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親指サイズの富士山

仕事の都合でこのマンションに入居したのは、事務所が15分程度の徒歩圏内と便利だったからだ。40年前に超モダン建築として売り出し、即完売になったという人気物件だった。そのムードは何十年たった今も引きずっており、各部屋のオーナーは高級マンションの誇りを持ち続けていた。この価値を存続するため、流行のタワーマンションに建て替える案が数年前から持ち上がていおり、管理委員会は数年前から月に2回「立替委員会」のミーティングを実施していた。そんな時期の入居で、立替が実施するまでの契約だったが、現実的には立替が決定したわけではなく、難なく住み続けることができそうだった。

朝夕にフィンガーサイズの富士山が出迎えてくれる部屋

入居前からこのマンションの自慢は散々聞かされていたが、入居してこのマンションのよさがじわじわ感じるようになった。1つには立地の良さである。港区高輪台駅から3分、1号線沿いにあるのでどこに行くのも便利だった。加えてこのマンションは東京タワーと、富士山が見えることが分譲募集の最大のウリだった。年月を経て、今はこの周りは折からのタワーマンションブームでにょきにょきとタワマンが林立して、東京タワーは先っぽが見えるだけだったが、それでも東京タワーが見えるマンションのポテンシャルは高い。加えて富士山が見えるのも本当だった。夏場は霞んで見えるが、冬場はくっきりと見えた。ただし部屋から見える富士山は親指サイズだった。それでも東京タワーと富士山が見えるのは、日本一のマンションに思える。住み始めてよさがわかると、同じマンションの住人にように、だんだんわたしもこのマンションを自慢したくなり、友人が来ると親しみを込めて「富士ちゃん」と呼び、富士山を借景にランチタイムを楽しんだ。特に夕暮れは太陽が落ちるとともに、日本画のようなほのかなシルエットになり、映画のラストシーンのようにロマンチックな映像を楽しませてくれた。こうしてキッチンのラックに寝そべる愛猫ちゃぴと一緒に、フェードアウトする富士山を見送るのが日課になっていた。

湯舟に曇った富士山のタイル絵がわが家の小さな富士山に見えた

5年後のある日、最後まで悩んでいた部屋のオーナー3名が建物の立て替えに同意し、建て替えが決定したと管理委員会の案内が届いた。スケジュールは半年先だったが、今ではこのマンションが自分の一部になっており、半年後に退出が決まると、落ち着かない気分になった。また引っ越しだ。複雑な気分でいるところに友人のミナコから電話があり、翌日の夕方会うことになった。約束の時間にやってきたミナコの車で、戸越銀座に向かった。ミナコの幼友達に会いに行くことになった。車は戸越銀座にある「富士山温泉」の銭湯前で止まった。颯爽と中にはいり、「ヨーコ、ごぶさた!」わたしもミナコについて入った。「ミナちゃん、いらっしゃい!」「こちら友達のキョーよ」、「はじめまして、キョーです」挨拶すると、「どうぞどうぞ。ミナちゃんの友達なら大歓迎よ。今なら空いているからひと風呂どうぞ」そういって、入浴セットを手渡してくれた。誰もいない銭湯にミナコとお湯につかりながら、また引っ越し先を探すことを伝えた。「ちょっとまって、半年先ならいいところがあるよ」といって、先日島津山のマンションオーナーから入居者を探してほしいと頼まれたという。島津山はオフィスに近いが、高級住宅街だ。コストの心配をすると「大丈夫、安くしてくれるよう交渉するから、まかせて!」引っ越し先の心配はまだ先だから、ミナコにまかそう。そう思って前を見ると、目の前には銭湯定番の大きな富士山のタイル絵。さすが富士山温泉だけのことはある。「あ~あ、あの部屋退出したら富士山みられなくなる」というと、ミナコはウィンクしながら「だから今日ここに来たんじゃない!」そう言いながら湯船に二人並び、大きな富士山を眺めた。湯気に曇った富士山は、部屋から眺める親指サイズの富士山よりはるかに大きかった。太陽が落ちる時に、ゆっくりフェードアウトする部屋から眺める夕景の富士山の風情にも思えて、わたしは汗とも涙ともつかないものが頬を伝うのを感じた。


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