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【ファンタジー小説】天上の花(前編)

(拙作「聖花」の短編版です)

      1 天界への道

“王の目”ナスカ・ホーソンが天上都市ラクールを目指して帝都を発ったのは、雪融月も中ごろのこと。
 今はもう収穫月が迫っており、冬の女王の息吹がひそやかに聞こえ始めている。
 今季最後のこの機会をのがせば、ラクール市へ到達する機会はまた一年遠のく事になってしまうだろう。

 交易市は帝国の西の端に位置し、目指すラクール市はここからさらに山岳地帯に分け入った、交易路のはずれにある。
 交易市は辺境から帝都へ運ばれる香辛料、薬草、貴鉱石、逆に帝都から辺境に運ばれる宝飾品や織物、海産物、塩、精密機械など、雑多な品々と雑多な人々でにぎわっていた。
 ナスカはここで、荷駄を運ぶための六つ足を三頭仕立て、案内人として亜人類をひとり雇った。    
 
相場の二割増しの値段で、ロアと言う名の亜人類をナスカに売りつけた仲介人は、“高地適応型”なので山岳地帯の案内人としてお買い得だと言った。「その格好で、ラクールまで行くつもりかね?」
 仲介人は、ナスカの着ている交ぜ織りの短衣とサンダル、肩に止まった大鴉を見て嘲笑った。「今はまだ暖季とはいえ、山の夜の冷え込みを知らんと見える」

 ここまでの旅路で貫禄を出すために髭を蓄えてはみたのだが、ナスカの所作にはまだ歳相応の未熟さがあり、世慣れた交易商人から見れば揶揄の対象らしい。
 さてどう言い返したものかと思案するうち、ナスカの肩であたりを睥睨していた大鴉が、市場の路上を走るネズミを見つけて不意に飛び立った。「ネヴァ・モア、余計な騒ぎを起こすんじゃないぞ!」

 鴉はナスカの声を無視して、ネズミを追って雑踏の中に消えていった。
 相場より高い金額で雇われたロアは、亜人類特有の禿頭に紺色の布を巻きつけ、市場で買い付けた交易品を要領良く振り分けて六つ足の甲に載せた背嚢に納めていく。
 一見ゆったりとした動作だが不思議と作業ははかどり、予定よりも早く準備が整った。なるほどお買い得だったな、とナスカは思う。
 これからの一、二ヶ月ほどが、天界への道が開かれるわずかな期間であり、ナスカは交易商人としてラクール市へ赴くつもりなのだ。
 
 ナスカは似合わぬ髭を落とし、鹿皮の長衣と皮靴をそろえて旅支度の締め括りとした。
「あたしには見えるよ。不吉な影をまとっているね」
 街路樹の下で、けばけばしい装飾をした占いの看板を立てた女が、ナスカを呼び止めた。「太古の精霊たちが騒いでいる。真紅の魔女に気をおつけ」
 
 商売がよほど繁盛しているのか、でっぷりと肥満した占い師に小銭を与え、ナスカはその場を足早に立ち去ろうとした。
「もっと払ってくれたら、災厄を避ける方法を教えてやれるがね」
 女は二重になったあごを震わせ、キラキラと光る指輪を幾重にもはめた指で手招きし、気を引くようにだみ声を上げる。
 その時、空から黒い影が舞い降りて、くわえてきたネズミを占い師に向けて放った。

 占い師は仰天し、肥満したその体が椅子からずり落ちた。
「ネヴァ・モア!」なめらかな光沢をもつ、漆黒の羽毛におおわれた鳥に向かってナスカが叫ぶ。
「なんと不吉な黒い鳥! 魔女の餌食になっておしまい」
“王の目”と鴉は、背中に罵声を浴びながらその場を退散した。
「馬鹿めが。本当におそろしいのは……」
 占い師が放った最後の声は、喧騒にかき消されてナスカに届かなかった。

 

 ナスカたちは交易市を出てから、ラクール市を目指して一路山道に歩を進めた。
 過ぎていく山並みは峻険だったが、初めのうちは石が敷き詰められてなだらかに舗装され、うわさほどの難路とは思えなかった。幸い好天にも恵まれ、にわか商人は順調に距離を稼ぐことができた。

 荷駄を載せた六つ足の歩みは着実だった。
 この巨大な甲殻類は、同じように高山地域で荷駄の運搬に使われるヤクやラバ、アルパカなどに比べれば知能はないに等しいが、自然に列を成す習性があり、そのため操作が容易でナスカとロアだけで、多くの荷駄を運ぶことができる。 

