帝国の科学士は、ラクリヤの葉から麻薬成分を抽出した。帝国はこの麻薬を新たなる支配の道具とするつもりなのだ。
そしてその刃がラクールへも向けられるのは、間違いのないことだ。
ナスカは、オルクウムのミイラの顔を思い浮かべた。あの老獪な狐ならば、自分の配下すらも欺くだろう。
そのとき、“王の目”はラクリヤの香りと異なる、異臭に気づいた。
ラクリヤの表面に、黒いしみのような陰がある。
「ソロス!」
―秘事を洩らしてしまった者は、裁かれねばならぬ。
老栽培官の体は、粘着質の半透明な液体に包まれて、葉の表面で 溶けかけていた。
とろりとした肉汁が地面に滴り落ちて、根から吸収される。
我が子どもたちよ。
突如として、植物の思考がナスカの心に飛び込んでくる。
そう。
母なる巨大なラクリヤ株は、ある種の鳥類がそうするように、半ば消化したえさを吐き戻して与えるかのごとく、人の手を介して肥料とした食事を、子株に与えるのだ。
お前に安らぎをあたえてやろう。さあ、おいで。
ナスカは手招きするような声に誘われて、ふらふらと足を踏み出す。
一歩、また一歩。
ラクリヤに支配された意識の中に、つかの間白い光がともる。
幾多の危険をくぐり抜けてきた経験がもたらす反射動作で、ナスカはナイフを自分の腿につき立てた。
血が流れ、激痛が正気を呼び戻した。
額から汗がしたたり落ちる。ナスカは、ゆっくりと後ずさった。
首を巡らせて扉を探すと、それは背後にあった。しかし押しても引いてもびくともしない。
体をぶつけても、空しくはじかれるだけだ。
水はいったいどこから入ってくるのだろう?
ラクリヤをはさんで反対側に、醜悪なキメラの像がある。水はその口から吐き出されていた。
ナスカは、ゆっくりと時間をかけてそこまで歩いた。集中力が途切れると、花に意識を支配されてしまう。
像の近くまで行くと、注意深く全体を調べる。
“王の目”はラクールの祖たる魔法士である、ルールド一派の建築様式を思い出していた。
異端の儀式を執り行うことが多かった彼らは、その神殿に秘密の脱出路を常に用意していたはずだ。
ナスカがあちこち触るうち、ラピスでできた青い像の目が動いた。
それを押すと、背後の壁の一部がゆっくりと後退し、黒い穴がぽっかりと開いた。
煉獄に通じるかのような暗い暗い穴の中へ、ナスカはためらわずに飛び込んだ。
その日の朝、ロアは六つ足をいつでも動かせるように準備していたが、肝心のナスカがいつまで経っても起きてこない。
心配になって部屋に入ると、主人の姿が消えていた。
昼の間はネヴァ・モアも頼りにならない。仕方なく、部屋で主人の帰りを待つことにした。
待つ時間は苦にならなかった。亜人類として生を受けた自分の一生は、いつも誰かの決断に身をゆだねる隷属の時間の連続であり、誰かの命令を待つ時間ばかりだった。
ロアはこの天上都市で出会った娘を思った。
あの娘も自分と同じだ。何かに隷属し、しかしそれに対して果敢に立ち向かおうとしている。なんとか助けてやれればいいのだが。
夕闇が迫るころになり、今日はもう主人が帰ってくることはないのか、と諦めかけたころ扉が乱暴に開いて、泥まみれになったナスカが飛び込んできた。
ロアはなにが起きたのか尋ねず、黙々と足の傷を手当した。
「すぐにもずらかろう。天界への桟道の入り口で、ネヴァ・モアとともに待っていてくれ」
あなたはどうするのか? ロアは目で尋ねる。
「おれか?」ナスカは照れたように笑った。「忘れ物を取りに行ってから、合流する」
「きっと、そう言うだろうと思っていました」
ロアが自分の思いを率直に口にするのを聞いて、ナスカは少し驚いた顔をした。
