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「自信」と「プライド」についての連載

※この記事は、2013年に連載していた「自信」と「プライド」についての連載の再掲載です

(1)「自信」と「プライド」の違い

「自信」と「プライド」の二つは、僕たち人間とは切っても切れない関係があると思う。

もちろん、「環境」にも左右されるだろうけど、人間の生き方に大きな影響を与える要素なんだと思う。

プライドも高く自信もあるタイプ…
プライドは高いけど自信がないタイプ…
プライドはないけど自信はあるタイプ…
プライドも自信もないタイプ…

それぞれ傾向性が違い、歩む人生も大きく変わると思う。

では「自信」と「プライド」の違いとは何だろう?

いろいろあるだろうけど、個人的に決定的だと思うのは…
「プライド」が相対的なものであるのに対し、
「自信」は絶対的なものだということ。

「プライド」は他者に対して優れていることを示すこと。
他人や他の生物、環境より優れていたとしても、それで自分が能力を発揮しきれているとは限らない。
まして、それだけで本当に自分が優れているとは言えない。

逆に、「自信」とは自分に対して絶対的に感じているもの。
比べる相手はあくまで「自分」であり、他人や環境が変わろうが揺るがないものであるはず。

次の投稿から、この「自信」と「プライド」のバランスの違いが、僕たち人間にどのような影響を及ぼすのかを書いて行く予定。(完遂出来るかは実は自信がない…)

(2)「引きこもり」に多いと思われる傾向性

「自信とプライド」というテーマで始めているシリーズ投稿。
初回は『「自信」と「プライド」の違い』について書きました。

「プライド」は、他者との相対関係で自分を捉えるもの。
それに対して「自信」は、自分に対して絶対的な捉え方をした結果ということ。

今回は、「プライドが高いわりに自信がない」ケースについて書こうと思う。

「自信」と「プライド」の関係に興味を持ったきっかけが、精神科医の斎藤環さんの「ひきこもりの人たちは自信がないのにプライドが高い」というつぶやきから。
「高いプライド」に対して「自信がない」タイプの人は引きこもりになりやすいという。

例えば、この場合の「プライド」を「負け組ではないこと」と仮定すると…

今の世の中、「勝ち組」になれるのはほんの一握り。
勝ち組でも負け組みでもない中間層に安住するのも簡単ではない。

少しでも気を抜けば負け組みに滑り落ちる危険性は常にある。
「負け組にいる自分」をプライドが許さないなら、そういった恐怖と常に隣りあわせで、しかも不断の努力が必要になる。

自分にその自信があれば乗り切れるかもしれない。
だけど、その自信がない場合は、その余計なプライド故に、自分の中で整合性が取れずに、社会から自分を切り離さざるを得なくなるケースも出てくるはず。
その余計なプライドがなければ、「別に負け組みでもいいじゃ~ん」みたいな感じで済んでしまう問題かもしれないのに…

だからと言って、「プライドが高いわりに自信がない」傾向性のある人が少なくないのを、彼ら自身の自己責任で片付けるわけにもいかない。

先ほどの「勝ち組」「負け組」の例でも、「正社員以上ではなければ一人前ではない」というような風潮が社会に蔓延していて、小さい頃から嫌でもそういう意識が植え付けられてしまう。
そういう形で、その人を取り巻く環境から余計なプライドが形成されることも十分に考えられる。
「自信のなさ」に陥る背景にも同様に環境要因が確実に存在する。

だから、もし引きこもり状態に陥ってしまった人が自力でその状態を抜け出すことが出来ない場合は、そういった環境要因(特に両親の考え方や接し方)をどうにかする必要がある。
ただ、それはあくまで治療的なものでしかなく、予防をするなら、家庭内やその周辺だけでなく、社会全体で環境(関係)を改善していく必要があると思う。