 六つ足による荷駄の輸送は安価につくため、しばしば交易に利用されたが、その乗り心地は快適とは言いかねた。
 黒光りする外殻は、近くで見ると剛毛で毛羽立っている。
 外殻に据えられた鞍の乗り心地は、辺境のさまざまな乗り物を知っているナスカでさえ顔をしかめるものだった。

 六つ足独特のリズムに揺られるうち、ナスカは船酔いのような気分になってきていた。
 そのため、自分が高地酔いにかかっているのに気づくのが遅れた。
 大気がうすく、精素が少ない山岳地帯を行くうち体に変調をきたしていたのだ。

 ナスカは腰に下げた皮袋から水筒を手に取り、水を口に含む。
 谷間を流れる清流の澄んだ水だったが、飲み込むときにずきんと頭が鳴った。
 ネヴァ・モアも自らは一向に飛ぼうとせず、ナスカの肩で揺られるに任せている。
「飛び方を忘れたんじゃないのか?」
 軽口に鳴き返す余裕もなく、時折カァカァとあえいでいる。

 絶え間ない頭痛をごまかすため、ナスカは皮袋の中から楓仙果の実をひとつぶ取り出し、口に放り込んだ。
 別名を「水の種」というこの褐色の実は、噛みつぶすと果肉が溶けて滋養に富んだ水分を口の中に吐き出す。
 ロアに効用を教えられたのだが、彼ら山の民は疲労回復の薬としてこの果実を用いると言う。確かに一瞬だが、ナスカは疲れが和らぎ頭の痛みもましになるように感じた。

 案内人のロアは、六つ足の隊列の横を樫の枝で作った杖を突きながら、一定の歩調で黙々と歩いている。
 山岳民族特有のゆったりとした長衣の縁取りされた赤と緑の線が、一定のリズムで狂いなく揺れている。
 その禿げ上がった頭の下の表情に乏しい顔つきからは感情の起伏がうかがえないが、この山道を苦にしてはいないようだ。頑として六つ足の背に乗るのを拒み、地に足をつけて山々と会話するごとくに道を歩く。

 彼ら高地部族は放牧をしながら山から山へ渡り歩くので、山岳の地理に詳しかった。
 しかしナスカが目指すラクール市は、彼ら高地適応種でさえも足を踏み入れることが滅多にない未踏の地域であり、それこそ彼の地が天上都市と言われる所以でもあるのだ。

「ネヴァ・モア。先が見えるか?」
 ナスカの肩に止まっていた大鴉は、その声に答えてひと声鳴き声を上げた。
 ネヴァ・モアの黒い瞳に、まるで門のようにそびえる二峰が映る。

黒の山脈―
白の山脈―

 そしてその間を抜けて、石畳の細い通路が伸びている。
 道の両脇には赤茶けた不毛の台地が連なり、わずかばかりの下生えが固い地面を覆っていた。
 黒々とした溶岩台地には乳白色の霧が立ち込め、視界をさえぎっている。 
 ナスカは不意に、これがただの霧ではないことに気づく。自分たちは今、下から見上げた時の雲の中にいるのだ。

 交易市を出てから月満ちること一度、道程の半ばを過ぎたころから径は細く険しくなり、薄くなる精素に代わって、紛らわすことのできない特異な香りがあたりに満ちるようになった。
 条件反射が主たる行動原理である六つ足を操作するための、甘い蜜の香り、溶岩台地のどこからか吹き上がる硫黄のつんとした香り、それらに混じってなお、劣らないほど強烈な印象がある独特の香り。

 天上都市ラクールの聖なる植物、ラクリヤの香りだ。

 それは山道に沿ってぽつりぽつりと散見するようになった、緑の球体から漂ってくる。
 その特異なにおいは、ナスカがこれまでに知るいかなるにおいとも似てなくて、形容のしようがないほど甘く、心の奥がざわざわと波立つのを感じる。
 その甘さは年降りた悪女の香水のように、本能的に危険な予感を誘うものだ。ナスカは高地酔いの頭痛の中で、こみ上げてくる吐き気と闘った。

まさにここは、地上の世界と天界の境目なのだ。

 丸い緑色の球は、時至れば血のように赤い真紅の花を咲かすといわれる。
 ナスカは六つ足の鞍上に揺られながら、見たこともないその花の幻を視た。
 聖なる花の幻影。そして花を抱くひとりの女。
 燃えるような瞳には、不退転の強い意志。どこからともなく彼を見つめる強烈な視線に射すくめられて、“王の目”は思わず首をすくめた。