青白い月の光りが、窓から差し込んでいる。
オフィリアはほのかな明かりに浮かび上がる庭園の風景を、二階の窓ごしに見ながら、潰えた望みを思った。
いつものくせで手を髪にやり、そこにあった艶やかな長い髪がなくなっていることに気づくと、またしてもナスカに対する怒りがこみ上げてくる。
あの日和見の商人。信じたのが間違いだった。
昼の間家の中が騒がしかったが、今は逆に静寂が支配している。上級栽培官の館では異変が起きていたが、それが何なのかわからなかった。
オフィリアは自分自身を抱きしめるかのように腕を体に回すと、身震いした。
闇の精霊が騒いでいる。ラクリヤの香がふだんとちがう。
なかば幽閉された身では、じれったく思いながらも耐えることしかできなかった。
そのとき密やかなノックの音がして、どきりとした。
食事が運ばれる時以外閉ざされているはずの扉が、そっと開く。
扉のそばに足を運ぶと、不意に手が伸びてきて口をふさがれた。
「静かに」
男が小声でそう言うと、手を放した。
オフィリアは薄明かりの中、相手の男の顔を認めると思い切り平手打ちをくらわせた。
「この大嘘つき!」
ナスカは頬をさすりながら、
「静かに、って言っただろうに」
「何しにのこのこ来たのよ」
「お姫様を助けに来たに、決まっているだろう」
「あんたなんか、二度と信じるもんか!」
「信じろ。敵を油断させておいて、実はあとから助け出すつもりだったんだ」
オフィリアはナスカの目をじっと見つめ、「嘘つき」とつぶやいた。
栽培官ソロスの館は、帝国の高官たちの邸と比べるとさすがに見劣りがするものの、この高山にどのようにして資材を運び込んだのか、と思わせるほど贅を凝らしたつくりだった。
この山上にこれほどの館を建てるには、どれほどの労力が費やされたのだろう。
しかし今、館の中には人の気がない。主を失った館は、わずかな数の忠義な使用人を除いて、四散したらしい。
「いったい、どうしたのかしら」
人気のないホールを抜けながら、オフィリアが言った。
ラクールで一、二を争う贅沢な居館といえども、灯火の制限を受けていることでは他と同じで、内部は薄暗かった。
対立しているらしいとは言え、父が見舞われた不幸を言うべきかナスカが迷っていると、離れのほうからうなり声が迫ってきた。
私兵が去った今、オフィリアを連れ出すのは簡単だろう、という甘い考えを改めなければならないと、ナスカは悟った。
「ケルベロス!」半人半獣の守護兵が、半ば本能に刷り込まれた習性に従って、侵入者を攻撃するために牙を剥いていた。
「こっちだ」ナスカはオフィリアの手を引くと、裏手に向かって駆け出した。
夜が明けるにはまだ時間がある。ネヴァ・モアの助けも当てにはできなかった。
ナスカは発光弾を番犬に投げつけた。
火を目にする事が少ない環境で生活している獣に対し、強い光は目くらましの効果があった。
薄い精素の中、ふたりは必死に走った。
裏庭を抜け、ラクリヤの森を突っ切る。疲れを知らぬ追っ手は、発火弾には一時的にひるんだものの飽きずに後を追跡してくるようだ。
いったい、どれくらい走り続けたのだろう。
いつしかふたりの前には、荒涼とした岩ばかりが広がる不毛の台地が開けていた。
月明かりも届かない山の影に、不気味な彫刻のような岩盤がその姿をさらしている。
「荒れ野だわ」
オフィリアが嫌悪をこめた声音で言った。ラクリヤが植わっていない、忌むべき生息不能域。「ここから先へは行けない」
ナスカは、彼女の声を無視して足を踏み出した。下から吹き上げる風が、ラクリヤのにおいを吹き払っている。
「ケルベロスを振り切るには、ここを進むしかない。ここを突っ切って山腹を回り込むように迂回すれば、天界への桟道にたどり着くことができる」
