中日ドラゴンズに光明をもたらす、茨城県地縁のふたりのコーディネーター
コブ山田です。
ようこそいらっしゃいました。
今回は、他者への人物紹介について、記します。
2022年オフのプロ野球現役ドラフトにて横浜DeNAベイスターズから中日ドラゴンズへの移籍が決まり、名古屋の新環境で大活躍していると言える細川成也。
茨城県北茨城市育ちの細川は明秀日立高校にて"茨城の中田翔"という異名がつく活躍で高校通算63本のホームランを打ちました。
2016年ドラフト5位で横浜DeNAに指名され入団。高卒の選手なら筒香嘉智、右バッターなら宮崎敏郎という主力選手を筆頭に打撃優位の選手を多く育てた実績がある横浜DeNAですしいいチームに入ったと私は思いました。
ただ、なかなか1軍レギュラーに定着できません。端から見ていても、当たると怖いけどその当たる頻度が少ない。そんな印象でした。
しかし細川は練習を続けます。そうは言っても、年々恐怖が増大していきます。上位とは言えないドラフト指名順位で入団した経緯も、不安のひとつのなったものと考えます。
高校の監督はそんな細川の姿を見て、現在は鳴かず飛ばずだがもしかしたら指導次第でよくなるかもしれないと感じました。
その指導とは、元西武ライオンズ→中日ドラゴンズの選手であり当時野球解説者を務めていた和田一浩でした。タイミングの取り方がよくなればバットに当たる確率が高まる。和田から気づきを与えてもらうことで上記の当たる頻度が高まり、細川のパワーが活きてくると。
そうは言っても、和田は茨城県にも横浜DeNAベイスターズにも縁はなかった選手です。
なのにどうして和田なのか。それは、明秀日立高校監督の金沢成奉は東北福祉大学の卒業生。その後輩が和田一浩であり、そのつながりがあったというわけです。
実際に記事も出ています。
金沢はプロ野球選手として大きな結果が出ていない細川に対して表面上淡々と接したことはあったようですが、心の中ではプロ野球の世界でもがき苦しみながらも奮闘している細川に報われてほしいと思っていたのです。
細川の横浜DeNA在籍時から、和田は第三者の立場で話をする機会がありました。とは言ってもあくまでも野球解説者と現役選手の関係です。和田が言うことは外部の人間に過ぎないという状態でした。
そんな中、2022年の冬、歯車が一気に動き始めました。
中日の監督である立浪和義はかつてのチームメイトだった和田に打撃コーチ就任を要請。これを受諾し中日和田打撃コーチが誕生します。
続いて、当年度初実施の現役ドラフトにて横浜DeNAは細川成也を対象選手に選定します。中日が指名し移籍が決まります。
和田はすぐに金沢に連絡しました。第三者が一気に上司と部下の関係になったのです。和田も意気に感じ、細川の長所が活きるための練習を考案、そして熱心に見て支援します。
すごい、金沢監督は他人の長所をしっかり分かったうえでより生きるためにどうしたらいいかを考えて結び付けた。他人に紹介したというだけかもしませんが、これが、特に中日ドラゴンズに対してものすごい効果を生みました。
人と人を結び付けて中日ドラゴンズに対してものすごい効果を生んでくれた人物というと、明秀日立高校監督金沢成奉のほかにもうひとり思い浮かびました。偶然にも茨城県那珂郡東海村育ちでプロ野球の選手、監督、球団フロントにて活躍した根本陸夫です。
根本陸夫。セ・リーグは広島には在籍していましたが特に西武、福岡ダイエーで監督と球団フロントを歴任した人物です。20世紀の中日からしたら対戦相手のキーパーソンといった印象であり、中日は負けることが目立ちました。
1996年のドラフトでは青山学院大学の井口忠仁、九州共立大学の柴原洋という有力選手の獲得を中日も狙っていたものの揃って福岡ダイエーに獲られてしまいました。そして、1999年10月、根本が監督を経て球団専務として作り上げたチームである福岡ダイエーに日本シリーズで敗れ、中日は日本一になれませんでした。ナゴヤドームで日本一の胴上げをする井口や柴原の姿を見て歯ぎしりしたのは私だけではないかと思います。
しかし、この1999年です。少し前の02月、後年の中日に大きなプラスをもたらす種まきとなるできごとが起こっていたのでした。
当時は高知県で春季キャンプを行っていた福岡ダイエー。そこに、前年限りで引退した選手が根本のもとにあいさつに訪れます。そこで根本はこう言ったのです。
「将来監督やるときは、森繁和と一緒にやるといい」
その言葉を受けた、引退したばかりの人物の名は落合博満と言います。
当時、落合はこんな自分に監督の依頼が入ってくるわけがないと思っていたそうですが、2003年オフに山田久志監督休養後ゴタゴタになっていた古巣の中日から1軍監督オファーが出ます。
運よくその森繁和も横浜のコーチ契約が満了になったばかりであり、落合は監督オファーを受諾するとともに根本の言うことを忠実に守って森を中日に招き入れました。
これも、根本が落合のスタイルと森のスタイルが合わさればいいチーム作りができると考えたからです。
その後、落合は08年間で04回優勝しました。優勝→日本一はなりませんでしたが日本一奪還もあり、中日球団史上最高の名将と言っていいと考えます。
この時重要なこととしては、落合が引退後すぐにNPB12球団のキャンプをすべて見に行くという行動を起こしていなかったら森コーチによる中日強力投手陣が実現していなかった可能性が大幅に高まるという点です。なぜなら、根本は同年04月に亡くなってしまったからです。03ヶ月後にはもうどうにもならない状態です。1999年の福岡ダイエー胴上げ時に根本の遺影を手に持つスタッフもいました。
中日は存命の根本陸夫の凄腕にやられてしまうことが目立ったのですがそれは20世紀の話。根本陸夫が落合博満に森繁和を紹介したことで、21世紀になってから中日ドラゴンズに長い時間にわたって陽が差していて、その陽を浴びた人たちの何人かは監督・コーチとして中日ドラゴンズのかじ取りをしています。そのひとりが、そう、選手としてもMVPを獲得する大活躍でありコーチとしても細川成也開花の一助となった和田一浩です。
最後に
中日ドラゴンズのチームは黄金期を迎え、その後ひとりの選手が他球団の控えから一気に主力に駆け上がる。偶然に過ぎないものですし、茨城県出身中日ドラゴンズ関係者の全員が全員そうだというわけではありませんが、私は茨城県の街並みを見るたびにありがたみをかみしめています。
ありがたかったで済まさず、ぜひ、さんにんめのコーディネーターの出現も願って。これからも見ていきたいと思います。ありがとうございました。
サポートいただければ、本当に幸いです。創作活動に有効活用させていただきたいと存じます。