「社会全体の環境(関係)」ということは、当然、あなたも僕も含まれる。

(3)正しいプライドの持ち方

「自信とプライド」と題してシリーズ化してお届けしています。

今回は、「正しいプライドの持ち方」について。

前回の記事で書いた通り、余計なプライド(見得とか世間体など)が邪魔して引きこもらざるを得なくなるケースは少なくないと思う。

個人的には、「余計なプライド」の非生産性に気づいてから、そういう余計な重荷を徐々にそぎ落とそうと努力してきた。
その甲斐あって、今では、そういう余計なプライドのためにストレスを溜めてしまうというようなことはなくなってきた。

余計なプライドがなければ、例えば、30代半ばで非正規雇用で、しかも独身なのに、自発的に地域のボランティア活動とかお祭りの手伝いに参加してしまえる。僕にはそれが出来る。

これは、よほどプライドが低くないと出来ないことだと思う。もちろん、僕にもちょっとはプライドがあり、そんな惨めな自分を地域社会に晒すのは辛い…
だけど、個人的には、そんなつまらないプライドより、「地域を良くしたい」というもっと生産的な動機を優先することが出来た。

つまり、余計なプライドを捨てれば、行動範囲も広がるし、発想の自由度もリミッターを外していける。

それでは、「正しいプライドの持ち方」とはどういうものなのか?

「持てば重荷になるだけのプライド」と、「最低限持つべきプライド」との線引きはどこで行えばいいのだろうか?

個人的な結論を言うと、プライドなんて、人間として最低限の権利である「人権」的なプライドだけで十分。

もちろん、人権の定義は時代によっても場所によっても違うけど、基本的には権利はみんな平等であるべきで、そこに優劣があってはならない。だから、権利が脅かされている人は、プライドをかけてとことん戦うべきだ。そこは妥協してはいけない。

世界の大きな都市では大体行われているゲイ・プライド・パレードも、その「人権的なプライド」を主張している。何も、ストレートの人以上の権利や優越性を主張している訳ではなく、元々剥奪されている権利と尊厳を取り戻そうとしているだけ。

ということで、個人的には、プライドの持ち方の正邪は、「人権」という線で引くべきだと結論してみた。その上で、それぞれが「自信(自尊心)」を高めていくのがベストだと思う。

それ以上に、他者に対してのプライド(優越性)を追及すると、どうしても話がややこしくなる気がしている。

次回の投稿では、プライドも自信もないタイプについて書こうと思う。

(4)外に出れても、自分の守備範囲内で引きこもってしまうケース

前回の記事では、プライドの正しい持ち方について書いた。
余計なプライド(重荷)を脱ぎ捨て、プライドを発揮すべきは、「人権」という普遍的で平等のものに対してであるべき、ということ。

余計なプライドでも自信につながる場合はあるかもしれないけど、「自信」と「プライド」の違いでも書いた通り、あくまでそれは相対的なもので、相手次第で変化してしまう程度の自信でしかない。

これまで書いてきたように、余計なプライドがなければ、他人と比べることによる劣等感などに振り回されることがなくなる。人によっては、これだけで気がずっと楽になる人が多いのではないだろうか。

ただし、それでも、尚、自信がない場合はどういうことが起こるのだろうか?

恐らく、自分自身がその状態にいるので、自分をモデルにして書いてみようと思う。

個人的には、長らく自信を失ってる状態。
だけど、余計なプライドはそれほど持っていない(つもり)。

物理的に外に出るのに抵抗はない。
非正規だとしても仕事をしながら経済的に自立した生活ならできる。
普通に、気の合う仲間とも遊びに行ったり出来るし、趣味もそれなりにある。

つまり、自分の守備範囲内のことなら何不自由なく出来る状態。

ただ、本当に自信があった頃の自分に比べると、行動力はずっと落ちた。
自信がないばかりに踏み出せないことは山ほどある。
物理的には外に出れても、自分の守備範囲内で立ち往生して引きこもっているような感覚がある。

変なプライドがない分、他人より劣っている部分があったとしてもほとんど気にしない。
だけど、昔の自分を覚えている分、何か新しいことにチャレンジしたり踏み出せないビビリな自分自身には納得がいかない。

以前の自分は、自分の守備範囲外のグループなどにも図太く入っていけた。

直接招待されてなくても果敢に入っていけた。
自分が入ればもっと場が楽しくなると信じられたし、実際にそうなっていた。
だから、そうすることに、迷いとか遠慮はほとんどなかった。

これが、自信を失ってしまったらどうなるか?

