「さよならは別れの言葉じゃなくて」ではなく『さよならは別れの言葉でしかなくて』
セーラー服と機関銃の歌詞の一節
「セーラー服と機関銃」の歌詞の一節
「さよならは別れの言葉じゃなくて再び逢うための遠い約束」
さよならは別れの言葉ではない。果たして本当にそうなのだろうか。
Good byeはbyeとは異なった意味合いを含むように、さよならはバイバイとは異なる意味合いを含む
goodbye は bye とは異なった意味合いを持つ。goodbye はbye よりかたい言い方であり、もう二度と逢うことのないような時に使われることが多い。例えば亡くなった人に対してなど。
一方で「さようなら」もバイバイとは異なった意味合いを持つ。さようならはバイバイよりもかたい言葉であり、
「さようならば、これで別れましょう」
という意味である。
今日ではさようならはフォーマルな場面でしか使われなくなった。
2016年5月15日の産経新聞の
「さようなら」はもはや死語?…7割「使わない」と回答、永遠の別れをイメージ
という記事の中でさようならについてこういった記載があった。
「さようなら」に「永遠に会えない」というイメージがあるという回答は年齢層を超えて多く聞かれた。
セーラー服と機関銃の歌詞でいうと、さよならは別れの言葉ではなく「再び逢うための遠い約束」であるとしている。だがこれはさよならが永遠の別れのような場面で使われるということと綺麗に矛盾している。
永遠の別れのような場面とは
今ではさよならはフォーマルな場面(例えば先生と生徒の間)以外ではもう二度と会うことがないであろう時に使われる。だが、二度と会うことがないというのは死別のみを指すわけではないということをここで言及しておきたい。
この二度と会うことがないという類には交際相手との別れも振り分けられることがあるのだ。
一方が別れたいと別れの意思表示をしたとき、それは心変わりからくるものやそれが二人にとってまたはその個人にとって良い決断であると考えたためである。
(前提として「一緒になる別れる」というのは一人でできるものではないので、片側の気持ちのみで決めるのではなく相手にもそれに納得してもらう必要がある。建設的な姿勢でやり直すことを考慮して話し合いをすることを否定しようという趣旨でこの記事は書かれていない)
「別れたい」または「別れよう」と言われた場合、含意として
「あなたを私の優先順位の高い大切な人としての位置付けにおいておけません」といったことや、「あなたは僕/私といるより誰かもっと素敵な人といた方が幸せだ」といった自分自身への諦めのようなものがある。
どちらにせよ、少なくとも「今後の人生においてあなたを今までと同じ距離感においておくことはできません」ということなのである。
あなたには連絡を取り続けている別れた相手いるだろうか。私は別れた人のほとんどと自然と疎遠になった。彼らの連絡先はまだ知っているが連絡をとることはなくまた連絡をこの先とる予定も特にない。まるでその事実は彼らがもうこの世界に存在していないのと同じように感じられる。世界には存在しているが私の世界にかぎってみれば彼らは死んでしまったかのようである。
「恋人との別れは永遠の別れになりうる。または少なくともそう考えれば別れを告げられる側も踏ん切りがつきやすいのかもしれない」
さよならは別れの言葉でしかなくて、という結論
さよならは永遠の別れのような場面で使われる。「さよなら」、と別れを告げた相手に誰かが言ったならその誰かは別れを告げた相手に二度と会うつもりはないだろう。
セーラー服と機関銃の歌詞の「さよならは別れの言葉じゃなくて再び逢うための遠い約束」というのは、可能から遠いものであるが死別した人へのいつかまたどこかの世界で会えたならという期待を歌ったものである。だがその約束は約束というより希望と悲しみ続けないという決意である。
アメリカ作家のレイモンド・チャンドラーの本の中に「長いお別れ」(The Long Goodbye)という本がある。その本のキャラクターのセリフでこういったセリフがある。
The French have a phrase for it. The bastards have a phrase for everything and they are always right. To say goodbye is to die a little.
「フランス人にはそれを表す言葉がある。あいつらには全てを表す言葉があってそれであってそれら全部が正しいんだ。さよならを言うことは少し死ぬことだ」
さよならを言うことでさよならを言った側にとっては、さよならを言う必要のなかった自分が死ぬ。さよならを言われた側にとってはさよならを言ってきたその人が遠ざかるという意味合いで少し死ぬ。
やはり、さよならは別れの言葉でしかないようだ。だからその言葉が自分の目の前に現れたならそれは何かを葬らなければならないという合図だろう。
もうこの世にいないからと割り切れる悲しみはないが、もうこの世にいないものとすることで割り切れる悲しみも少しはあるのかもしれない。
cloudy
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