 幻ではない。誰かの視線を、確かに感じた。
 冷たくなっていく夜気の中で、ナスカは汗をかいていた。

 交易路の要所には宿所が設けられていたが、ナスカとロアは天幕を張って寝泊りするのを好んだ。
 六つ足を近くの木につなぎとめ、黒糖蜜を与える。
 いかつい甲殻類は、意外に細く繊細な管を伸ばして、甘い液を吸い始めた。

 大気が薄く水が低い温度で沸騰するため、湯を得るためには専用の器に密栓をして、圧力を掛けながら火を通す必要がある。
 ナスカはそのようなことすら知らず、手際のよいロアの夕食の支度をただ眺めるだけだった。
 干し肉、レンバスのパンと赤葡萄酒の夕食に暖めたスープが加わるだけで、前途の困難をつかの間忘れられる夕食になった。ナスカはこの無口な案内人を得られて、本当によかったと思った。 

 澄んだ空には、帝都で見るよりはるかに多くの星が浮かんでいる。
 星が近い。
 天上都市ラクールに近づいた証しだった。

 

「これしか道はないのか?」
 ナスカは、先導するロアに苛立ちを込めた声を投げかけた。
「はい。ラクール市に至る道は、これしかありません」

 目の前に立ちはだかっているのは、延々と続くかにみえる尾根道である。
 両側は谷間に切れ込んだ断崖で、もし落下しようものなら大怪我は免れないような深い谷が展開している。細い道は場所によっては、六つ足一頭がかろうじて通れるだけの幅しかないように見えた。

 黒死鳥が空を舞っている。獲物が落下するのを今か今かと待つかのように。
「この尾根は、天界への桟道とも呼ばれます。ラクールへの最後の難関で、ここを越えればすぐにも市門が見えます。
 もし一日でここを踏破できず、前後の見境の付かない夜になってしまえば、旅人は奈落の底に落ちてしまいます」

 急ぎましょう― 
 ロアにうながされ、ナスカは六つ足の歩を進めた。三頭を綱で数珠つなぎにし、万一足を踏み外してもほかの二頭がささえられるようにする。
 これまで徒歩を守ってきたロアが、最後尾の一頭を操作した。  

 風が強く、吹き飛ばされそうになる。
 下から舞う雨混じりの強風が鞍を揺らし、ナスカは吹き飛ばされないよう必死でしがみつかねばならなかった。
 ネヴァ・モアは、早々にナスカの外套の中に逃げ込んでいる。

 強い風と下から吹き上げる雨のせいで、最初は歩が進まなかったが、昼前になってうそのように風が止んだ。
 開けた視界の中で最初に目に入ったのは、同じように向こうからやってくる六つ足の群れだった。その数は六頭、こちらより多い。
 蟻の群れのような甲殻類は黙々と近づいてきて、やがて先頭の六つ足に乗る男の姿が見えるようになった。

 行き交う余地もない、もっとも狭い場所である。
 相手の交易商らしき男は、屈強な体格で数人の亜人類を従えていた。ラクールを主な交易相手とする、数少ない商人なのかもしれない。

「退がってくれ!」男は当然のような口調で、ナスカに要求した。「数が少ないほうが譲るのが、この道の原則だ」
 ナスカもひるんではいない。ここで後退しては、今日中に尾根道を踏破できるかわからないのだ。

「そのような規則は初めて聞いたな。下る側が譲るのが山道の常だと思っていたが」
 相手はむっ、とした表情を浮かべた。
「見たところ新参者のようだな。古参の意見には従うものだ」
「古参ならば、道理をわきまえていようものを」

 男は慎重に六つ足から降り立った。ナスカもおもむろに男の前に立つ。
「互いに己が正義を述べ立てても、無駄に時間が過ぎ行くのみだ。ここは山の神に互いの正否を問おうではないか」

 男はふたつの小石をナスカの前にかざすと、意外な提案を口にした。
「ここに白と黒の石がひとつずつある。これを……」懐から小さな皮袋を取り出す。「この空の皮袋に入れる。この中からそちらがひとつ取り出し、選んだのが黒石だったらそちらが、白石だったら私が退くことにしよう」

“王の目”は男の意図を見逃さなかった。
 単純な詐術である。
 男がかざした白石は、ただの石ではない。一見したところ石のようだが、この地方でごくまれに見つかる「鉱虫」だ。   

 鉱虫は不思議な生物で、鉱物と昆虫の中間に分類され、普段は石に擬態している。昆虫を捕食するため、石灰岩の多い白の山脈では白い色となって周りに溶け込み、獲物が側を無防備に通るのを待つ。
 この擬態に長けた生物は、日が翳り周りが暗くなると短い時間のうちに黒っぽい色に変化する。
 ナスカは帝国の博物館で標本を見たことがあった。

