【読書ログ】藁を手に旅に出よう(3/4)

後半戦に突入し、場面は新人研修から2年後に移ります。主人公サカモトくんや研修に参加しているメンバーが悩んでいる場面から話が展開し、その後で寓話に繋げる展開が多くなってきます。寓話の一般的な教訓通りに近い読み取り方をする方針に少し寄りますが、要約の書き方は前回までと同様にしています。

前回以前のリンクはこちらから。
1回目(Session1~3)
2回目(Session4~6)


要約

浦島太郎はなぜ竜宮城に行ったのか?

寓話のあらすじ
浦島太郎はカメを助け、お礼に龍宮城に連れて行ってもらえた。竜宮城では、美しい乙姫様がいるなど、楽しく毎日を過ごした。太郎が村に戻ろうとすると、乙姫様が『玉手箱』をくれた。帰ってきた村は、何百年も経ったあとの世界だった。太郎は悲しくなって玉手箱を開けてしまい、みるみるうちに、おじいさんになってしまった。

一般的な教訓
良い行いをすると、良いこととして自分に返ってくる。約束を守らないとひどい目にあう。

✔  誰にとっても欠点のない制度はない
主人公のサカモトくんは、社会人2年目の前半で徐々に仕事で成果を出し始めることで、自信がついてきます。そんな中で営業手法の問題点を挙げ、仕組みを変えるために提案しますが「リスクがある」という理由であっさり却下されます。

納得いかないサカモトくんは、その後不満な態度を露わにするようになり、それに伴って評価も下がりました。そして組織に不満を覚えて転職を真剣に検討するようになります。そんな中で再び研修に臨みます。

研修では理想の人事制度について議論がされます。平等な制度か、数値を挙げた分だけ見返りがある成果主義か。多数決を取ってみますが、結果は見事にばらけます。業種や外部の経済環境、個々人の現在の状況や上司・顧客との相性、性格などにより、理想と思う人事制度は人それぞれ変わってきます。

✔ 野党思考と与党思考
環境に欠点があると断片的な事実を挙げて声高に不満を言い出す人のことを「野党思考」と呼びます。野党、つまり当事者であるという意識のない人は、いくらでも正論が言えてしまいます。

しかし、それを当事者の立場で実際に変えようと思うと、実はその正論は断片的だったり短期的なものだったりするので、簡単には変えられないことに気づきます。

多くの仕組みはシステム的に連携しているため、「こっちを直せばあっちに問題が発生してしまう」のようなことが起こるのが普通です。このことは当事者にならないとなかなか気づけません。

野党思考の欠点として、システム的な視野が欠けたまま正論的な批判をいうこと以外にもう1つ挙げられます。批判に疲れて外側に青い鳥を求めてしまうことです。つまり、「自分は正しいことを言っているはず。理解されないのはおかしい」と義憤に駆られ、突発的に理想郷を追い求めて動いてしまうのです。

✔ 与党思考になって気付けること
理想的といわれる組織でも、実はポジティブ51:ネガティブ49ぐらいの絶妙なバランスで成り立っています。素晴らしい組織でも実は突っ込みどころ満載で、プラス面とマイナス面は拮抗しているケースが多いです。

そんな拮抗した状況だからこそ、与党の立場の人には、批判を乗り越えてでも成し遂げたい「世界観」が必要になります。今の環境に不満があるのなら、自分が責任者だったら具体的にどうするのか?本気でやりたいことは何か?成し遂げたいことは何なのか?を考えてみる必要があります。

✔ 浦島太郎は竜宮城に行くべきだったのか
浦島太郎は竜宮城へ行くことの意味を全く考えていませんでした。助けたことの見返り、というだけで、竜宮城が何なのかも正確に知らないままに受け入れてしまいました。

浦島太郎に詳細な描写があるわけではないので、本書では登場人物の勝手な想像と前置きがあったうえでですが、浦島太郎は親の世話が大変だったり、毎日つまらない日常があり、モヤモヤとした現状を打破したいという欲求があったのではといいます。

