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#53 剣道とは地味なものである

前回は、合格した四段審査の立ち合いの内容について細かく書きました。
この合格したときの2回の立ち合いは、明らかに私の剣道観を変えました。
とはいってももう30年近く前の出来事ですので、その後また色々と上書きされた剣道観もあります。
そんななか、変わっていないのは「剣道は誰にでも可能性がある武道だ」ということです。「可能性がある」といっても人間ですから、もちろん得手不得手はあるでしょう。
器用に試合で勝ち続ける人もいれば、私のように不器用で、いつまでも思うように勝ちきれない人もいます。
ただ、不器用で勝ちきれなくても「良い剣道」を目指すことはできます。
「良い剣道」の解釈も人それぞれですが、方向性が決まっていけば、その方向にあるゴールに向けてコツコツと努力し、継続することが大事だと思います。そして、継続すれば何かしらの成果は生まれます。

■楽しいだけでは成り立たないのが剣道である

私は、剣道はもともと地味なものだと考えています。
時代と逆行するかもしれませんが、楽しいだけでは成り立たないのが剣道だということを受け止めなくてはならないと思っています。
導入に楽しさを取り入れるのは大切なことですが、その先にはどうしても試行錯誤しなくてはならないものがあります。
それが段階や年齢によって「楽しくない部分にある魅力を感じ取っていく楽しさ」を味わうことにつながっていきます。
ではその試行錯誤して得るべきものとはなんなのでしょうか。

◼️続けるために必要なものとは

結局のところ私は、それは基本であり「理」ではないだろうかと考えます。
理があれば、過剰なスピードもパワーも不要なはずで、ふた昔くらい前まで子どもだった世代は、剣道とはそういうものだと学んできている人が多いです。
しかし今は、スピードとパワーこそが重要で、いかにして審判の旗を上げさせるかを最優先に教える指導者も少なくありません。
どうすればスピードが出るか。パワーが出るか。一本をとれるか。
そういった情報が見える形で世の中に多く出回るようになると、子どもたちがそれを真似します。子どもに剣道をさせている親御さんがそれを真似させます。
そういった動きができる「センス」を持っている子どもは試合で勝てるようになっていきますが、勝てなければつまらなくなって辞めてしまうでしょう。

◼️地味なものが楽しさに変わるとき

剣道を始めさせる―人口を増やすためには、剣道の楽しい部分をクローズアップするのが大切であり、それは私も同感だと考えているのは前述のとおりです。
でも、長く続けさせるためには、楽しさ、華やかさを教えるよりも「理」を教える必要がある気もしています。

「理」を覚えれば、スピードやパワーがなくても相手を打つことができます。
そして理を追求し、それをつかむことに気付けるのは自分自身です。何らかのきっかけで理を体現できたとき、それが楽しみに変わります。
理の楽しさを知ったとき、人は更に「理」を知ろうとします。その軌道に乗ったときに「誰にでも可能性がある=自分にも可能性がある」と気づくことにつながるのではないかと思います。

自分で気づく機会を提供するためにも、地味でコツコツ続けることの良さを今の時代で広め、気づかせていく必要がある…でも、それが難しいのですよね。私自身、少年指導からは離れてしまっている状況なので、このようなことをいくら言っても説得力がないことを自覚しています。

■「打てれば感謝、打たれたら反省」からの脱却

剣道は何年続けても相手を打てれば楽しいし充実感も得られます。
そして打たれれば悔しく「打って反省打たれて感謝」の域には、どんなに口で言っても文章に書いてもたどり着かないのが本音ではないでしょうか。

私はいま、自分の稽古において「絶対に縁を切らないこと」「短時間で集中すること」に重点を置くというひとつのチャレンジを試みています。
このふたつの課題を同時に成し遂げるには、極力無駄を省いてく必要があります。

その無駄とは「打って喜ぶこと」「打たれて悔しがること(反省すること)」のふたつです。このふたつがついて回るうちは、今の私は先に進めないと感じています。
打突の分析も大きな部分では必要ないし、その瞬間をスローで振り返る必要もありません。無駄を省き絶対に縁を切らない稽古は、普通の稽古の何倍も苦しいです。
しかし、ほかの人が1時間かけて得るものも、20分程度で得ることができる稽古だと信じていますし、それが実感できた経験も多少あります。
そしてそのような稽古を、ほかの人と同じように1時間続けられるようになったときには、相当な地力がついているはずです。

縁を切らずに短時間で稽古を仕上げるためには、必ず「理」が養われます。
縁を切らない稽古は、理がなければ中身がなくなるということに気付く稽古でもあるのだと、最近は感じています。これは審査も同様です。わずか1分程度の時間で一本ずつ出す技をどんなものにしようかと考え、有効に結びつけるということは容易ではありません。
普段は時間をかけて一本打てたかどうか?を確認しながら稽古し、いざ審査となるとそれを短時間で行う…これではかなり無理があるような気がしませんか。

■今回のあとがき

冒頭に書いたように、前回の投稿では四段審査の内容を細かに書き連ねました。読者の方から「五段、六段、七段の立ち合い内容についても書かれるんでしょう。楽しみです」というお言葉をいただいたのですが、私にそのつもりはありません。
四段は、私にとっての節目にあった象徴的な出来事として記録しただけのことであり、実際には審査ではいかにセオリーなどに気を取られずに、「集中しきる流れ」が存在したかが大切だと考えているからです。

もちろん、私自身も審査の1分程度の時間の中で、考えて過程をたどり、技を出していった記憶や計算というものも存在します。しかし、それを語ってみてもほかの人には役に立つことはなさそうですし、やはり審査は「どんな技が有効になったから合格した」というものではなく、日ごろ何をしているのかが映し出されるものだと感じています。
そしてその先にあるものこそ昇段審査の都市伝説からの脱却なのだといったん結論付けて、今日のところはこの辺で。

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