 皮袋の中では光がさえぎられ、鉱虫はすぐに黒くなるはずだ。今袋の中には、黒石が二個あることになる。

 ナスカは相手の不正をあげつらうことなく、皮袋に手を差し入れて一個を選び取るや、あやまった振りをしてその石を落とした。
 石は尾根道をおおう小石に紛れ、どれだかわからなくなった。

「おれとしたことが……。
 しかし幸い皮袋にはもうひとつの石が残っている。残った石が黒ならばこちらが選んだのは白、残った石が白ならば、こちらが選んだのは黒ということがわかるだろう」

 男の手から、皮袋をうばいとるように引ったくると、「どうやら山の神のご加護を得たのは、このおれのようだな」
 黒石のように見える鉱虫を、相手の目の前にかざした。

 男は呆気にとられたような顔をしていたが、自分の企みが裏目に出たことを悟ったようだ。しぶしぶながら、
「わかった。この上に互いが行き違うことのできる、やや広い場所がある。そこまで退がろう」と言った。

 この狭い道を、六つ足を操って後退させる自信がなかったため、ナスカはほっとした。そこに油断が生まれた。
 男は六つ足に乗るや不意に歩を進めると、甲殻類の頭をナスカの乗る六つ足の下に差し入れ、崖のほうに押しやった。
「何を……」
 最後は言葉にならなかった。

 相手の勢いに押されて、ナスカの乗る六つ足が崖から足を踏み外した。
 最後尾の六つ足に乗るロアが、めずらしく怒声をあげる。男はナスカの三頭を、次々と突き落とした。 

 混乱の中でナスカが耳にしたのは、ネヴァ・モアが外套の中から飛び立つ羽音とロアの叫び声である。
 ナスカは振り落とされないように、鞍にしがみつくのが精一杯だった。

 ロアが自分の六つ足の体勢を立て直し、必死で踏ん張らせる。
 湿った断崖の斜面をすべり落ちるのを止める事はできなかったが、それでも数珠つなぎとなった一団が、落下する速度を抑えるのに成功した。
 ナスカがほっとしたのもつかの間、彼の六つ足をつなぎとめる綱が岩の角にあたり、呆気なく切れた。

 ナスカの六つ足は、回転しながら勢いを増して斜面を下り始めた。
 ―無理だ、やめろ。
 思わず叫びそうになる。
 斜面を滑り落ちる六つ足が、その本能から退化した後翅を広げる動作を始めていたからだ。そのため、甲に取り付けてあった鞍が跳ね上げられそうになる。

 絶望的な気分になりかけたとき、風を切る音を聞いて不意に体が宙に浮いた。
 突き出ていた大岩に乗り上げた六つ足が、勢いのまま空に舞ったのだ。ナスカは鞍から放り出された。

 

 落下の衝撃から立ち直ってあたりを見回す余裕が出るまで、しばらく時間が掛かった。
 幸いにも下生えの濃い場所に投げ出されたため、致命傷をこうむるのを免れたようだ。

 谷間には深い霧がよどみ、伸ばした手の指先も見えないありさま。
 斜面をうまく滑り落ちたおかげで、甲殻に守られた六つ足も無事なようだ。
 落下する途中で、つないでいた綱が切れたが、他の二頭も近くにいるはずだった。

 あたり一面に、背嚢から飛び出した交易品である宝飾品、香料、干し魚、貝殻などが散らばっている。
 六つ足は触覚をしきりに動かして、まるで帝都の蒸気機械のようにシューシューと声を上げていた。あたかも退化した後翅を震わせ、飛び立とうとしているかのようだ。

 右ひじに血がにじんでいた。投げ出された時に打ち付けたらしい。
 ナスカは、止血効果のある癒創草をほぐして傷口にすりこみ、売り物の高価な織物を切り裂いて血止めをした。
 体のあちこちが痛んだが、幸い骨は大丈夫なようだ。

 人間とは強欲なものだな。ナスカは思った。
 落下の最中は、命さえ助かればほかに何もいらないと思った。どのような過酷な試練をもいとわないと。
 それが今は、散乱した荷物を拾い集める手間をうとましく感じている。