そこに降って湧いてきたカメからの竜宮城という魅惑的なキーワードは、おそらく日常と比べたら刺激的な世界に見えたはずです。でも、たったそれだけのことでそこに開いていた非日常の入り口に疑問を持たずに入ってしまいました。

つまり、現状にただモヤモヤして不満だけを感じる「野党思考」の人にとっては、その外に広がる世界というのは理想的な別世界のように見えてしまう、という警告かもしれません。自分はこうしたい、という確固たる軸がない人にとっては、ちょっとした刺激にすぐ反応し、あたかも外側に完璧な世界があるかのように思ってしまう危険性があります。

アリがキリギリスに嫉妬する理由

寓話のあらすじ
夏のあいだ、虫の食べものである草花はたくさん咲いていて、キリギリスはずっと遊んで暮らしていた。キリギリスは、冬に備えてせっせと食べものを集めているアリのことを笑った。しかし冬が来ると食べものはなくなり、キリギリスは空腹で彷徨い餓死しそうになってしまう。

一般的な教訓
後先を考えずに過ごすと後で困る

✔ 誰にとっても理想の上司はいない
主人公のサカモトくん含む、研修メンバーが上司に悩んでいる場面から始まります。えこひいきばかりしている上司、とにかく機嫌に左右される上司、完璧すぎる上司など、付き合いづらい上司にも様々なタイプがいます。

しかし、人間関係には相性やタイミングというものもあります。ある時期でイヤだと思っている上司がいたとしても、別の上司になったら状況次第では「前の上司のあの点は良かった」なんてことにもなりかねません。

人間関係の課題は考えるほどキリがありません。だからこそ、自ら意図してシャットダウンする必要があります。機嫌の波が激しい上司がいたときに、その人のことで頭がいっぱいになっているならば、上司に人生の主導権を握られていることになります。

「嫌われる勇気」でアドラーが述べているように、課題を分離する必要があります。仕事で成果を上げるのは自分の課題ですが、その成果を評価するのは上司の課題です。この2つをごちゃ混ぜに考えてはいけません。

大事なのは「自分の課題」だけにフォーカスして考える、ということです。自分の成果について最善を尽くしたら、あとは誰がどう評価するかは知ったこっちゃない。それくらい切り分けをしないと、私たちは気づかぬうちに他人の人生を生きることになってしまいます。

もちろん上司や顧客を無視しろといった極端な考えをする必要はありません。大事なのはまず自分の人生の主導権を取り戻すことを優先的に考え、そのうえで他者と折り合いをつけるという順番です。

✔ 一人称で考える練習をする
まず、自分が何をやりたいか、やるべきかをについて、主語を自分という一人称にして語ってみましょう。主語が会社とかうちの部とかうちの上司というような「三人称」にしてはいけません。

会社などの組織で動いていれば、上司などの指示がきっかけとなって仕事が発生することもあります。その場合でも、指示をされれば何でもやるわけではないはずです。

例えば営業の仕事であれば、「会社が取り扱っているシステムを導入すれば、クライアントの業務が効率的になることを通じて、顧客の役に立てると感じている。だから自分はお客さんに営業する」という具合です。

上司や他人から、納得したくないがもっともであるフィードバックを受けた場合には、三人称、つまり上司からの意見を自分の一人称ストーリーに取り込んでしまう方法があります。

上司の言いなりになるのではなく、フィードバックをもとに気づいて、自分の意思でそれをやる、やらないを判断してしまいます。そこでは上司に対する感情はどうでも良く、ただ自分にとって良いかどうかだけで判断してしまいましょう。

小さくこういう練習をしておかないと、いつまでたっても「あいつがイヤだ、こいつがイヤだ」と目の前のことから逃げ続けることになりかねません。常に他人に主導権を奪われたままになってしまいます。

✔ アリはキリギリスが羨ましかった
目先の課題をしっかりこなすことを大事にするアリのようなタイプは得てして他人の人生を生きがちです。アリには大きな組織があります。その組織によってみんな支えられています。だからこそ、一旦アリの組織に入ってしまうと高い同調圧力が強く働きます。個人レベルのやりたいことは尊重されず、みんな自分の役割をわき目も振らずにやる構造になりやすいです。

