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【ファンタジー小説】聖花(3)

3 オフィリア

 拘束こそされなかったが、ナスカとロアは虜囚のように、兵士に従って谷を登る道を歩かされた。
 ロアの歩調は変わらなかったが、ナスカはうすい空気の下あえぎながら足を引きずった。ラクールの兵が軽装なのは、このように起伏に富んだ地勢での機動力を維持するためなのだ、とナスカは知った。

 崖から落下するのはあっという間だったが、登りは困難を極めた。
 高地馬に乗ったハイラムは、非情な目つきでふたりを見下ろしながら先導する。ナスカたちが収容されたのは、崖の途中にある台地の上に張った大きめの天幕で、ハイラムらはここに駐屯しているらしい。

 谷間を見下ろす景観のよい場所だが、むしろ谷から吹き上げる瘴気によって陰惨な気に満ちている。
 知性が宿る夜ならば、ネヴァ・モアはこう言ったかもしれない。「この場所には死霊が満ちている」

 天幕は数張りあったが、ナスカとロアはもっとも大きなハイラムの天幕に連行された。

 ハイラムはふたりを立たせたまま自分は床几に掛け、切子硝子に注いだ飲み物を旨そうに干すと、ふたりを無視して書類に目を落としていたが、不意に顔を上げた。
「さて、見慣れない顔だがいずこから来たのかな?」

”王の耳”は、あらかじめ準備していた偽の素性を答える。
 最後まで言い終えないうちに、ハイラムが両脇の兵士に目配せすると、ナスカはいきなり棍棒でわき腹を突かれた。
「この聖なる花の谷が、異教の者によって汚されてしまったではありませんか。交易商人がここへ入るのは、禁忌だと知らなかったのですか?」

 ナスカは腹を抑えてくず折れる。
 肩にいたネヴァ・モアがバランスを失って羽ばたいた。さらにハイラムが言い募る前に、ロアが早口で山岳民の言葉でなにかを答えた。
 ハイラムはもっともらしくふん、ふん、とうなずく。
「なるほど、なるほど。君たちが谷を汚したのは不幸な事故の結果だと。しかしその事故の責めは誰にあるのかな」

 口を開こうとしたナスカを制して、ロアが進み出て何かを彼に手渡した。
 ちらりと見ると、交易品の中でも高価な金細工のようだ。ハイラムはそれを一瞥し、あらぬ方を見やりながら、
「確かに話を聞く限り、その事故の責めは相手側にあるようだ」

 ナスカの前までゆっくりと歩いてきて、「禁忌を破った罪は見逃そう。しかしここより先、ラクールに入市させることはできぬ」
「待ってくれ」ナスカは慌てて言った。「これ以後、二度と聖域に入らないと誓う。だから……」
 ふと見ると、ハイラムは彼の言う事など耳に入らない様子で、ナスカの胸のあたりをじっと見つめている。背の低い彼の視線は、その真正面に胸かざりを捕らえていた。
「これをどこで?」

 ハイラムは、谷で見た娘が落とした銀細工の胸かざりを差した。ナスカは娘のことは伏せて、ただ拾ったのだと答えた。
「ふ……む」
 ハイラムはぐるぐるとその場を歩き回りながら、しばらく考え込んでいたが、「いいだろう。ラクールへの入市を許可しましょう」 
 ナスカの六つ足は部下に引いて来させるので待つように、と言い捨てて二人を下がらせた。

 ラクールの市門は、これまでにナスカが見た辺境市のなかでももっとも簡素なものだった。
 ラクール市はこれまでに他国の侵略を受けたことがなく、防衛上の機能が全くないためだ。この市門を越えると、エレドニアの山頂を中心に二万人程度の市民を擁するラクール市である。

 その夜ナスカは商館に部屋を取って、ロアとふたり掛かりで一番大きな背嚢を運び込んだ。

「さて……」商館の中にある一室は、一対の寝台以外に何もなく灯火の代わりに壁に塗られた光り苔が、ほのかに部屋を照らしている。商人相手の安宿らしく、窓際に置かれた水差しは空になっていた。
「さあ、出てくるんだ!」
 ナスカは背嚢に向かって話し掛けた。誰かが見たら、狂ったと思うかもしれない。

 ナスカがネヴァ・モアに合図すると、鴉は籐でできた背嚢の前でひと声鳴き、嘴をすき間に突っ込んだ。
「出てこないと、この凶暴な鳥が目をつつくぞ!」
 その声に答えるかのように背嚢が開き、細身の体が飛び出してきた。

 中から出てきたのは、花の谷で見た髪の長い娘だった。
 光り苔と月光のかすかな明りの中でも、その肌が抜けるように白いのがわかる。山岳民の衣装であるゆるやかな長衣を着ているが、この娘はどの民族でもないように思えた。
 ナスカがこれまで見た山岳の民は皆、陽に焼けて褐色の肌をしていたが、娘の肌は雪花石膏のように白くなめらかなのだ。その顔だちは帝国にもまれなほど整っているが、今はおびえた目をして小動物のように縮こまっている。