 それにしても……、あたりを見回す。
 ラクリヤのにおいが濃い。まるでこの谷いっぱいに、ラクリヤの香が溜まっているようだ。

 消え行く蝋燭のほむらのように赤い陽が谷間をよぎり、一瞬霧が割れて風景が顔をのぞかせた。
 それを見たナスカは、息を呑んだ。

 溶岩が冷えてできた谷間。褐色の硬い地面のそこここに、緑色の球体が散らばっている。
 葉が何枚も折り重なるようにして丸い球体を形作り、まるで緑色の人頭があちこちに埋められているようだ。
 ラクリヤは一枚一枚が鋭い剣のような葉が丸まって、植物全体が球のように見えるのだ。

 どうやら、ラクリヤの谷に迷い込んだようだな。ナスカはひとりごちた。
 若くみずみずしい独特のにおいが、谷間を埋め尽くしている。
 まるで手招きするかのような香りに誘われ、ナスカは葉球のひとつに近づいていく。
 よく見るとラクリヤの葉球は、人の頭ほどのものから、両手を広げた巾くらいのものまで、千差万別だった。

 近寄るな!
 頭の芯から警告の声が聞こえる。
 しかしナスカは、魅入られるかのように近づくのを止める事ができないでいる。
 近くで見るとその葉の先端には細かなトゲがあり、粘液が伝っている。それはまるで舌なめずりする獣の唾液のように、ねっとりと差し出した指先にからみついてくる。

 上空を舞う黒死鳥が、声をたてずに旋回を早めた。
「触れてはいけません」  
 いつの間にかかたわらに立っていたロアの声に、ナスカは我に返った。
 亜人類は額から血を流していたが、見かけほどひどい怪我ではないようだ。
「他国の人間が、聖花に触れるのは禁忌です。  
 ラクリヤは聖なる花として、この市域で厚く保護されています。この植物がなければ、人はこの高山で生きてはいけませんから」

 

      2 聖花の谷

 むかし天上都市にリーアという娘がいた。

 色づく太陽のように美しいとは言えないが、ほのかに白く輝く月のように清楚な娘だった。
 彼女は早くに両親を亡くし、たった独り小さな畑を守って暮らしていた。

 ある年の種蒔祭の日、リーアはひとりの若い旅人と出会った。
 若者は村人ではなかったが、リーアは彼こそが求める人だと気づいた。

―ぼくは君をしあわせにできないよ。
―構わないわ。あなたと一緒にいることが、私のしあわせなの。

―ぼくは君を養うことができないよ。
―構わないわ。私があなたを養ってあげる。

 天上都市の古老たちは反対したが、リーアは若者と添い遂げた。
 ふたりは小さな畑を耕し、つつましい収穫を分け合った。貧しくとも、リーアはしあわせだった。

 しかし、幸福な日々は長く続かなかった。
 若者は冬の訪れとともに弱っていき、リーアの手を握りながら静かに息を引き取った。
 まるでひと夏の命しか赦されていない花のように。

 リーアは嘆き悲しみ、その瞳からは止めどなく涙がこぼれ落ちた。 
 ほどなくして、彼女も若者のあとを追うかのように黄泉の国へ旅立った。

 次の春、リーアの涙が落ちた場所からひとつの花が咲き、それは紅い花をつけて香りを放った。

 天上都市の人々はふたりを悼み、真紅の花を大切に育てた。人々はその花をこう呼んだ。
 ラ・ク・リーア(リーアの涙)―ラクリヤ、と。

「ラクールの聖花伝説ですね」
 ナスカは、古びた灰色のレリーフに書き込まれた印刻文字を追いながら、寄宿舎の時代を思い出していた。
 幼いころに貴族としての教育を受けた彼は、文字を読むことも筆記することもできる。

 ラクール市へ旅立つ少し前、帝都アズランでのことである。
 彼の学問の師であり、“王の耳”、“王の目”、“王の口”を束ねる者でもあるサイラス・オルクウム師は、ゴボゴボと奇妙な音を立てて笑った。

 オルクウム師の部屋は、かび臭く日当たりも悪い大学の一角にあり、用途のわからない自動機械の部品や、天球儀、呪術用の装身具、時代を経た羊皮紙、何がはいっているか誰も知らない褐色の薬瓶、いまやその製法が太古の闇に包まれている、プラスチクスなどが無秩序に積み上げられている。

 <大忘却>以前の科学士が作り出したといわれるこの素材は、製法が失われたため今や溶かして変形させる以外になく、溶かすたびに不純物が混ざりこんで色褪せるために、純白のプラスチクスは同じ体積の黄金と同等の価値で取引されている。
 オルクウムの部屋には、その貴重な混じりけのない白色のプラスチクスが、床の上に無造作に放置されていた。

 当のオルクウム本人は、窓際のアルコウブの中にちんまりと収まって皓々と眼球を光らせていた。
 ナスカは腰を降ろすことのできる場所を目の端で探しながら、部屋の主のようすを観察した。