そんなアリから見ると、自分のやりたいことを素直にやっているキリギリスはワガママな奴に見えます。本当は羨ましくても、自分はそう振る舞えないので腹も立ちやすく、余計に気に入らないという感情も沸き立つかもしれません。

そんなアリの視点からみたら、極端な話ですがキリギリスは不幸であって欲しい、と思ってしまう動機があります。自分はやりたくないことを我慢してやっているにも関わらず、それを放棄している人が幸せだったとしたら、自分の行動はいったい何なのか、という話になってしまいます。

当然ですがキリギリスの生き方が正解だというわけではありません。みんながキリギリスになったら組織も社会も崩壊します。本来あるべきところは、自分の人生を大切にして主導権を持ちつつ、他者や組織の視点をそこに取り込んでいく、というバランスの取れた生き方です。

花咲か爺さんの人生の尺度

寓話のあらすじ
ある日、優しいおじいさんは迷子の子犬をひろい、シロと名づけた。
シロは成長し、おじいさんに「ここほれわんわん」と大判小判のありかを教えてくれた。

しかし、そのことを知ったいじわる夫婦が、自分たちもお金持ちになりたいばかりにシロを殺してしまう。結局、シロの灰は枯れた木に花を咲かせるふしぎな灰となり、やさしいおじいさんは花咲か爺さんとして有名になった。

一般的な教訓
良い行いをすれば良い結果が、悪い行いをすれば悪い結果が返ってくる。

✔ 目的意識をどう考えるか
話は主人公サカモトくんの同期が明確な目的意識を持っており、それをサカモトくんが羨むところから始まります。曰く「海外、それもニューヨークに行きたい。ビジネスの本場だし、憧れの先輩も行っているし、その人も現地での経験は日本にいる数倍は大きいと言っている。そのあとは事業会社の社長もやってみたい」といった内容です。

その後、その目的について深掘りされると、同じ部署のエース級の人たちが軒並みニューヨークに行っているから、ということに繋がり、更には同期にとってニューヨークは「偏差値70の学校」と同じなのではという結論に至ります。

目的意識があること自体はとても大事なことですが、その目的が本当に本人の目指すところなのかは良く考える必要があります。

✔ 偏差値教の問題点
徒競走ではタイム、進学では偏差値、社内のキャリアでは出世コースの異動や出向など、決められた1つの尺度で他人より秀でることを目指すことを、著者は「偏差値教」と呼びます。偏差値教の特徴は以下の通りです。

  • 尺度は単一である。

  • その尺度は誰か他人が決める

  • その尺度の上位に入った人が偉い

偏差値教に入ると、その尺度をはかるためにまず他人を「記号」で判断します。年収や役職などの記号でないと人を判断できなくなります。わかりやすい「記号」がすべてだから、記号に表れない曖昧で抽象的なものに着目することはありません。

✔ 自分でルールを決められるマラソン
寓話を題材に社内研修を行う石川さんは数々の過ちを経て人生は「自分はマラソン」であると捉えました。しかも42キロと決まっているのではなく、ゴールの見えない長い闘いです。スタート直後のトラックを1番で走り抜けてもあまり意味はありません。

そして、どういう選手がそんなマラソンを走り切ることができるかも学びました。それは、その過程の「楽しみ方」を見つけた人です。「辛いけど頑張る」というメンタリティは短期間しか続きません。長距離を走り切るには楽しむしかないといいます。

当然ですが、どうやったら楽しめるかは人それぞれ違います。人が決めたルールから一旦離れて、自分が楽しいことは何かを考える必要があります。つまり、我々が参加しているのは「自分でルールを決められるマラソン」です。必ずしも速く走る必要はありません。後ろ向きに走ってもいいし走らなくても構いません。ルールを決めるのは自分です。