「そんなに畏れなくてもいい」
 ナスカは安心させるように話し掛けたが、娘は固まったように動かない。
「どうして、おれの荷物に隠れていた?」訊きながら、ナスカはふと思い当たる。「言葉がわからないのか?」

 娘は相変わらずナスカを見つめたまま、口を開こうとしない。
「君の名前は?」ゆっくりと、ひと区切りごと噛み砕くように話し掛ける。「名前だよ。な・ま・え」
「……」

 歳はいくつぐらいなのだろう。少女のようにも見えるし、成熟した女の色も感じる。その青い瞳は吸い込まれるように、澄んでいる。
「ナ・ス・カ。わかるか?」ナスカは自分を指して言った。
「ナ・ス・カ」娘が彼を見ながら、初めて言葉を発した。
「そう。ナスカ」

 ナスカは次に娘を指差した。聡い娘のようだ。その意図を察し、
「……リ・ア」伝説の娘の名を口にした。ナスカは一瞬どきりとする。
「リーア?」
 娘は首を振った。「オフィリア!」
 オフィリアか。ナスカはそう言うと、ロアに「話してみてくれ」
 ロアが山岳民族の言葉で話し掛けたが、やはり娘は応答しない。

「通じないようです」
「山岳民ではないのかな」
「山の民は多くの小部族に分かれていますから、私が知らない言語を使う民もいます」
 ナスカが玉蜀黍のパンを差し出すと、娘は引ったくるように奪い取ってがつがつと頬張った。
「ネズミを捕まえたときのネヴァ・モアのようだな」ナスカは笑った。「これは、オフィリアのものか?」
 銀の胸飾りを差し出す。娘は黙ってそれを受け取った。

「この模様はなにを示すのだ?」
 中央の玉に記される意匠を差してみたが、娘は意味がわからないのか、ただじっと見返すのみだった。
「この部屋を使うがいい」
 ナスカはそう言い置いて部屋を出た。肩に止まったネヴァ・モアが、めずらしく困惑したような声音で言った。
「あの娘からは、災いのにおいがするぞ」

 ほのかな明りの中で女を抱きながら、ナスカはオフィリアの横顔を想い出していた。
「誰か別の人を思っている顔ね。故郷に残してきた奥様かしら」   
 商人を装った”王の耳”は首を振った。妻帯していないとは言わなかった。

 女は娼妓ではない。商館のはす向かいにある酒場で、テーブルを拭きながら話し掛けて来たのだ。「その鳥もお酒を飲むの?」
 ラクール市が帝国を追われた魔法士を祖とする、との言い伝えどおり、女はナスカにもわかる言葉を使った。
 店がはねてから女の部屋に行き、体を重ねると相手が思ったより若いことに気づいた。

 店でも女の部屋でも、明りは壁に塗られた光り苔と月光だけ。
 ラクールで火を使って良いのは、定められたわずかな時間のみだ。火は精素を消費する。貴重なラクリヤの恵みである精素を無為に使うことは許されない。

 互いに裸のまま横たわっていると、ナスカはずっと悩まされてきた高地酔いの頭痛がだいぶよくなっていることがわかった。
 女を抱いているときは、ラクリヤのにおいさえも忘れる事ができた。
 ――交尾の間、部屋をはずしていよう。気をきかしてくれたネヴァ・モアには悪いが、もうしばらく余韻にひたっていたい気分だった。

 ラクールはどう? と聞かれ、この香りがひどいと答える。
 女はくすりと笑い、他所から来た人は皆そう言う、とつぶやいた。
「でも私たちは、ラクリヤなしでは呼吸することもできない。ラクリヤの恵みなしでは生きていけない」
 そのにおいはこの地を包み込み、完全にその臓腑に納めている。しかしこれは安全の証なのだ。ラクリヤが生み出す精素が満ちている証拠なのだから。

 聖花崇拝は単なる信仰ではない。生きるための必然の手段なのだった。
「聖花信仰とはなんなのだ?」
「定めとして栽培区を守ること」女が答えた。「栽培区は市民ひとりひとりに割り当てられている。そこにはラクリヤを植え、それだけを育てるの。もし与えられた栽培区のラクリヤを枯らしたり火事を起こしたりしたら、花刑法廷で罪に問われる」
 女は当たり前のように言った。「ここでは、ラクリヤの一葉は血の一滴なのよ」