「正気なの? 荒れ野を渡るなんてできないわ」
「大丈夫だ。おれを信じろ」
ラクリヤのにおいに取って替わって、かすかな硫黄のにおいが鼻をつく。精素がなく、生き物の気配がしない死の高地。
オフィリアは、おそるおそる歩を進める。
ナスカが彼女の手を取り、励ました。
「心配するな。大丈夫だから」
オフィリアがあえぎ、額に汗を浮かべながら声を絞り出す。
「だめ。息ができない」
ナスカは、彼女の手を握る指に力を込めた。オフィリアの顔からは血の気が引き、力なくその場に倒れ込む。
「帝国には進んだ魔法技術がある。すぐに直してやる」ナスカはひざまずくと彼女の額に手を当て、口の中で呪文を転がした。
「ゆっくり、ゆっくりと呼吸するんだ。息を吐くことだけに集中して」
ヒュー、ヒューという荒い呼吸音とともに、オフィリアの胸が大きく上下する。ナスカは彼女の背中をさすってやる。
やがてオフィリアの顔に、少しずつ血の気がもどってきた。
「少し楽になってきた。本当に魔法を使えるの?」
彼女は硬い地面の上に横たわると、静かに目を閉じた。
「私の本当の父親は、下級栽培官でソロスの配下だったの」
「養女だったのか」
「聖なる花の子は、次期市長の候補となるべく特殊な教育を受ける。ソロスは次の市長候補を、自分の親族で抑えておきたかったのよ。
父は罠にはまって無実の罪に落とされたの。
私が養女になれば、罪を赦される約束だったわ。でもソロスはそれを破って、父を花刑法定に処した」
「あの日……」
初めてオフィリアを花の谷で見た日。彼女は本当の父親が処刑される瞬間を目の当たりにしたのだ。
「だから決めたのよ。この市を出て行こうと」
そのソロスも、今やラクリヤの生贄となった。
「母親は?」
「母のことは知らない。
物心ついたときには、もういなかった。父も母のことはなにも言わなかったので、いつしか訊いてはいけないことだと思うようになっていたの」
あたりを乳白色の光が包みつつある。
山の陰から垣間見える雲海の下が赤く染まり、橙色に縁取られていく。いつのまにか夜が明けつつあった。
その時、ナスカは朝焼けの光を背景に、誰かが立っていることに気づいた。
真紅の花を思わせる女。「ルクレツィア殿!」
ラクール市長にして、当代最高の魔法士。
ルクレツィアは白い長衣に身を包んで、化石のように身じろぎもせずそこに佇んでいる。
ナスカは彼女のことを高齢だと思い込んでいたが、今間近に見る女市長は、老いているようには見えなかった。
「聖花を汚したものを、黙って見逃すわけにはいかぬ」
ナスカの視界を、突然紅い闇が襲った。
肺腑を黒い手につかまれ、その場に昏倒する。目がかすみ、どちらが上なのかもわからない。
「……」
肺の中の空気が失われ、声が出せない。“王の目”は必死で言葉をたぐり寄せた。
「ま、待ってくれ。帝国はもはやラクリヤを望まぬ。あなたもその理由を知っていよう」地をはいずりながら、必死で懇願する。「おれをこの場で殺しても、帝国は次の密偵を送ってくるぞ」
声に応じて、つかの間攻撃の手が緩む。
ナスカは四つんばいになり、あえいだ。精素が肺に満ちて、少しだけ楽になる。
「この荒れ野に単身出向いて来たということは、あなたも知っているのだな。ラクリヤの秘密」
ルクレツィアは、眉ひとつ動かさない。
ナスカは、あの聖殿の中でラクリヤに意識を支配されかけたとき、花の考えに似たものが、奔流となって頭の中に入り込んでくるのを感じた。
すべては、ペテンだったのだ。
擬態。
捕食のため自分を別のものに似せるのが擬態ならば、ラクリヤのそれは究極の擬態だった。
