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「良い人」というレッテルの脆さ;次の瞬間には人はあなたをビッチと呼ぶかもしれない

「ああ、本当にそうだよね。あの人はすごく良い人で信頼できるし、誰とでもうまくやっていけるから安心なんだよね」

カフェで近くのデーブルに座っている人たちから聞こえてきた会話の一部である。


私はその素敵という二文字が似合いそうなその良い人のことを想像してみた。爽やかで物腰の柔らかい人なのだろう。誰からも好かれそうな人はたまにいる。この人はどう間違えても人から少なくとも憎まれることは絶対ないだろうという類の人である。


だが、私はその「良い人」というレッテルがやたらと心に引っかかった。私のそういった良い人に対してのひがみと人から突然嫌われる恐怖と人から突然嫌われてきた過去の苦さが一気に押し寄せてきたからであろう。


あなたが「良い人」から外されてしまったなら、あなたを「良い人」から外した人にとって控えめに言ってもあなたは好ましい人ではなくなったのである。


良い人とは自分にとって都合の良い人であるということ


良い人というのは往々にして自分にとって都合の良い人をいう。

あなたが「良い人」というレッテルではなく無関心よりは少し好ましく思われている、という程度であった場合でもそれは一緒である。人が好ましいと思う相手というのは自分にとって例えば害のない人であったり一緒にいて居心地のいい人であったりするが、それらは言い換えると結局のところ自分と衝突することのない都合が良い人なのである。

人は自分にとって都合の悪い人を好まず、ましてやその人に良い人という称号を与えることもない。

相手にとって都合のいい人であることをやめてしまえばあなたはたちまち相手の好意と好意的態度を失う。だが悲しいかな、都合の良し悪しというのは相手のその時の都合で勝手に決められてしまうので都合のいい人でいる選択はいつでも自分にできるわけではないのだ。


「それならどうすればいいの!どうすれば少なくとも嫌われずに悪意をぶつけられずにいられるの?」

不安障害のある私はどうすればいいのだと思い悩み思い悩んだ挙句、ずっと気を張り続けなければ完璧でいなければと思いつめてしまい、さめざめと泣くこととなった。


だが私ほど不安に怯える人は少ないかもしれないが、人からどう思われても構わないという人はいても人から嫌われたいという人はいない。


「そこまで誰も考えて計算して行動しないよ」

そう口を合わせて少なくない人が言うかもしれない。そう言える人というのはそこまで考えることをせずとも良い人でいることのできる絵に描いたような「良い人」なのだろう。



良い人でいる(演じる)選択と自分自身でいるという選択


「あなたは良い人でいたいですか、それとも自分という自然体でいたいですか」


万人うけという言葉は存在するが万人うけをしているものは存在しない。何をしようとあなたを問答無用に嫌う人はいる。あなたの短所のような部分に顔を歪めあなたを嫌いだとする人もその短所を面白いと笑いあなたを好きになるという人もいる。


結局のところ私たちにできることというのは常識ある行動を踏まえ自然体でいる傍らで、傾聴することや褒めることといった当たり障りのない人から好かれる方法といったようなものをとり入れ自分を高めることである。

または心理学や人から好かれる方法といったような文献を読み漁り、自分の中で「これで嫌われるというならもう仕方がない。これが私の完璧でありベストであるのだから」といったモデルを作り上げ、それに縛られながら「良い人」というレッテルを保全していくことである。


どちらを選択しても、次の瞬間には人はあなたをビッチと呼ぶかもしれない。


だから自分の納得する自分の在り方というのを私たちは定めておかなければいけない。



cloudy





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