 趺座したままミイラと化したその身体の中には、数本の透明なチューブが差し込まれ、色の付いた液体や透明な気体が送り込まれている。
 乾いたその表情からはわからないが、声音から判断するとご機嫌はいいらしい。

「見てのとおりだ。そこに刻まれている聖花ラクリヤの起源説話は、現実のラクリヤの姿をよく映している。
 すなわち赤い花をつけることや、特異なにおいを持つこと。
 だが実際ラクリヤを特徴づける独特なにおいは、花芯からではなく、葉の先端から放たれることが、数少ない報告からわかっている。
 ラクール市の誕生と聖花伝説は、分かちがたく結びついている」
 
 そして世間話の気安さで付け加えた。「おまえにはラクール市に行ってもらう」
「ラクール市?」
 ナスカはこわれた自動機械の上に座りながら、反芻した。
 名のみ知るものの全くなじみのないその都市に、よもや自分が赴くことになろうとは思ってもみなかった。「彼の地に、なにか“王の目”の興味を引くものがあるとでも?」

「エレドニア山系の中央に位置するラクールは、わずかばかりの貴鉱石、薬草、岩塩などを帝国相手に商うだけの辺地だ。
 我が帝国が版図の中で飛び島のような彼の自由市の存在を許しているのは、それが征服に値しないからじゃ」
「征服に値しない辺地を探れとは、なにか脅威の芽が生まれつつあるということでしょうか」
「確かにラクールの女市長ルクレツィアは油断がならぬ。
 ルクレツィアとは、西方魔法士の女系が代々引き継ぐ名だが、当代のルクレツィアは、過去の英名をもっとも濃く受け継いでその名に恥じないと聞く」

 ナスカの肩に止まったネヴァ・モアが、会話に割り込んだ。
「邪教に染まって、帝国を放逐された一派だったな!」
「おお、黒き賢者。闇よりの使い」
 夜の闇に覚醒したネヴァ・モアは、オルクウムがこの世界で一目置く唯一の相手だった。

「そのとおり、ラクール市民の祖は中央での政争に破れ、落ち延びていったルールドの魔法士一派の裔という説がある。
 言葉も山岳民族よりむしろ帝国に近い。
 元はリンボスと呼ばれていたラクールは、長く不毛の地だった。リンボスとは現地の言葉で“黄泉の台地”という程度の意味じゃ。
 なにより大気がうすく精素が少ないため、ふつうの生物は活きていく事さえ適わない」

 ネヴァ・モアが乾いた笑い声を上げた。「不毛の地ラクール!」
 オルクウム師のミイラの指にはめられた指輪のルビーから、一条の赤い光が伸びて、部屋の隅にある鉢植えを照らした。
 そこに植わっているのは、観葉植物としては素っ気ない、幅広の葉を四方に放っているだけの植物。

「その鉢を水槽の中に沈めてみるがよい」
 部屋の中央に硝子張りの大きな水槽があり、水が張ってあった。
 ナスカは袖をまくり、命じられるがままその植物を鉢ごと水槽に沈めた。
 すると水の中できらきらと光を反射させながら、無数の気泡が葉の表面から舞い上がった。

「多気孔植物ペディティウム・ドラスクス。
 帝国領内に生育する植物、半植物のなかでは、もっともラクリヤに近い品種と言われておるものだ。
 この植物は、月の光を受けると大気の成分のひとつ排素を別の成分である精素に変える力がある。
 精素は物が燃えるのに必要な元素(エレメント)じゃ。我々の体も静かに燃えているが故に、この精素を必要とする。もっとも……」オルクウムの体から伸びるチューブのひとつが、ゴボゴボと音を立てた。
 どうやら笑ったらしい。「わしのような枯れた体は、ほとんど精素を必要とせんがな」

 オルクウムを師と仰ぐナスカですら、その前半生を全く知らない。
 半ばミイラと化した体で、いったいどれほどの歳月を生きているのだろう。ミイラと化す以前は、どのような人物だったのだろう。
 彼は帝国の勃興期を、ほぼ体験してきているとすら言われていた。

「動物は呼吸とともに精素を吸い、排素を吐き出す。植物は光と排素と水から精素を作り出す。
 世界はこのようにして循環しておるのだ。

 精素は大地と深い縁のある元素で、高さが高くなるにつれ薄くなる性質がある。人が高山に住まうことができないのは、そのためだ。
 ラクール市のように、この世界で飛びぬけて高い山の頂にはほとんど精素がないため、人は生きていくことができない。
 ラクールに入植した、というよりは流刑に処された魔法士の一団は、奇抜な方法でこの薄い大気の問題を解決して、この地を住処とすることに成功した」