ラクリヤは、自分が振りまく香りの成分中に、動物の精神を支配する麻薬成分を紛れ込ませて、悪魔のささやきを聴かせるのだ。
―あなたには、私が必要なの。あなたが生きていくのには、私が必要なのよ。
こうして暗示を与えられ続けた動物は、ラクリヤの下僕に成り下がる。
食肉樹であるラクリヤに獲物をささげ、あげくに自分自身をも差し出すのだ。
おそらくこの高山植物は、最初のころ高地に住まうわずかな動物を欺いて、細々と暮らしていたのだろう。
そこへ彼女にとって幸運なことに、帝国を追われた魔法士の一団が移住してきた。
彼女にとって、格好の獲物たち。
ラクール市を作った人々の祖は、花に欺かれていることに自ら合理的解釈を与えることにより、心の安定を得た。
つまり高山の希薄な精素を補完するために、この植物が必要なのだ、と。
人間は適応性に富む生き物だ。
高山の精素が薄い環境に慣れていった人々は、それをラクリヤのおかげだと思い、神格化を深めていった。
まさに花の思うつぼだ。
この危険な植物を、帝国に持ち込むことはできない。
「ラクリヤのからくりを知ってなお、あなたはこの植物を護って生贄を捧げていくのか?」
その言葉を聞いたルクレツィアは、かっと目を見開いた。
「おまえに何がわかる。
聖花はもはやラクールの統治原理なのだ。苛酷な環境に立ち向かわなければならない市民にとって、その心をひとつにまとめる拠り所が必要なのだ」
それもまた、ひとつの選択肢なのかもしれない。ナスカはうなずいた。「おれが帝国の上層部を説得しよう。ラクリヤに手を出さぬように、と。それが帝国の利益でもある」
ルクレツィアはしばし考え込んでいたが、
「よかろう。おまえを解放してやろう。しかし娘はおいてゆけ」オフィリアを見詰めた。「花の娘だ。私の後継者たる候補なのだ」
「ナスカ!」オフィリアが不安気に見つめる。またしても裏切られるのか、という悲しげな視線で。
「だめだ!」
オフィリアが今にも泣き出しそうな顔で、ナスカを見る。
「おれの話だけでは信用されない。この娘の証言が必要だ」
ナスカは賭けに出ていた。
苛烈な女市長の貌と、清楚な花の娘の貌。抜けるような白い肌の色、意志の強い瞳、引き締まったあごの線。
“王の目” は、このふたりに共通するものを見ていた。勝ち目のある賭けだと思った。
「帝国での安全は、このおれが保証しよう。
いや、彼女は必ずしあわせにする。それがあなたの真の望みでもあるはずだ」
果断に富んだ女魔法士の目に、初めて迷いの表情が浮かんだ。
一瞬だがナスカは、非情な女市長の瞳の中に母の慈愛を見た気がした。
「行くがいい」その声音には、諦念のようなものすら感じられた。「私の気が変わらぬうちに、その娘を連れて」
ナスカはオフィリアの手をとると、荒れ野の中に向かって歩き出した。オフィリアが首を傾げる。
「どうして、ラクリヤがなくても平気なのかしら?」
「言っただろう。おれは魔法使いだと」
不意に娘が顔を向け、じっと彼の目を見つめながら尋ねた。「あなたが、私をしあわせにするの?」
その言葉の意味するところを悟って、ナスカはわけもなく慌てた。「いや、まあ帝国での後見を引き受ける、といった程度の意味だ」
ふーん。とうなずいたのち、「嘘つき」
また殴られるか、と身を引いたナスカの口を甘い唇がふさいだ。
“王の目”は天上都市ラクールに赴き、聖花伝説のもうひとつの結末を持ち帰った。その結末によれば、
「リーアは、末永くしあわせに暮らしました」となるのだった。
(了)
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