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#43「ガッツポーズは相手に失礼」は絶対か

2021年の東京五輪の頃に書いた文章のリライトです。
柔道や相撲の話題に触れていますが、私はどちらも全くの門外漢です。関係の方に失礼な物言いがあるかもしれませんが、何卒ご容赦いただければ幸いです。

◼️東京五輪にて

2021年に行われた東京五輪、柔道の団体戦でフランスが優勝しました。
門外漢なので詳しいことは語れませんが、フランスの先鋒の確かな実力と勢いのある試合振りは見事で、その勢いを最後までひっくり返せなかったようです。
それぞれのポジションでの役割を活かす団体戦ならではの面白さがあったように感じました。

フランスはとても良いチームで日本に勝った喜びは計り知れないことと思います。
でもやはり、これは彼らにとってスポーツでゲームなのかなとは思わざるを得ない立ち居振る舞いが見られました。
同時に、これは彼らに限ったことではないな、とも自省しました。

◼️フランスは良いチームでした

フランスのチームにはまとまった力を感じました。
剣道の団体戦でも相手にあのときのフランスのようなチームが出てきたら脅威でしょう。

絶対王者的な存在に立ち向かうための選手の起用から試合運びまで理想的であったように見えました。
チームとしては、私はむしろ好感を持って見ていました。

ただ、立ち居振る舞いについても武道という目線で見れば??ということになるわけですが、おそらく彼らに何か説いても伝わることはないでしょう。
なぜなら、言い切れるものではありませんが、この「根本」について日頃考えずにトレーニングしていると思うからです。
根本を問う文化がない、と言っても良いと思います。

武道に関わる私としては目を覆いたくなる振る舞いもありましたが、彼らは武道の稽古をしていないわけで、問題提起にはなれど否定することにはもはや意味がないんだろうな…という思いです。

◼️敗者への配慮とは

「敗者への思いやりがない」「相手に失礼だ」という武道の本家(であるはず)の日本人の声は、あらゆるところで聞かれます。

最近ではだいぶ有名になりましたが、剣道の試合では、有効打突を取ってもガッツポーズをすればその一本は取り消しとなります。
これは剣道が武道としての矜持を守り通そうとする事象のひとつだと思います。
そして、武道のそれを意識しているのかわかりませんが「ガッツポーズは不可」という声は、他のスポーツでも言われるようになり久しくなりました。
わかりやすいどころでは、高校野球などもそうでしょうか。
メディアでもコメンテーターも嘆かわしやとばかりに語っている様子が見られます。
「うんうん、そうだよね」と頷く人もいることでしょう。

しかし、そもそも敗者への「配慮」とは何なのでしょうか。
私は、どうもそれを知らないまま語る人がいるような気がしています。

なぜガッツポーズをしないのか

「負けた相手の前で喜びを表現するのは失礼で、ショックに打ちひしがれている相手がかわいそう」
これが多くの人が考える「配慮」だと思われます。
でもその前に日本の武士の勝負とはどんなものだったのか、思いを馳せてみましょう。

◼️果たし合いとは

昔の武士の果たし合いは、「防具」も何もない真剣勝負でした。
一振りで身を断つ真剣での勝負はまさに生死をかけたものといえます。
自分が勝負に勝つことは、即ち相手は命を落とすー強い言い方をすれば、死ぬのです。

その相手には、自分と同じように積み上げてきた人生があり、財産はもちろんのこと、家族もいます。
相手は、その全てを失う覚悟で自分と真剣に勝負をしてくれるのです。

真剣勝負。
そこに相当な強い気持ちがなければ、真剣で斬り合おうなんて思えないはずです。

それを乗り越えて相手は勝負に命を差し出してくれ、そのおかげで自分は勝つことができます。
その勝負は、命を賭けてくれた相手があってこそのものであり、言わば自分が成長できたのも相手のおかげです。

そのことをよくよく噛み締め、相手のこれまでの生き様に思いを馳せたならば、ガッツポーズなど出せるはずがない…ともすれば、自分のためにも「勝って嬉しくて諸手を振り上げて飛び跳ねる」なんてことはできるはずがありません。

まずはそこから始まり、その中に「敗者への思いやり」も「含まれる」のです。

ただただ「喜んだら相手がかわいそうだ」というだけでは、むしろ相手に失礼なこともあるかもしれません。根底にある肝心なことがわかっていないということになるからです。

以前「喝!」で有名なコメンテーターさんが言ってました。
「ガッツポーズは控えめに。
肩から上(に手をあげる)はダメなんです」
そういうことではないんだけどなあ…と、かなり残念に思ったことがあります。なかなか面(おもて)には出さないものの、その辺りの話題になるといつもモヤっとしながらスポーツニュースやコラムを見ています。

◼️真剣「の」勝負

武道の世界には「勝敗よりも拘るべきもの」があります。
私も目先の勝ち負けよりも大切にしたいものがありますし、それがあるからこそ剣道などの武道は生涯続けることができるものなのだと思っています。
それでも武道には、生死を賭けた勝負に起源があります。

一方でゲーム性や娯楽をルーツとして成り立ってきたスポーツもあります。
生死を賭けた闘いとはまた異なるものもあり、そこに文字通りの「真剣の勝負」の概念を持ち出すと、さまざまな勝負の世界で歪みが生じていきます。
一時期、大相撲で海外出身の横綱の勝敗に拘泥した立ち居振る舞いへの賛否がありました。
横綱審議会は憂い、一部のコメンテーターはこう言っていました。

「真剣勝負なんだから、勝敗に拘る必死さが表れてもいいじゃないか。審議会にはもっと(考え方を)アップデートしてもらわないと」

つまり審議会の物言いは古いということなのですが、果たして古いか新しいかという問題なのでしょうか。「真剣の勝負」を理解しているのでしょうか。
いや、もしかしたら審議会側にさえ、真剣の勝負と真剣な勝負の違いを理解していない委員がいない、とは言い切れないのかもしれません。

私は相撲のことはよくわかりませんが、「相撲はそもそも神事であり、興行でしょう。だから気にしなくていいんじゃない?」と言ったらおそらく関係者の方は立腹されると思います。

ゲーム性のあるものか、真剣の勝負か…その両者のどちらが優れているかとか、重みがあるかということを論ずる気はありません。

ただ、「喜んだら相手に失礼だから」と全てを丸め込み、それを美徳とするのもどうかな?とはいつも思っています。

なお、私は剣道で一本取ってガッツポーズしようとすら思ったこともありません。そこには色々な思いがあるから…なのかもしれませんが、そもそもこの世界はそういうものではないというひとつの文化のもとに育ってきたからなのだと思っています。

◼️あとがき

真剣の勝負がどういうものか?
これを考えていくと剣道の質自体が変わっていくのではないかと思います。
スポーツの見方も変わるかもしれません。
文中に興行という言葉も引き合いに出しましたが、剣道が興行だったら?
などなど、この話の展開には後間がなくなるので、そろそろ終わりにしますが、最後に私の稽古仲間の「剣道LABO」主宰の三森定行さんがNew Roadに寄稿したコラムも紹介いたしましょう。

では、この辺で。

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