「それがラクリヤ、ですか?」
「そのとおり。聖花―ラクリヤは、光と水と排素からペディティウム・ドラスクスと比べてもはるかに多くの精素を吐き出す。
 ラクール市民の祖は、居住不可能な高山にラクリヤを多数栽培することで、この地に入植することを可能とした。

<大忘却>以前の科学士は、思いのままに新しい動物や植物の品種を作ることができたと言う。
 この植物もまた科学士たちが人為的に作り出したもの、という説があるが」師は再度笑った。「もちろん科学士どもが、己が力を過大に喧伝するために広めたたわごとじゃ」

 科学士と魔法士は軍を別にすると帝国を二分する勢力だが、オルクウムはそのどちらにも属さない独自の勢力基盤を持っていた。
「このように、現実的な用途によってラクリヤを広めていったラクール市民たちだが、その後ラクリヤを聖なる花として崇める信仰へと急速に傾斜していった」
「その聖花崇拝がよくない、と?」
「いや聖花崇拝は邪教だが、わざわざ弾圧するほどのものではない」

オルクウムは一端言葉を切った。
「このラクリヤだが、不思議なことにラクール以外の土地では根付くことかなわぬ。
 その栽培法は累代続くラクールの栽培官のみが伝承し、門外不出の秘事となっている。
 聖花ラクリヤを栽培するのは、難事じゃ。しかし“二なき人”は、この花を望んでおられる」
「二なき人が? なぜ、そうまでしてその花を求めるのです?」
「帝国の領地内には、未開拓の山岳部も多い。このラクリヤをもって入植すれば領土が広がる、と進言した魔法士がおる」苦々しい口調は、皇帝側近に対するオルクウムの心象を写しているかのようだ。
 枯れた体となっても、世俗から完全に無縁とはなれないらしい。

「その進言に、二なき人も心を動かされたのですか?」
「ラクリヤの葉から得られる成分には、魔法士の能力を拡張する作用があるといううわさがある。
 魔法士がラクリヤを得るよう進言した真の狙いは、存外そこにあるのかもしれん」

「ラクリヤの株を手に入れることは、さほどの難事と思えませんが」
「もちろんそれを手に入れること自体は、難しくない。ラクールへの道々には、自生のラクリヤも多数生えておる。
 それらを採取して栽培を試みたが、ひと月ももたずして全て枯れてしまったそうじゃ。

 ラクリヤ栽培を託された皇立の科学士どもは、彼の地から土、水をすべて取り寄せ、同じ環境を作ってみたがそれでも栽培はできなかった。
 ここに至って科学士どもは音を上げおった。
 この植物はラクールという土地が生み出す精気がなければ育たない、とのこじつけを言う者まで現れる始末」

「そこで、我々の出番ですか?」
「<大忘却>ののちの混沌を最初の二なき人の祖が治め、帝国の礎を築かれたことは知っていよう。
 その時代より今日まで、我々“王の守護者”は二なき人の耳目となって働いてきた。理由の如何にかかわらず、我らは命に応じて答えを探さねばならない」

「ラクールの栽培官が秘匿する、聖花の栽培法を探るのですね」
「そのとおり」オルクウムは声音を変え、動かぬ体の居住まいを正したかのような口調で、「“王の目”ナスカ・ホーソンに下命す。ラクールへ赴き、ラクリヤ栽培の秘事をつきとめよ。
 二なき人のために。帝国の礎が永遠ならんことを!」

 ナスカはひざまずき、厳粛な面持ちで拝命した。しばらくするとオルクウムの目の光が失せるとともに、ただのミイラに戻った。
 ネヴァ・モアの鳴き声が、部屋の中にこだました。

 

 赤い夕陽の残光が鮮血のようにあたりを照らす谷間には、よどんだ香りが満ちていた。    
「これが、聖花の谷か」
 かたわらに立つロアは、その禿頭に血の染みをつけているが、大きな怪我ではないらしい。   

 谷は花崗岩、カンラン岩、黒曜石などから成り、黒い岩肌を割ってラクリヤの葉球が顔をのぞかせていて、まるで無数の緑の頭に取り囲まれたようだ。
 あたりは瘴気が漂い、ラクリヤの葉陰からちろちろと回りを伺うげっ歯類が、キキッと甲高い鳴声を上げた。