✔ 優しい老人が大出世したわけ
話はようやく寓話に移ります。欲張り爺さんは「金」という単一の記号的なルールで生きていました。一方、優しい爺さんは「周囲の人たちの幸せ」というような非常に抽象度の高い、自分が定めたルールで生きています。

ルールが異なれば見えるものも全く異なります。欲張り爺さんには金に直結するものしか見えませんが、優しい爺さんには色々なものが見えています。なぜなら、「幸せ」という抽象度の高いことを実現するためには、いろいろなことを視野に入れなくてはならないからです。

さらに、一つの記号的な価値基準に縛られている人は、結果的にその価値基準を満たすことができないという皮肉な結果になります。つまり、結果的に金に頓着しない優しい老人の方が金持ちになってしまいます。

世の中にあるわかりやすい記号的な報酬は、多様な価値観を追求した結果についてくるオマケのようなケースが多いです。その多様な価値観の前提を理解せずに、欲張り爺さんのように表面的な行為だけを真似しても、手に入れられないことがたくさんあります。

人が何をしているとか、どうなったとか、些細な結果を見て焦る必要はありません。それよりも、人生は「自分でルールが決められるマラソン」なわけですから、まずは自分なりのルール設定から考えてみましょう。

感想

与党と野党の往復

野党思考の点は気を付けておかないとすぐにこうなってしまいかねないなと感じます。実際自分もこのような思考になっていた時期に心当たりがありますし、状況によっては今も無意識にこうなっている場面もあるかもしれません。

一方、常に当事者で在り続けると、物事を俯瞰的に見るのが難しい、頑張りすぎると疲弊する、といった事実もあるように思います。外から見ているからこそ捉えやすいことあるため、メリットもあると考えられます。

当事者で在り続けるのは色々な意味でしんどいため、立ち回りと考えないと疲れ果てて歩けなくなってしまうなんてこともあり得ます。一つの対策としては、与党としてしっかりと行動したら、一時的に野党として少し充電しつつ、今の当事者を客観的に観察しながら過去の自分の行動がどうだったかを振返る、といったことも一つの方法かもしれません。

ところで、浦島太郎には省略された結末があり、浦島太郎がツルに、乙姫さまがカメに変身して二人は結ばれる、といったハッピーエンド説もあるようです。あまりしっかりと追いかけていないですが、この本を機に寓話の正確な出典を追いかけてみるのも面白そうです。

他人に人生の主導権を渡さない

性格にもよるかと思いますが、この教訓の重要性は強調してもしすぎることはないかと思います。他人への配慮や空気を読むことは人間関係を円滑にするためには当然に重要です。しかし、それだけに終始してしまうと、常に他人に振り回され続けることになりかねません。

往々にして、振り回してくるのは苦手な人や価値観の合わない人だったりします。そこにエネルギーを注ぎ続けるよりは、好きな人や応援したい人のために行動する時間を増やした方が良いでしょう。

とはいえやはり、居心地の良い時間ばかりを増やしては成長のきっかけを逃すこともあり得ます。自分の性格を俯瞰的に捉えて、気づきや負荷のある環境と心理的な安全性のある環境のバランスを意識することが重要なのではないでしょうか。やり方次第では両立もできるように思います。

マラソンのルールを決めて楽しんで走る

「人生はルールを自分で決められるマラソンである」はぜひ実践してみたい考え方でした。そして長い距離を走る必要があるため、如何に楽しみ続けるかは、いくら工夫しても足りないようにすら思います。

時には応援したい人を誘って併走してみたり、周りを楽しませながら走ってみたり、寄り道をして山に登ってみたり、色々な工夫をしつつ無駄を楽しみながら完走を目指したいところです。

ルールや楽しみ方は長期的にじっくり考えたいところですが、少なくとも完走した時点で「あー楽しかった」と思えて、かつ周りの人も労いに来てくれるような走り方ができれば、それで十分なのではないかとも思います。

好き勝手書いてしまってるため非常に長くなってますが、次回完結予定です。継続してお読みくださっている方はありがとうございます!

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