「だれにでも簡単に育てられるものなのか?」
 女は寝台の引き出しから、親指の先くらいの土の塊を出して見せた。なんとなく、天界への桟道で見た鉱虫を思い出させる。

「これがラクリヤの肥料よ」

”王の耳”は、肥料の塊をまじまじと見つめた。鼻を寄せると、かすかに嫌なにおいがする。このにおいには覚えがある。ナスカが記憶をたどっていると、
「毎年収穫祭の翌日に、栽培官からこれが給付される。良き市民はこれをラクリヤに与えて雑草を抜き、水を差し上げるのよ」

 女はナスカの手から、肥料を奪い取る。
「もしこれを無くしたりしたら、”荒れ野”に追放されるわ」
 エレドニアの北側に広がる、生息不能域の名を口にした。
 そこは高い山の陰にあたり、ラクリヤが植わっていない一帯だ。その名を口にする時、女の口調には嫌悪が現れていた。どうやら良きラクール市民にとって、忌むべき言葉らしい。

「荒れ野へ追放されるくらいなら、花刑法廷にかけられたほうがましね」
 ナスカは、女から肥料を盗むことを諦めた。ふと思いついて、ナスカは女の裸の背中にオフィリアが身に着けていた胸飾りの文様を描いた。

「これが何かわかる?」
 太陽とラクリヤ。ソロス家の紋章ね。女は即座に答えた。
 ソロス?
 ラクール市の上級栽培官よ。
 ナスカはその時、肥料のにおいが何だったか思い出した。それはこれまでの任務で何度かかいだことのある、戦場のにおいだった。

 ナスカはラクール入り以降、誰かの視線を常に感じている。翌朝、女の部屋から商館に戻る時にもそれを感じた。
 街路の向こうでは、ハイラムの配下が監視をしている。ナスカが感じる視線は、監視者のものとは全く違っていた。
 このようなことは、これまでになかった。”王の耳”の力に勝る、ラクールの魔法士のしわざなのかもしれなかった。

 商館の一階では、すでに起きて六つ足の世話をしているロアのかたわらで、オフィリアが興味深そうにそのしぐさを見ていた。まだ幼さの残る表情とは裏腹に、その瞳は大人の知恵をたたえている。
 ふたりはなにかを話し合っている。ナスカは歩み寄ると、ロアに問い掛けた。

「この娘の話す言葉がわかったのか?」
 いいえ。ロアが首を振る。
「ふたりで話しているように見えたぞ!」
「お互いに自分の言葉で話していました。細部はわかりませんが、なにを言っているのかは理解できるようになります」
 そんなものかな。ナスカはつぶやいた。

 朝食をとるため、ナスカは娘を部屋へ誘った。彼はずっと悩まされていた頭痛が、きれいに去っていることに気づいた。

 部屋の扉を開けた娘に、ナスカは後ろからそっと声を掛けた。
「右の肩に毒虫がとまっているぞ!」
 娘ははっとして、右肩に目を向ける。その瞬間、罠に掛けられたことを知り、真っ赤になった。「どうやら、帝国の言葉がわかるようだな」

 ゆっくりと振り向くと、端正な顔が怒りにゆがんだ。
「このペテン師。大嘘つき!」
「嘘つきは、おまえのほうだろう」苦笑しながら「なぜ言葉がわからないふりをした?」

 娘は寝台のうえに座り込むと、頭を抱えた。
「だって、いろいろ聞かれるでしょう!」
 ナスカはやや呆れながら、尋ねた。
「もちろん訊くさ。いったいなにが望みだ?」
「ラクールを出たいの。あんた帝国の商人でしょう? お願いだから私を帝国に連れて行って」
「なぜそうまでしてラクールを出たがる? 自分が育った故郷だろうに」
 オフィリアは目を伏せた。「よその世界を見たいだけ」
「君はラクリヤの栽培法を知っているか?」
 娘が上級栽培官の家柄ならば、期待できるとナスカは思った。しかし彼女はゆっくりと首を振った。

 窓の外になにかが当たる音がして、娘がびくっと反応する。見るとネヴァ・モアが飛び立つところだった。
「追われているのか?」
「かくまって欲しいの。そして帝国に連れて行って」

「なにをした?」
 オフィリアは下を向いて口をつぐむ。「お礼はできないけど、これを売ればいくらかのお金になるわ」
 胸飾りをはずして渡そうとする。
「本気か?」
 娘は頷いた。

 ナスカは太腿に留めてあったナイフを取り出して、娘に刃を向けた。「誓えるか?」
 オフィリアは、突然差し出された白刃の輝きにおびえた表情を浮かべつつも、じっと彼の目を見てうなずいた。娘の決心を見て取ると、ナスカは彼女の長い黒髪をつかみ、無造作に切り取った。

「追われているのならば、外見を変える必要がある」
 オフィリアは切り取られた髪をひと筋手にとった。瞳に涙が浮かんでいる。
 ナスカは思った。リーアの涙は、自分になにをもたらすのだろう、と。(続く)

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