 ネヴァ・モアがいずこからか舞い降りると、ナスカの肩に止まった。
 その時ロアがナスカに目で合図を送り、谷の中の一点を指差した。

「リーア?」ナスカは思わず、伝説の娘の名を口にしていた。
 赤く染まるうすい霧の中に、ひとりの娘が立っている。
 そのまわりだけはラクリヤの魔力も及ばないとでもいうかのように、凛冽な空気を身にまとった姿は、伝説の娘を思い起こさせた。

 娘は長い漆黒の髪をなびかせ、一心に崖のほうを見上げていた。
 その横顔は、交易市で高い値がつく象牙細工のように滑らかに白く、伝説よりも美しいと思わせる。
 娘が見上げる視線を追ったナスカは、ひとつの人影に気づいた。

 崖の中腹に、ステージのように突き出した岩場がある。まるで帝国の歌劇を見るかのように、舞台の壇上に人影が踊り出た。  

“王の目”が見守るうち、人影は岩場の端に達すると途方に暮れたように背後を振り返った。
 その途端、背後から数人の新たな登場人物が現れ、槍のようなもので最初の人物を激しく突いた。

 娘が小さく叫びを上げた。
 つかの間抗うような仕草をしたものの、槍で突かれた人物は抵抗できずに崖から落下した。     
 まるで悪夢のような、一瞬の光景だった。
 人影は長い悲鳴を引きずりながら崖を墜落し、鈍い音を立ててラクリヤの谷間に消えた。 

 その瞬間、ナスカはラクリヤが歓喜する声を聞いたように思った。

「花刑法廷……」
 肩に止まったネヴァ・モアが言った。西の方、日が没しつつあり、    あたりを急速に闇が席巻している。
 鳥類の習として闇夜の視力を失う代わりに、ネヴァ・モアの瞳に知性の灯が宿る。
「ラクール市民が、宗教犯・政治犯を処刑するやり方よ。主に聖花に関する罪をさばく場と聞いている」

 ネヴァ・モアの声が静寂の谷に響く。
「山の神の名を汚し、約をたがえた愚か者めが。こちらが落下する寸前、奴の両眼をつぶしてやった。
 あの商人が無事に下山できることはあるまい」
 花の谷は死の谷でもある。
 ネヴァ・モアは自分たちを突き落とした商人に、きっちりと代償を払わせたらしい。

 ナスカの目には、先に見た処刑に対する言い知れぬ嫌悪の情が浮かんでいた。   
 ふと目を移すと、いつの間にか娘の姿は消えていた。
 ラクリヤの香の中で、伝説の少女の幻を見たかのようだ。しかしそれが幻でない証拠に、彼女が立っていた場所に胸飾りが落ちていた。
 拾い上げると銀細工の決して安くはない品で、中央の玉に花を簡略化した意匠が刻んである。
 ナスカは、飾りを自分の首にかけた。

「行こう!」
 ロアを促して、六つ足のところへと戻る。
 青白い月あかりの中、荷物を拾い集めてやっと六つ足の背に納めると、疲れ果てたナスカとロアは天幕の支度も早々に眠りについた。

 その夜これまで以上に強いラクリヤの香の中で、ナスカは夢と現実のはざまを行き来した。
 夢の中で彼は崖から突き落とされ、ラクリヤの群生の中に落ちていくのだ。

 

 翌朝、はねあげられた天幕の入り口から差し込むまぶしい陽の光に、ナスカは目をさました。
 見知らぬ男が、槍の先で天幕の入り口をはね上げている。天幕は、いつの間にか数人の男たちに囲まれていた。
 皆長衣をまとい、槍を携えている。
 臑当て、肘当てを付けてはいるものの、帝国の正規兵と比べるとはるかに貧相な軍装にはちがいないが、ラクールの兵士のようだった。

 ひとりの兵士が、やっと起き上がったナスカに向かって槍を突きつけながら何か言ったが、ナスカには聞き取れなかった。
 ナスカは両手を上げて天幕から出ると、兵の前に立った。
「怪しい者ではありません。ラクールへは交易のために参りました」
 やはり兵士に槍を突きつけられているロアが、ナスカの言った事を山岳民の言葉に直す。

「私はハイラム・ビンガム」周りを囲む兵士の背後から、彼らの長らしき背の低い男が進み出て、きれいな帝国の発音で名乗った。
「交易路からははずれているようだが、ここでなにをしているのですか?」
 ナスカは手短に、崖を落ちた経緯を説明した。       
「ここは他国の者が入ってよい場所ではありません。私たちについて来てもらいましょう」
 ハイラムの口調はていねいだが、逆らうすべはないようだった。
(「天上の花(後編)に続く」) 

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