今の自分の場合、直接、招待されても考えてしまうレベル。
「歓迎されないだろうし、空気を乱すだけだ」というような後ろ向きな姿勢になって、迷いや遠慮が大いに出てくる。
明らかに歓迎されている場でないと顔を出しにくくなっている。

たとえ、活動や交友をもっと広げたいと願っていたとしても、自信がなければ踏み出せないことが多くなる。
結果的に、自分の守備範囲内に安住してしまい、それ以上の価値を生み出せなくなる。

この違いは、個人としても大問題だし、僕のように自信を失っている人が他にも沢山いるとしたら、実はとんでもないロスなんだと思う。
社会的には最低限の責任を果たしていたとしても、個々でもっと可能性を拓く余地があるのであれば、僕たちは損をしているということになる。

※「自信とプライド」最終回では、個人的にベストだと思える「余計なプライドがなく、自信を育んでいけるケース」で締めくくる予定。

自信とプライド(5)恐らくこれが無敵なパターン

前回の記事から大分時間が空いてしまいましたが、「自信とプライド」シリーズ最終回です。

前回は、自分をモデルとして、「変なプライドはないけど自信も無い人」について書きました。
今回は、以前の自分をモデルとして、同じ人間なのに、自信が身に付いているだけでどう違ってくるのかを書きたいと思います。

振り返ってみると、20代後半の頃の自分は、自分でも信じられないくらい怖いものなしで、何にでも果敢に挑戦していました。
今ではほとんど失われてしまっているけど、微かに残っている感覚からその頃の自分をこう表現してみました。

* 怖いものなしで「逆境はチャンス」、とワクワク待ち受けれる自分
* 関連性を無理矢理にでも捻り出し、自他共の幸福を遠慮なしに図太く実現できる自分
* 新鮮な気持ちで何でも心に刻めて、いつでもどこでも引き出して生き生きと語れる自分
* 周りの人だけでなく、世界の裏側の人や故人のことまで意識を広げ、祈れる自分
* スケジュールを細かに管理し、時間を戦略的で価値的に使える自分
* 真の楽観主義で、すべてに全力投球しても疲れない超前向きな自分
* 周りの人を触発させ突き動かせられるような、一生懸命で輝いている自分
* 「例え失敗して信頼を失っても必ずまた流れが来る」と信じることができ、速やかに次の一手に移れる自分
* 嫌な人や苦手な人ほど真剣に祈れて、何でも無駄にせずに自分の糧に出来る自分
* コンプレックスさえも笑いに変えられる、余計なプライドのない自分

これは、余計なプライドがないのに自信に満ちているパターンの一例。 
比べる対象は他人ではなく、あくまで自分。
他人より劣っていようが、過去の自分より前進出来ていればいい。
そういう境涯にいれば、お互いの成長について讃え合えるようになる。

個人的には、このパターンがベストだと感じています。

もちろん、もっとすごい人はこの世界にごまんといるはずだけど、自分の例を見てみても、一人の人間が自信を失うだけでこうも違うのかということを痛感しています。
たかが僕ごときが自信を失って潰れたとしてもほとんど影響は無いだろうけど、周りの多くの人が自信を失って能力を発揮出来ないとなると一大事ですよね。

日本の多くの人がこの無敵のパターンを身につけた時に、どれだけ日本が変わるのかを想像することがあります。
余計なプライドを捨てるのはなかなか難しいけど、周りの働きかけでどの人も十分な自信を持つことは可能のはず。

この連載が、そんな希望のある方向性に日本が向かうための助けに少しでもなってもらえたらと願いつつ、連載を締めくくろうと思います。


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