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【ファンタジー小説】聖花(4)

4 ソロス

 市場の雑踏はどの辺境市も変わらないが、ラクールのそれは素朴なものだった。
 粗末な屋根がついている並びはましなほうで、大部分は直接地面に莚を敷き、そこで壷に入った農作物をやり取りしている。なかには子供くらいの大きさの壷いっぱいに、玉蜀黍やレンバスを入れて商っているものもいた。

 尾けられている!
 ナスカは雑踏の中を歩きながら、連れの手を取った。「後ろを見るな」
 足を早めて大通りを過ぎると、細い路地に飛び込む。同行している連れはフードを目深にかぶり、顔を隠すようにしていた。複数の足音があとを追って路地になだれ込む。

 ナスカは連れの手を引いて、おもむろに走り出した。
「こっちだ」路地から路地へと渡るうちに、足音は遠ざかっていった。「どうやら振り切る事ができたようだな」
 袋小路になった路地裏で、息を整える。精素の薄いラクールで走ると、ナスカはすぐに息が上がった。

「残念だが、そうはいきません」
 振り返ると、数人の兵を従えたハイラムがいた。背の高い兵に囲まれた彼は子どものように見えたが、その口調は邪心に富んでいる。
「ラクールの路地裏まで知り尽くしている我々を、振り切ろうと考えるのはいささか無謀ですな。あなたを泳がせておけば、いつかあの娘と接触すると読んだ私の勝ちです」

 そう言うとつかつかと歩み寄り、手を伸ばしてナスカの連れのフードをはぎ取った。
 フードの下から、短い黒髪が現れる。ハイラムは驚いたように、その顔をまじまじと見つめた。
「手伝いのために雇った地元の子だ。なにか問題あるかね?」
 ナスカは連れの男の子の、浅黒い顔を示しながら言った。
「行っていい」ハイラムは吐き出すように答えた。

 ロアは市場のはずれに莚を敷き、じかに品物を並べて取引していた。ラクールの仲買人と交易商とのやり取りは、物々交換が基本だ。
 ナスカが利益を無視した交換レートを設けていることと、ロアの如才なさによって取引は繁盛していた。
 ロアの傍らでは短い黒髪に煤を顔に塗って、男の子のように見えるオフィリアがかいがいしく手伝いをしている。ネヴァ・モアが近くの木の上から、ネズミが商品をかじったりしないよう監視していた。

 ナスカは囮を努めた男の子に駄賃を払って帰すと、ロアのもとへ歩み寄った。
「上手くいった」ナスカは客足が途絶えた時を見計らって、話し掛けた。「当分の間、ハイラムが仕掛けてくることはないだろう」

 オフィリアは莚の上にひざを抱えて座り、ほっとした表情を浮かべた。「あの男、ラクールの市兵を動かしているけど、実はソロスの私兵なのよ」
「もう言ってくれてもいいだろう。ソロス家とはどのような関係なのだ?」当代の家長であるソロモン・ソロスは上級栽培官であり、市長に次ぐ地位にあると聞いていた。
「父よ」

 予想した答えに、ナスカはうなずく。
「上級栽培官の娘が、なぜ兵に追われる? なぜラクールを出ようと思った。喧嘩でもしたか?」
 オフィリアの思いつめた表情から、そのような簡単な事情ではないことはわかる。
「おねがい、私を逃がして!」
 懇願に何か言葉を返そうとしたとき、ナスカはその視線に気づいた。

 雑踏の中から、こちらを視つめる者がいる。白い長衣をまとった女。それは大勢の人々の中で、とりわけ目立つ存在ではなかった。しかし、”王の耳”にはわかった。
 真紅の女。
 
その女の装飾には、赤は一点も使われていない。しかも、ちらりとのぞいている女の肌は抜けるように白かった。
 だがそれにもかかわらず、その女を見たときナスカの脳裏に浮かんだのは、見たこともないラクリヤの真っ赤な花だった。

 ラクールの女市長ルクレツィアか? 
 なるほどハイラムなどとは格がちがう。とうていごまかせる相手ではない、とナスカは思った。
 女は、ゆっくりとこちらに向かって歩を進めてくる。オフィリアも気づいたようだ。おびえた目をそちらに向けている。

「ネヴァ・モア!」
 近づいてくる女から目を離さず、ナスカは大鴉を呼んだ。
 クァ――
 呼びかけに答えて、ネヴァ・モアが舞い降りる。鴉がとまっていた木の影が、ナスカとオフィリアの上に静かに伸びてきた。
 オフィリアが悲鳴を上げた。

 女の手が間近に迫りまさに届こうとした瞬間、ふたりの体は影の中に沈んでいった。闇があたりを覆い、女の爪が空を切った。

 冷たい水の中に飛び込んだときのように、ナスカは必死でもがきながら闇の羨道を抜け、光りに向かって腕を掻いた。左手はオフィリアの手をしっかりと掴んでいる。
 無限のようにも感じ、また一瞬のことだったか、とも思える時ののちに、ふたりはうす明りの中に踊り出た。
「ここは、どこだろう?」

 ネヴァ・モアが「カァ」と応じた。
 ラクリヤのにおいがいっそうきつく、鬱蒼と聳え立つ木々の間から光りが漏れていた。
 影から影へと闇を伝うネヴァ・モアの能力には、これまでにもいくどか助けられてきた。
 しかし、闇が知性を授け、光りが能力を授けるこの力には、裏の面もある。昼間は鳥類の本能のみに任せて影の中を彷徨うため、どこに行き着くのかを制御できないのだ。
 逃げた先でより深刻な危機に見舞われたことも、また一度や二度ではない。

