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諦めるなの続き。

諦めるな。
と,無限に今を継続することとはやっぱり違いますよね。

少なくとも超えられない壁に対して,現状把握し改善や工夫を凝らして再度向かい合うとか,本当にその壁は超えるべき壁なのか検証するとか,そもそもシステム的に超えられない壁であることを疑うとか,誰かに協力を仰ぐとか,いったん休憩して戦略を練るとか,上と掛け合って予算をもらってくるとか,ルールや基盤の整備を見直すとか,持てるリソースを全投入するというのは,決して自分の精力が尽き果てるまでひたすらがんばったり我慢したり身を削ることとは違いますから,「あきらめない」は柔軟な感性をもって望んで欲しいですね。


とはいえ,いつまで続けたらいいのか,は結構難しい問題であります。

うちの夫婦もときおり
子どもの習いごとをどのタイミングでやめたらいいのかという問題で議論になります。

本人がやってみたいと言って始めた習いごと,しばらくしてやめたい,行きたくないと言い出したらどうするか。


やめてもいいよ,と言ってあげるのは簡単なのですが,夫婦はそれで本当に良いんだろうか,少し壁にぶつかる度にやめてしまったら「…逃げてしまったら」,挑戦とか我慢とか,がんばることとか,そういう大事なことを学ぶ機会を失うんじゃないだろうか。

みたいなことを思って頭を抱えるわけです。


しかし,壁にぶつかったとき,その壁を避けることが「逃げること」なのかと言うと実はよくわかりません。

僕の塾に来ている子どもたちには
本当に嫌なことからは逃げてもいいけれど,逃げるんなら本気で逃げるんだよという話をします。

逃げるというのは,蓋をして見ないふりをすることや,目を合わせないように逸らすのとは違うと思っています。

見たくない物にいったん蓋をして見ないようにすること。
考えたくないこと,思い出したくないことから目を逸らして真剣に向き合わないことは,本気で逃げることとはやっぱり違うと思うのです。

たとえば勉強したくないと思って勉強から逃げたいと言ったとき,僕は逃げられるものなら逃げれば良いと思っていますが,一方で逃げるというのは思うほど簡単じゃないかなとも思います。
本当に逃げようと思えば,逃げるだけではだめで,逃げた上で自分が行きたい場所にたどり着くための道を探さなくてはなりませんから,案外壁をよじ登るかぶっ壊して突き進むかするのと同じぐらいの努力が必要なことが多いからです。


目標達成の通過点として迂回ルートが見つからない障壁から逃げることはできません。
壁を迂回したり,少し休憩していたら低くなったりして,目標にたどり着く経路が別にあるのなら,その壁のクリアはマストではなくなるので,逃げることは可能です。
そうでない壁(超える以外の方法がなく,どうしても超えなくてはならない壁)に対して嫌だ,やりたくない,と言うのならそれは逃げるではなく,目を逸らしているに過ぎません。

目的地を変えるということはできますが,目的地を変えるというのは本当に望んでいることなのかどうかを今一度自分と相談しなくてはなりません。目的地を変えることは,往々にしてコッソリ「逃げ」ていることが多いからです。

本当はやらなくてはならないこと。
乗り越えなくてはならない壁であること。
それをやらずに済ますということは,本当に達成したいことを諦めるということ。
そういうことを知っていながら,目を逸らすことは建設的でないという意味で意義が薄いと考えています。


しかしまぁ,立ち止まったり,ちょっと充電して壁に備えたり,壁の前で準備運動をしたりすることは必要かもしれません。
その自覚があるのなら,いつか目の前の壁に立ち向かう日がくるでしょう。


諦めずに継続することが,いつだって正しいとは限りません。
上がる見込みがない株なら潔く損切りして,新しいチャートを眺めることも必要です。
合理的判断ですかね。

安西先生だってそれはいいって言うと思うんです。

問題なのは,やりきってないのにやめるとか,大した努力もしていないのに諦めるとか,めんどくさいからやめちゃったとか,寝坊しちゃったから今日は学校行くのやめとこうとか,雨が降ってるから塾行くのやめちゃおうとか,宿題やってなくて先生に叱られるの嫌だから今日は休もうとか,まぁそういうことなんでしょうか。

堂々と胸張って叱られてこいと,その先にその壁を超えるヒントがあるんだと。だいいちその壁,あと一回叩いたらぶっ壊れる壁かもしれないんだし,とりあえず叩いてみな。

ってことかも。

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