「ここは、山頂を取り巻くラクリヤの森よ」
 オフィリアが低くくぐもった声で答えた。
「これが、あのラクリヤなのか?」

 ナスカは、驚きとともに梢を見上げた。
 あの葉球が育ったものとは思えないほど高く伸びた幹が、彼らを見下ろしている。葉球がたてに伸び、複数絡み合って葉幹を形作っているのだ。

 ラクリヤ樹の間を割って、ラクール市の主峰エレドニアの山頂が見えた。
 そこには栽培官たちが住まう市庁舎や、作物の種蒔き時期を知るための天文観測所、神託を授かる神殿が立ち並んでいる。そのなかでも、ひときわ目立つ巨大な白い大理石の建物があった。
ラクリヤの聖殿よ」聖花のための神事を司るの。オフィリアがぽつりと言った。

「人の一生と同じくらい長い歳月の間に一度か二度、ラクリヤは花をつける。真紅の花弁をもつ聖なる花を」
 その花が開いた年に生まれた子どもは、聖なる花の息子、娘と呼ばれるの。
 オフィリアは、寝台に腰掛けて足をぶらぶらさせながら、そう言った。

 ラクリヤの森から商館の部屋へ帰りついたときには、すでに夜のとばりが降りていた。あの女の視線は、どこかに消えている。
 あの女に狙われる限り、安全な場所はこのラクールにはない、とナスカは思った。

「市長も聖なる花の娘だったのよ」
「ルクレツィアも、か」
「聖なる花の子たちは、次の市長の候補として育てられるの」
「オフィリアも聖なる花の娘なのだな?」
 ナスカの問いに、娘は答えようとしなかった。 

 顔の煤は落としているものの、そのしぐさは無邪気な男の子ようだ。この無垢に見える娘にもまた、希代の力を持つといわれるラクール市長ルクレツィアと同じ能力が開花するのだろうか。
 ナスカがなにか言いかけたとき、ノックの音が聞こえた。
 
 扉が開くと、帝国の僧服のようなレンガ色のゆったりとした長衣に見を包んだ、背の高い男が立っていた。わし鼻とあごの下に白髪混じりの髭を蓄え、老境に差しかかる年代に見えるが、背筋をぴんと伸ばして威厳を保っている。

 男の背後に控えていたハイラムとその配下が、部屋になだれ込んできた。「オフィリア様!」
 娘は息を呑むと、男とナスカを交互に見つめる。”王の耳”は視線をそらせて、一同を招じ入れた。
「裏切ったのね!」
 細い拳がナスカの頬に突き刺さり、にぶい音を立てた。ナスカは口の中を切り、血の味を含んだ。
「嘘つき!」
「悪いな。強い者に逆らう気はないんだ」
 オフィリアは涙をたたえた眼で、ナスカを睨みつける。
 
 ハイラムがナスカの前に立ち、何かを言いかけるのを背の高い男が制した。
「やめなさい」他人に命ずる事に慣れた、張りのある声だった。「その方と話がある。はずしてくれるかね」

 ハイラムはうなずき、配下の兵がオフィリアの肩に手を掛けた。娘は一瞬逆らおうとしたが、無駄を悟ったか大人しく後について部屋を出た。
 ふたりきりになると、上級栽培官ソロスは口を開いた。
「このまま立って話をするかね?」

 ナスカは一脚しかない椅子を彼に譲り、自分は寝台に掛けた。
「娘を見つけてもらって、感謝する」
 ナスカは肩をすくめた。「細かな事情は聞かないことにしよう」
「なにか礼をしたいのだが……」
「娘は親の庇護のもとに育つのが一番だ。ただ、もしも」ナスカは媚びるような笑みを浮かべた。「あんたが借りを負ったままでいるのが嫌だと言うのならば、ラクリヤの栽培法を教えてもらいたい

 ソロスは驚いた顔をした。
「呆れた申し出だな。いっそこの部屋一杯の黄金を所望されたほうがまだしも現実的だ」首を振りながら、「ラクール最大の秘事を、上級栽培官の私が他国の人間に教えると思うかね?」

「わかっている」ナスカは答えた。「これからおれが言う事に、うなずいてくれればいい。ラクリヤは食肉樹だな? 肥料は生贄の動物の血肉から作ったものだ」
 無表情を保とうとするソロスの顔に浮かんだ、一瞬のゆがみを”王の耳”は見逃さなかった。
「充分だ。知りたいことは知った」

 何か言いたそうにする老栽培官を、ナスカはにべもなく追い返した。扉の外で立ち聞きしていたロアを招じ入れ、ナスカは言った。  
「明朝引き上げるぞ。目的は達した」
 ロアは返事をしない。
「どうした? なにか支障があるのか?」
「彼女は?」
「親の元に戻った」
「ここを出たがっていた。連れて行くと約束したのに」普段は無表情な亜人類の顔に、悲しげな陰が宿る。「約を違えるのはいけないことだ」

 ナスカは、やや後ろめたそうに言う。「上級栽培官の懐に飛び込むには、あの娘をえさにするしかなかった。それにソロスだけならまだしも、あの真紅の魔女には勝てない。オフィリア・ソロスのことはもう忘れろ」
「……」ネヴァ・モアはなにも言わず、たたずんでいる。
 これ以上議論はなしだ。そう言うとナスカは、荷造りにかかる。

 オフィリアが最後に見せた涙を忘れるかのように、酒の力を借りて眠りについた部屋の中へ、夜気に混じって花の香りが忍び込んで来ることに”王の耳”は気づかなかった。(続く)

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